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少年クリパス

 ――暗い。少年は胸の内でぽつり呟いた。

 夢も希望も持つことを許されない世界。それが、クリパスという名の少年が生きる世界のようだ。少年は膝を抱え体を小さく折りたたんでいる。彼は店頭に並ぶ商品の一つであり、手足には頑丈な枷がはめられている。動くこともままならない小さな木箱が少年の住まいであった。

 扉代わりの鉄格子の外側で射す太陽の光が、少年の骨と皮だけの足先を照らす。届きそうで届かない距離。伸ばせば触れることができる光の筋が人影に遮られた。

「なんだい。お譲ちゃん。その子が欲しいのかい?」

 クリパスの住まいを覗き込む一人の少女に、商人の男がさりげなく声を掛けた。 

 趣味の悪い金の刺繍が入った赤い繋ぎの服を着た恰幅の良い商人だった。丸い顔に似合うだんご鼻の下には細い口髭がある。頭髪を隠すように真っ赤なターバンが巻かれていた。

 少女は返事はおろか、振り返りもしない。鉄格子を通してクリパスをじっと見つめていた。

「おやおや……これはこれは」

 商人は、少女の態度から彼女を貴族の娘と思ったようだ。男は商品である少年の説明を始めた。

「年は十四。毛色と瞳は黄褐色。管理局への登録も済ませていますよ」

 両手をこねあわせ媚を売る商人には一切見向きもせず、少女は口を開く。

「いくらだ?」

 少女の声音には、なぜか威厳が感じられた。

 虚ろな眼差しでクリパスはその少女を見つめる。視線の先には、おもちゃ箱を覗き込む胸の高まりを味わう者がいた。

 ――また買われるのか……と、クリパスは他人事のように思った。しかも、よく見れば自分とさほど年の変わらない少女ではないか。黒い大きな瞳に小さく映る自分の顔が物凄く滑稽に見えた。

「申し訳ありませんが、成年者を同伴でないと売れない規則でして……。なんなら取り置きもできますよ?」

「取り置き? 成年者を連れてくれば売ってくれるということか?」

 子供らしさを感じさせない発言にも驚くこともなく、商人は頭を下げた。

「さようにございます」

「そうか。わかった」

 即答すると同時に立ち上がった少女に、商人は思わず見惚れてしまう。

 腰までかかる長髪は色濃い黒。陶器のように滑らかな白い肌にくっきり二重の黒い大きな瞳。小さい唇が微笑を浮かべていた。さらに、商人の気を引いたのは、彼女の服装だ。 貴族の御令嬢たちが好んで着る流行りのものではなく、肌の露出はなく部屋着のような質素なドレスだ。低身長の少女に合わせてか、レースの裾が地面に触れることがないようにくるぶし丈であった。足元は子供らしい網地のサンダルを履いている。

 広場の隅の家畜売り場へとずんずん足を進めていく少女の後姿を見つめ、商人は目を細めほくそ笑むと、クリパスが入っている木箱に取り置きの赤札を貼った。

 街の中心区である広場では、週に一度人身売買が非公式に行われていた。

 広場には奴隷商人に紛れて貴族たちの姿も多数見られたが、鉄格子の外から聞こえるにぎにぎしい声は、少年の興味を湧き上らせるに至らない。

 彼は知っているのだ。死臭が漂う薄暗い木箱の中で、しなる鞭が皮膚を裂き血を滲ませても、泣き叫ぶ声に耳を傾けてくれる人などいないと。

 痩せさらばえた体が完全に動かなくなるその日まで、買われては売られての繰り返しは永遠に続く。少年が風に揺れる赤札をぼうっと眺めていると、商人が身を屈め囁きかけた。余計なお世話、というやつだ。

「その命、永らえたくば大人しく言うことを聞き、相手に飽きられんことだ。貴族連中は奴隷を使い捨てと思っておるからな」

 逃げたところで行き着く先は同じだろう。所詮奴隷は奴隷。命あるとてその辺に生える雑草と同じ存在価値だった。

 どこへ行っても何も変わらない。

「おい。成年者を連れてきたぞ」

 突然、背後から声を掛けられ、商人は腰を抜かしそうになった。無理もない。合法とは言え法律的には認められていない微妙な取引なのだ。動揺を隠すように愛想笑いを浮かべる商人の男の顔は間抜けに見えた。

