言葉
小さく、まとまった体を、優しく、撫でる、大きくも、小さくもない、柔らかな手のひら。
『いい子ね。いい子……』
面影は今もまだ、脳裏に焼きついているはずなのに、意識して思い出す事はできない。
記憶をたどればわかる。黒髪に、黒い瞳の少女が自分を覗き込んでいたはずだ。
『あなたは、わたし? わたしは、あなた?』
その少女は、自分に問うた。でも、答える事ができなかった。あの頃は幼すぎた。自分も、その少女も。それでも愛おしさは感じていた。いや、今だからそう表現できるだけなのかもしれない。
そこは、天界と地上を結ぶとされる通路の一角であった。
何もない。円柱の建物の中心に椅子が一つ。光を誘う扉もなければ、月光を受け入れる窓もない。
狭くも広くない、そこは部屋ではなく、空間だった。
その空間の主である、女性が一人、中心に座している。だが、顔がはっきり見えなかった。
彼女が座るのは、豪華な玉座ではなく、単なる古びた揺れる木椅子だった。
金の刺繍を施した白い絹のドレスを身に纏い、長身である事を思わせる、すらりと伸びた腕が片方垂れ下がっている。手首には細い金の腕輪をしていたが、手首の太さに合っていない気がする。
どこから入ったのか、足元で跪き頭を下げる者が、厳かに声を掛けた。
「……トさま…」
返事をしない。
どうやら眠っているようだ。しかし、相手は容赦なく声を掛け続ける。
「アナト様?」
10回近く名を呼ばれ、ようやく気付いた。
またか、と、いつものようにアナトは思ったが、相手の方は懸念の相を浮き彫りに、アナトを覗き込んでいる。驚いたわけでもないのに、彼女の鼓動は高鳴っていた。
アナトは、深く息を吸ってさりげなく呼吸を整えると、少しかすれた声で答える。
「あぁ…大丈夫だ」
声をかけたのは側めの女であった。
特別美人でもない、どこにでもいるような女。いや、少し違う。左右の瞳の色が別々だ。左は青、右は琥珀色だった。彼女は、バラクィヤルの店主であり、奴隷戦士ロマリエの主である女だ。
「……顔色が」
アナトを気遣う言葉の続きを、アナト自身が遮断した。
「構うな。……で、ヨウヒは?」
有無も言わさぬその威厳ある雰囲気は、ヨウヒに少し似ているかもしれない。
「それが、その…」
側めの女が口ごもる。
「なんだ?」
「邪魔が入りまして、途中で……その……引き下がってしまいました」
「なぜだ?」
「奴ですよ! 奴がヨウヒ様を遠ざけたんです」
側めの女は興奮して声が裏返っている。しかし、アナトはうんざりと言った風に宙を仰ぎ見た。
「あの男をいつまで自由にしておくつもりですか? 奴は貴女様を裏切っているんですよ!!」
「そう怒るな、ベル。奴には奴の考えがある。それに」
一呼吸おいてアナトは続けた。
「奴は私を裏切らないよ」
側めの女、占い師はベルという名の女性のようだ。『奴』に好い印象を抱いていないようだが、アナトは平然としている。
裏切りは裏切りと思わなければ、裏切りにはならず。たとえそれが、主の命を危ぶむことだとしても。
「なぁ……お前もそう思うだろ?」
アナトの後方に影が伸びる。まるで鏡のように、影は黒々と光っている。中に男が眠っているのを見て、ベルは一瞬、自らの目を疑った。
シュコウだ。
「本当に、単独で捕らえたのですか……」
側めの女の声が震えている。
「そうだ。彼が私を思い、望んだからこそ、手に入れることができたんだ。しかし、ヨウヒの行動は予想外だ。なぜ、引き返す。大事な物を手放したというのに……」
「ですから、『奴』ですよ!」
「いや。『奴』が問題ではない。振り払おうと思えば『奴』の手など、あっさり断ち切るはずだ」
なぜ、それをしなかった?
アナトの中に、大きな疑問が残ってしまった。
なぜ、シュコウを手放した上に、何の成果もなく引き下がるなど、アナトの知るヨウヒの行動とは思えなかった。
彼女の知るヨウヒは、ある意味単純で、ある意味複雑な者。しかも、成人しているとはいえ、幼さの残る精神。それは、自分がいるからだと、アナトは理解していた。
「私は彼女を補うために生まれたんだ。『わたしはあなた…あなたは…わたし?』 もう一度、同じ問いを繰り返し、同じ答えを解くのか? ヨウヒ」
アナトの知るヨウヒは、気高く、美しく、冷酷な闇の女神。どこで歯車が狂ったのか。アナトは自問自答を繰り返していた。
心で、泣く事もできない、愛しいヨウヒ。やっと心を手に入れたのに、許されないなんて。
「アナト様……」
ベルが不安そうに眉をひそめる。アナトが瞳を閉じた。
「さぁ、時は進むのを待ってはくれない。そうだろ? ヨウヒ」