切なる、思い
瞼を刺激するほどに射す光はない。それでも、彼は彼女と共に過ごす世界に不満はなかった。
「……?」
彼は名を呼ばれた気がして目覚めた。いや、意識を取り戻したと言った方が正しいだろう。なぜなら、彼は体のすべての自由を奪われていたから。
指先、毛先一本として、自由ではなかった。
――コウ……。
「――――」
まただ。
朦朧とした意識が少しずつだが明瞭となっていく。しかし、彼は自分が置かれている状況をなかなか把握できずにいた。それでも確か事が一つだけある。それは、傍に彼女がいないことだった。
――――シュコウ……。
あぁ…。まただ。また、自分を呼ぶ声がする。シュコウは思い切って声を出してみた。
「――ヨウヒ?」
わざと彼女の名を呟いた。そして、喋れる事にシュコウは安堵したが、ヨウヒの名の響きに安心感を覚えただけなのかもしれない。
すると、次は声がはっきりと聞こえた。いや、頭の中で木霊した。
――違う。
「……そうだな。お前はヨウヒじゃない」
相手は、頭の中に言葉を直接投げかけている。脳に響く声の主に向けて、シュコウは言い放った。
「お前はヨウヒではないし、ヨウヒもお前じゃない。そうだろ? アナト」
言い終わると同時に、アナトの笑声が聞こえる。その声にシュコウは苦言した。
「その笑い、やめてくれないか? 君には似合わないよ」
――この声はすべてを解き放つもの。主に与えられた縛りは断絶した。汝は枷を外されたのだ。その手はゆっくりと動く……さぁ――。
「おい、俺に一体何をさせたいんだ?」
心地よい響きの声は、聞き慣れたはずのものに酷似していた。
両手が自然に持ち上がる。と…、指先に水煙の感触を感じた。頬に掛かる毛先がくすぐったい。風が緩やかにシュコウの体を包んでいた。シュコウはようやく、自分がどういう体勢でいるのか理解した。
うつ伏せで宙に浮いている。そして地面は……。
「重い瞼は軽くなる。闇を一掃する光のように――」
続けられた言霊は、音となりシュコウの耳に届く。これは暗示だ。彼の体は逆らうことなく緩慢に動きだした。そして、上げられた瞼。瞳に飛び込んできた光景に、シュコウは思わず差し伸ばした両手を引っ込めた。途端、罰とばかりに激痛が全身を襲う。
「…っ!」
シュコウは歯を食い縛り、痛みに耐えた。
真っ赤に染まった血色の水鏡。水面に映る光景は残虐の程度を示す。刈り取られた命の塊が蠢くと、水鏡がぼこぼこと音を立て沸き上がる。
犇き合う命。甲高い悲鳴が耳朶を劈く。怪訝に眉を深く寄せ、シュコウは嫌悪感を露にした。軽やかに嗤う声が聞こえる。
「ふふふ…君は相変わらずだね。でも、私の事を気に掛けてくれていたことには感謝するよ。本当に嬉しいんだ。でなきゃ、君をここに呼べなかったから。だからね。その水鏡は、君のために用意したんだよ」
声の主は姿を現す気配がない。
「……なぜ俺を?」
シュコウは分りきったことを聞いた。『奴』の答えはいつも決まっているのに。
「決まっている答えを聞くなんて、本当に君は面白いね。それとも再確認したいのかな? ヨウヒが君を欲しがるから、私も欲しい。ヨウヒが君を愛している限り、私も君を愛する。愛しているなら傍に居てほしいと思うのは当然だろ。だけど私は彼女のように君を縛らない。心と肉体、すべてを縛るヨウヒとは違うんだ。わかるだろ? 私は君に自由を与えてあげられる」
嘘も真も存在しない。虚無の世界。
眼前にある血色の水鏡。それはかつてヨウヒが作り出したものだった。
水鏡は世界を見通す千里眼の力を持っていたはず。しかし今、シュコウの目の前にあるものは、苦しみもがく人の魂が詰め込まれて、千里眼の力は感じられなかった。
死屍累々となる情景が目に浮かぶ。
「――自由か…。その言葉が真なら、この体勢を何とかしてくれないか。けっこうキツイんだ」
その余裕ある態度が、アナトの笑いを誘う。
「いいよ。ふふ…。でも君はもう私のものだ。ヨウヒと違うのは、心を自由にしてあげるだけ」
シュコウは黙って瞳を閉じた。また、声が聞こえる。それは過去の遺物だ。
――こっちへおいで。こっちへおいで。君がいるべき場所はそこじゃない。
遥か昔に聞いたヨウヒの声だ。
黒い瞳はいつも寂しげで、冷酷な眼差しを向けていた。
一人でもいい。いや、一人がいいと言っているようで……。
何かしてやりたかったわけじゃない。ただ傍にいてやりたかっただけ。もしかしたら、自分が傍に居たかっただけなのかもしれない。
彼が思うことはやはり、ヨウヒのことだった。
「――すまない……」
その声は誰にも聞こえない。
彼女は一人でも十分強かった。何事にも左右されず、冷静沈着で、どんな役目でも黙って受け入れていた。だけど、それは一体誰のためだったのだろう。そして、ふとシュコウの瞼の裏に思い描かれたのは、彼が知るヨウヒの姿ではなかった。
道を外したのではなく、外されてしまったのだとしたら?
止められなかったのか、それとも止めなかったのか。それは、ヨウヒへと向けられた疑問であった。