「これはまた随分お早いですな……」

 商人は、立ち並ぶ二人の姿に思わず目を奪われた。

 美少女の隣には長身の青年が怪訝そうに顔を歪ませて立っている。

 襟足にかかる程度の白髪に、冴える青い瞳は湖面に映る空を思わせ、すっと伸びた鼻筋に尖った顎。凛々しさを感じさせる端整な顔立ちの青年だ。着用している物は動きやすさを考慮してか、ゆったりと白い綿の長袖シャツを着ていた。丈夫そうな生地のズボンの裾は、こげ茶色の編み上げブーツの中に入っていた。ブーツと揃いのベルトに剣をさしていることから、少女を守る騎士のようだ。

 青年は剣呑な眼差しを木箱に向けると、主である少女に駄目もとで換言する。 

「人間を買うつもりか? やめておけ」

「いいからさっさと金を払え」

 通貨である丸硬貨には、銅貨、銀貨、金貨と三種類あるが単位はそれぞれ違う。

 銅はエルス。銀はミルス。金はスイン。それぞれ四分割して使用するのが基本だ。四分の一のことを一欠けと言う。銅貨十枚と銀貨一枚は同等の価値であり、銀貨二枚で五人家族のひと月分の食費がまかなえる。

「ニミルスと五エルスになります。あ、エルスは欠けでも構いませんが

「釣りはいらん」

 有無も言わさぬ命令に、青年は不承不承、銀貨を三枚商人の手に乗せた。これで取引成立だ。数枚の通貨が人一人の単価なのだ。なんと安いことだろうか。

 安堵のため息を悟られぬよう、商人は満面の笑顔を携え鉄格子を開く。のそりとクリパスが木箱から這い出た。

 十四歳の割には低身長で、痩せてガリガリの体に纏うのは服などではなく、薄汚れた布きれだった。日光を浴びて驚いたのか、クリパスは思わず顔を伏せた。整えられたとはお世辞にも言えないぼさぼさ頭ではあるが、肩辺りで切り揃えられている。

 少女が太陽を背に彼の前に立つと、商人に枷を外すよう頼んでいた。

 重くも軽くもない手械。カランと少年の価値を示すような軽い音を地面に響かせた。

 摺り切れた痕が痛々しく残っていたが、気にする風もなく少女が微笑み掛けた。

「可愛い顔をしているじゃないか」 

 栄養不足を象徴するような痩せこけた頬ではあるが、顔立ちは柔らかいものだ。黄褐色の丸い瞳は窪んで目尻が下がっている。表情は暗く感情が欠如したように濁った瞳をしていた。

 子供の奴隷は、強制労働のために使われることよりも嗜虐を好む貴族たちの遊び道具として扱われることがほとんどだ。彼らは嵐が去るのをじっと待つしかない。それがどんなに屈辱的なことで、人間らしさを失うほどの羞恥を味わうことだとしてもだ。そのうち慣れる。何度も人の手を渡るうちに抵抗感は薄れていき、物として扱われることに逆らってはいけないと、どんなに小さな子供でも本能的に悟るのだ。

