約束と誓い
「……私は――」
重々しく呟いたロマリエの声は、悄然さが含まれていた。クリパスは恐る恐る顔を上げる。抑揚に乏しい表情で、ロマリエは扉に寄りかかり立っていた。
ザンカが部屋から出て、しばらくしてからクリパスは目覚めた。そして、隣にいるはずのシュコウがいないことに愕然とした。しかも、代役として居るのは、ザンカではなく、神妙な面持ちで扉を背に立つロマリエだったから尚更だ。互いに声をかけることもなく、時間だけが刻々と過ぎていた。それはまるで、故意に無関心を装っているように見えるほどだった。
クリパスはベッドの際に腰を下ろし、足をプラプラさせていたが、両の膝に置かれた握りこぶしが、微かに震えていた。握られた拳の中は、じんわりと汗ばんでいる。無理もない。ヨウヒに買われてから、ロマリエと二人っきりになったのは、今が初めてだったのだ。
「う…ああ…」
クリパスがロマリエに向けて小さく声を掛けたが、ロマリエは気付いていない。本来なら、従者であるロマリエからクリパスに声を掛け、気遣いの言葉を一つくらい出すものだろうが、そんな余裕はロマリエにはなかった。
今の彼の思考回路の大部分を占めているのは『これから自分はどう動けばよいのか』と『『彼』をどうすればいいのか』だった。
数秒が数時間に感じられるほど長く、重い時間の中に身を投じていたのだろう。クリパスに服の裾を引っ張られるまで、彼が足元にいる事に気付かなかったのだから。
「王…子…?」
ロマリエは目を瞬かせた。這って移動したのだろう。洗い換えにと初日にサラが用意してくれた、幼い頃ザンカが着用していたという曰く付きの着衣が埃で汚れていた。
クリパスが瞳を大きく開き見上げている。ロマリエは目頭が熱くなった。
(だめだ! 目を逸らしては……)
クリパスが自らロマリエに歩み寄ったのは、彼が目覚めた時の一度きりだった。
何か訴えたい事があるのかもしれない、と思ったが、彼自身クリパスと視線を合わせる勇気がなかった。
「すみません、王子……命に代えてもお守りするはずの私が、このような――」
と、ロマリエは言いかけて止めた。
(――今更、一体何を言い訳するつもりなんだ)
ロマリエとクリパスの視線が交差する。
「――お父上と…いえ、国王と約束したんです。貴方を必ず連れ帰ると。ただし、条件が……」
ロマリエの漠然とした物言いが、クリパスの眉をくもらせた。何を問われるのか分かっているからだ。
「今は…その…もう……貴方お一人なのですか?」
表情がきごちなく強張っていくクリパスの顔を見つめながら、ロマリエはできるだけ優しい口調で呼び掛ける。
「王子?」
クリパスはこくりと頷いたが、ロマリエは不信感を拭い切れなかった。騙されているんじゃないだろうか。『彼』は嘘を付くのが得意だったから。今もしも、クリパスが喋れる状況だったとしても、疑惑の念は得られないだろう。ロマリエは落胆した。
『彼』は人を弄ぶことを嬉々としていた。冷酷なのではなく、残忍だった。人を傷つけても何とも思わない。それがたとえ身内だったとしても『彼』にとってはどうでもいいことなのだ。
善と悪。まさしくその両者が、体内で個々に存在するかのように、クリパスは感情の起伏が激しい子供だった。
ロマリエはぼんやりとクリパスの瞳を見つめ続けた。彼は思慮していた。
クリパスを助けるための苦肉の策とはいえ、奴隷への降格処置は本当に妥当な策だったのだろうか。
そもそも、本当に『クリパス』が精霊宮の大神官であるバルカンの殺害を行ったのだろうか。
思い返せば、疑念はいくらでも湧き上がる。
(きりがないな……)
しかし、あの時は考える余裕すらなかったが、今は違う。あの女の言いなりとはいえ、クリパスを守ることができるはずだ。このままクリパスと共に二人でひっそり暮らす事もできるかもしれない。なんて、そんな夢物語をロマリエは想像していた。
王子と従者でもなく、奴隷仲間でもない、一人の人間としてクリパスと向き合えていることを、ヨウヒに謝辞すべきだと思った。彼女が買い取ってくれなければ今頃彼らはこの世にいないかもしれないのだ。そして、ロマリエの思考は続けられた。
国王と交わした約束とはいえ、所詮口約束だ。本当に国王は、自分たちの帰還を望んでいるのだろうか。子供の奴隷がどのように扱われるのか、国王も承知のはずだ。
心身共に苦痛を強いられて、『クリパス』を変えるきっかけに繋がるかもしれないが、命を失う可能性が非常に高い。クリパスが第三王子ということは秘密裏の事で、奴隷となったクリパスは、王子ではなく単なる奴隷の一人に過ぎないのだ。そしてロマリエ自身もだった。
クリパスを守るために、二人一組で売られるはずだったのが、実際は最初だけだった。その最初の数ヶ月でロマリエはクリパスの顔をまともに見れなくなってしまった。
彼はいつも歯を食い縛り声を上げず、ただ事が終るのを耐えていたのに、その眼差しに非難の色が含まれているように思えてならなかった。疑心暗鬼に陥っていたのだろうと、今なら自分自身を理解できる。 しかし、そのような状態であったため、クリパスの舌がないことにも気付けなかったと言えた。だが、それはいい訳だ。その時気付いていたとして、同じ奴隷の身の上で何ができただろうか。ロマリエは自分の甘さにほとほと嫌気がさしていた。
その内、ロマリエは、自ら立てた誓いも、国王との約束も、奴隷に落ちたまま全てを忘却の彼方へと葬り去られる事を願い、その時をただ待つようになっていた。
あの女占い師に出会うまでは。
彼女が思い出させてくれたのだ。誇りであった王宮への勤め。立てた誓いを。
国のため、民のため、王のため、そして、誇りのために、と、ありきたりの誓いではあったけれど、それでも彼ら兵士は全身全霊を国にささげる。実際は、生活、家族のためだとしても。
ロマリエは、誠心誠意、国に忠義を尽すことが民の暮らしを少しでも豊かにする事に繋がると信じていた。
民から徴収した税で暮らす貴族たちの傍若無人さに、腸が煮えくり返るほど怒りも覚えた。だから何だ? 何も変わらないではないか。
どうしてもクリパスに王位に就かせたいわけじゃない。
国のためだと言いつつも、舌を断ち切ることを知らされていなかったのだ。
この先、この国を信じていいのだろうか。クリパスを無事に連れ帰ったとして、本当に彼の安全は確保されるのだろうか。
ロマリエは懸念していた。
女占い師に言われたとおり、ヨウヒに出会ったが、彼女たちはなぜ自分たちを手に入れたのか分からなかった。しかも、女占い師はなぜシュコウをヨウヒから遠ざけようとしたのか。
結局はクリパスに繋がってはいないだろうか。彼の死を望んでいる者が差し向けた策略なのではないか。ロマリエは不安でたまらなかった。
もう一度、彼を守れると思ったのだ。民を思い、国を思い、優しいクリパス。罪人だとしても、生きていくなら共に生きていけると、ロマリエは考えていた。そして、忘れかけていた誓いの言葉をあえて、宣言した。
「クリパス王子。私は貴方の味方です。世界で何が起ろうとも、私は必ず貴方を守ります。例え、この命尽きたとしても」
まるで、自分に暗示を掛けるように、ロマリエの言葉には力が込められていた。