 しかし、クリパスは違った。

 ――自分が犯した罪の代償だと考えればいい。

 そう思うだけで、ほんの少し心が軽くなる気がした。 

「名はなんと言うんだ?」

 クリパスが虚ろな目を上げると、商人がすかさず口を挟んだ。

「あの……その者はものが言えません」

 少女は険しい声音で問い質した。

「言えぬとはどういうことだ?」

 商人はたじろいだ。喋ることができなくても奴隷としては問題は無い。無駄口を聞かずに済むと、逆に好む貴族もいるくらいだ。だがこの客は好まないようだった。

「あの、その、意味不明なことをべらべらと喋るもので……」

 つい、と少女が目をすがめた。

「それは商人らしからぬ行為であるな」

 少女が言い終わると、従者である青年がするりと剣を首元へ突きつける。

「ひぃい―っ」

 商人は間の抜けた悲鳴を上げた。剣の切っ先がひやりと喉に触れる。殺される! そう思わせるには十分な殺意だ。

「滅相もございませんっ!! 私の元に来たときからそうだったんですッ。信じてください! お気に召さぬのなら代わりの者を――……」

 肩を竦め身を縮こまらせる商人へ、青年は無言の重圧を掛けた。見下げる冷ややかな目は殺戮を望んでいるようにも見える。

「やめろ、シュコウ」

 少女の一言で、シュコウは剣を鞘へと納める。

 商人は気抜けして膝をついた。噴出す汗がどれほどの恐怖だったのかを物語っていた。それを横目に少女は少年を観察する。

 骨ばった少年の指は、強く握ると砕けそうなくらい細い。薄汚れた衣がみすぼらしさを感じさせ、日に当たったことで色艶の悪さが明るみに出ていた。指で軽く突くだけで、後ろへぶっ倒れそうなくらい少年の体は衰弱していた。

「私の名はヨウヒだ。とりあえず宿を探すことにしよう。これからのことは何も心配いらない。私が責任を持つから安心しろ」

 黒髪を風になびかせ少女は微笑む。しかし少年の瞳には生気が感じられなかった。

 何をどう言われても、今までの貴族連中と変わりはないとわかっていた。

 油断は禁物。期待すればするほど、人を恨みたくなる。憎みたくなる。羨ましくなる。普通に生活している人々が。ほんの些細な幸せと呼べないほどの幸せに感嘆し涙する、ごく普通の人間。だけど自分は違う。

 憔悴した少年は立つことすらままならず、結局シュコウが背負うことになった。

 ヨウヒの歩幅に合わせてシュコウが二歩後ろをついていく。衆目はなぜかシュコウへと向けられている。奴隷を背負う貴族などいないからだ。異質なものを見る眼差しにシュコウは不快感を覚えた。

(同じ人間なのにこの差はなんなんだ……)

 シュコウは静かに怒りを溜めていた。すると、ヨウヒがわざと周囲に聞こえるように口を切った。

「この街は裏も表も曝け出す。よほど寛大な王が納めていると見えるな」

 少年がぴくりと肩を震わせた。

「ヨウヒ。こいつをどうするつもりだ」

 広場をひと際賑わす競技区の手前でヨウヒの足が止まった。

 人集りの中央には競戦が開催されており、今まさに激戦真っ最中だった。

 飛散する血が地面を濡らす。傷だらけになっても、奴隷戦士たちは戦いをやめることはなかった。やめられないのだ。それが生死の狭間であっても、彼ら奴隷の意思など尊重されることはない。彼らの自由は、死ぬと同時に得られるのだ。

 盛大な歓声がヨウヒの興味をそそる。惹き付けられるように競技内へと足を向けるヨウヒをシュコウがすかさず呼び止めた。

「待て、ヨウヒ。宿を探すのが先決だろうが」 

「私の勘は当たるんだ」

 にんまりと不敵な笑みを浮かべるヨウヒに、シュコウは長嘆息した。

 嫌々ではあるが放っておくわけにもいかず、主の後ろをとぼとぼと歩く。

 逞しい体を見せびらかすように、男の奴隷戦士たちは上半身裸で戦っていた。女性の戦士もいたが胸を隠す胸当てをしていた。裸足の戦士が多かったが、それは奴隷自体が靴を履かせてもらえないだけで規則ではなかった。男女混合で年齢もだ様々だ。手にする武器も様々で、剣士もいれば格闘家もいる。そして、魔術を使う者もざらにいた。

 戦闘形式は至って単純。相手が動かなくなるまで攻撃するのみであった。地面に這い蹲る者へと容赦ない野次が飛ぶ。高潮する奴隷戦士は狂気に満ちた笑みを浮かべ、一刀を振り下ろし首を切り落とした。降りかかる血飛沫を諸共せず、その男は立っていた。

 短く刈り上げられた艶やかな金髪に、シュコウとは異なる淡い青眼。高い鼻梁に上品な薄い唇。女性を感じさせる柔らかい顔立ちが、羅刹のような恐ろしさを感じさせた。

 その男の顔を見るや否やクリパスの目に生気が宿る。

「……あ…あっああ!!」

 奴隷戦士へと手を伸ばしていた。涙が溢れ出る。

 ――自分が犯した罪ならば、罰を受けるのは自分だけのはずだ。なぜ、彼がこんな仕打ちを受けなくてはならないのか。これは、クリパスの謝罪の念だった。

 精悍な青年の姿が思い浮かぶ。流れ出る涙は純粋なものだ。

「こらっ。暴れるなよ」

 シュコウが体勢を整える。慟哭する少年を一瞥し、ヨウヒが問うた。

「知り合いか?」

 クリパスは強く何度も頷き返す。

「んー……剣士か? いや――」

 意味ありげに呟くと、ヨウヒが颯爽と競戦の受付口へと歩みを進める。

「お、おいっ!」

 シュコウが慌てて追いかけたが、ヨウヒは受付の男と話を始めていた。

 白い半そでのシャツに膝下までの短パン姿。足元は靴ではなく、薄いサンダルを履いている。格闘家のように筋骨隆々男だが、小麦色に焼けた逞しい腕を胸の前で組むと、少女の背丈に合わせて身を屈めた。

「今戦っている男が欲しいのだが、いくらで売ってくれる?」

 突拍子も無いことを言い出す少女に、受付けの男は驚き噴き出した。

「あいにくここは売り場じゃないんだ、お譲ちゃん。それにあの奴隷は無敗の凄腕だからな。買うのは難しいぞ」

 短い金髪に鳶色の瞳が厳つい面持ちを際立たせている。男が白い歯を見せて笑った。

「お子ちゃまに扱える代物じゃない。諦めな」

 ぴしゃりと言い切られて、ヨウヒは口を尖らせしばらく黙考した。その様はまるで子供が拗ねているようにも見える。

 競戦とは、持ち主が互いに一金を賭けて奴隷同士を戦わせる。勝った方は相手の掛け金を貰える仕組みになっていた。勝敗は奴隷の生死、もしくは戦闘不能と審判員が下せば競技終了だがたいていの奴隷戦士は邪法を施されている。いわば操り人形だ。四肢が砕けようが心臓が停止するまで彼らは立ち上がり戦い続けるのだ。

 残虐な競戦場へ足を運ぶ娘も珍しいが、奴隷戦士を欲しがるのはもっと珍しい。一体何を考えてるのかと、受付の男は訝った。

「そんなにあの奴隷が欲しいのか? まぁ、なかなかの色男ではあるがなぁ」

 貴族の娘が買う奴隷となると、大半は見目美しい男娼まがいなのだ。

「顔は問題ではない。とりあえずあの男が欲しいんだ。だめもとで、相手に話を持ちかけてくれないだろうか。もちろんタダでとは言わん。私が負ければ掛け金の倍を支払う。ただし私が勝てばあの奴隷を買いたい。相手にとって勝ち負け関係なしに金は手に入るんだ。どうだ。悪い話ではないと思うが」

 困ったように男がぽりぽりと頭を掻いた。すると、渋る男の手にヨウヒが銅貨を数枚握らせる。手の中の感触で銅貨の枚数を数えると、男はにやりと笑った。

「ちょっとここで待ってな」

 金の力は効果大だ。

 交渉が成立することを祈りつつ、ヨウヒは奴隷戦士に目を移した。

 相手の急所へと躊躇い無く剣を振るうのは操り人形の特徴でもあるが、ヨウヒは不自然さを感じていた。

「お前はアイツをどう思う?」

 シュコウは押し黙り奴隷戦士を細かく見る。鋭敏な動きに鍛錬された均等な肉体。剣の腕前もさながら魔術も多少携えているだろう。だがヨウヒが欲するほどのものではないと、シュコウは思った。

「操縦者の腕がよほどいいのか、それとも当人が持っている技量かは分らんがな。強いのは確かだ」

「なるほど、強いか……」 

 そう返すと、突然ヨウヒが準備体操を始め、一抹の不安がシュコウの思考回路を遮る。「ヨウヒ。まさかとは思うが――」

 言いかけた時、受付の男が早足で戻って来た。

「承諾成立だ。もう後には引けねーぞ、お譲ちゃん」

「後悔はしない主義だ」

 意気揚々と小さな胸を張る。男が苦笑した。

「大した気構えだな。――じゃあ、にいちゃん。準備してくれよ。子供背負ったまま参加するつもりじゃねーだろ?」

 険しい面持ちのシュコウを見て、男は目をぱちくりさせた。

「何を言ってる。参加するのは私だ」

「――――は?」

 予想外の事柄に男は絶句する。そして、くつくつと喉を鳴らして失笑する男を、ヨウヒはむっと顔をしかめ睨んだ。

「はははっ。悪い冗談はやめてくれ。お譲ちゃんじゃあ話にならん。それにまだ死にたくないだろ? くく、ふふ、子供は子供らしく見学してようぜ。な?」

 涙目に言う男と、落胆しているシュコウを交互に見やると、ヨウヒのこめかみに青筋が浮き上がった。

「愚か者がっ! 私を誰だと思っているんだ」

 鼻息荒く、怒りを露にするヨウヒであったが、如何せん十四、五歳の少女ではいまいち迫力に欠ける。受付の男の笑いは止まらない。

「そう怒るなって。あんたのために言ってやってるんだ。このにいちゃんならともかく、お譲ちゃんじゃな。笑いものになる前に瞬殺されるのが目に見えてるよ」

「――」

 何も知らないとはいえ、受付の男の言動は確実にヨウヒの逆鱗に触れている。シュコウは後々のことを考えて、自ら名乗りを上げることにした。

「ヨウヒ……。俺が行くから」

 少年を背から下ろそうと身を屈める。――と、いきなりヨウヒがシュコウの膝を思いっきり蹴り上げた。

「!!」

 痛みのあまりに声が出ないシュコウは体制を崩す。ずり落ちそうになったクリパスは、必死でシュコウの首にしがみついた。

「うるさい。お前は黙ってろ!」

 捨て台詞と思える言葉を吐くと、ヨウヒは肩を怒らせ競戦場へと足を踏み入れた。

「おいおい、まじかよ。本当にいいのか、にいちゃん? お譲ちゃん、殺されちまうぞ」

 受付の男は覚悟を訊ねているのではなかった。競戦は遊び気分で出れる場では断じてない。常に命を懸けている。例え運よく生き延びたとしても、普通に生活を送れる状態に戻れる可能性は非常に低かった。だから奴隷を使うのだ。壊れたら新しいものを買えば済むから。

「まったく。どうなっても知らねーぞ!」

 受付の男が最後の忠告をする。ヨウヒはつん、とすまし顔で背を向けた。

「にいちゃん! 責任はとれねーからなっ」

 シュコウにも最終通告をする。反応を示さない青年に受付の男は苛立ち歯噛みした。 

 世の中間違ってる。限られた命を精一杯生きている奴等が弱者であり、金も権力も欲しいがままの貴族たちは命の尊さを知ろうともしない。

 競戦場では次の試合のため地均しをしている。血生臭い砂塵がゆるりと風の動きを象っていた。舞台である競戦場をぐるりと取り囲う観衆たちには、上位の貴族たちの特別席まで設置されている。

 法的に禁止されているはずの競技が、公衆道徳を無視する形で平然と執り行なわれている国。いつから風習が変わってしまったのだろうか。ヨウヒは寂しげに視線を落とした。

 階級と品位に守られる貴族たち。国の礎である法が上位たちの私利私欲のため無力化しつつある現状。皇族は見て見ぬふりだと言う国民たちは、困窮のために人身売買を予期無くされている。ヨウヒは憤りを感じる半面、煮え切らない気持ちであった。

 同じ国に暮らす者たちは、貴族だろうが皇族だろうが国民は国民ではないのか。王と奴隷の差はなんだ。人として何か違うものを持っているというのか。

「……人とは、愚かものだな」

 ぽつりと呟いた独り言が、受付の男の耳に届いた。

 少女の背中は小さくて狭い。だけど、重荷を背負っているように見えた。

(進む道が無いのなら作るしかない。選択肢が必要ならそれも自分で作る!)

 そうしなくてはぽっかり空いた胸の穴が、いつまで経っても塞がらない。

「さて。前に進むことにしよう」

 ヨウヒが、整備された戦場へと足を踏み入れる。何の迷いもなく颯爽とした足取りだった。

 受付の男が知らず知らず気を引き締めた。シュコウは少年を背負ったまま、入り口から観覧する。

 見送る視線を振り返らず、ヨウヒは無知なる世界と立ち向かったのだ。



「なんだ。子供の奴隷戦士とは珍しい」

「無敗の奴隷に立ち向かうとは無謀もいいところだな」

「もしかして魔法使いか? だとしたら面白いことになるかもしれんぞ」

 吐き気を催す野次が飛び交う観衆に、ヨウヒは一切興味を示さなかった。

 競技開始の粗末な青銅の鐘が二度叩かれる。

 鐘の音を合図に奴隷戦士は一気にヨウヒの間合いに踏み込んだ。表情は硬く、険しい。

「反応がいいな」

 振りかざした剣が太陽に反射して光る。

 刃が鋭く頬を掠めた。砂塵を起こしてヨウヒが大きく後退する。頬にうっすらと血が滲んでいる。ぐいっと手の甲で拭うと、傷は癒えていた。

 手を地面と垂直に翳すと、地中から杖が一本出現した。

「おおっ! やはりあの小娘、魔術を使うぞっ」

 歓声が湧き上がる中、競戦場には緊迫した空気が漂っていた。距離を図る奴隷戦士。相手の力量を測り間違えば命取りだ。それは戦士であれば誰でも心得ていることだった。

 奴隷戦士が脇を締め下から抉るように剣を振り上げる。放たれた衝撃波をヨウヒは杖で相殺した。

 ゆるゆるとヨウヒへと風が引き寄せられている。奴隷戦士は腰を落とし踏み止まった。

「人形の割りに、切り替えが早いじゃないか」

 ヨウヒは荒々しく地面に杖を突き立てた。

「我が声を聞け。この息は風を呼ぶ。耳を澄ませろ。血に抗うな。大地を湿らせる恵みの雨は邪気を導く穢れのものなり」

 太陽の光が暗然と翳り出した。現れた暗雲が不気味な唸り声をあげる。

 シュコウの背中で身を竦め、少年は体を小刻みに震わした。

「……怖いのか?」と問われ首を横に振る。

 シュコウは怪訝そうに眉をひそめた。わずかな疑念が生まれる。

 ざわつく大気の澱みに混じる血の匂い。それは一体誰のものなのか。

 呪文を唱える隙を与えなければいい。奴隷戦士の判断は正しかった。だが、与えられなくとも言霊は繋げる。奴隷戦士は果敢に斬りかかる。

「穢れを穢れとせず。癒しを癒しとせず。天は天。地は地」

 ヨウヒは紙一重のところで攻撃を交わす。風を切る音が頭上を掠めた。低姿勢のまま突進すると、がら空きになった懐へ踏み入った。そっと腹部へ手を当てると、息つく間もなく気を放つ。

「ぐぁっ……!」

 奴隷戦士の体がくの字に折れ曲がる。

 悶絶して倒れそうな体を、ヨウヒは手の平で顎を撥ね返し仰け反らせる。

 倒れることは許さない。そう言っているように見えた。

 ふらつく体を立て直す奴隷戦士。凄まじい気迫だ。殺気を携えた青い瞳がヨウヒを射るように見ている。と、助走なしでヨウヒが跳躍した。奴隷戦士の肩を踏み台に背後へと降り立つ。そして背中へと手を伸ばした時、奴隷戦士が肘を立てて勢いよく振り返った。

「おっと!」

 頭部に一撃打ち込まれたかと思われたが、ヨウヒは間一髪のところで身を翻し回避していた。乱れた黒髪が頬を撫でる。

「危ないなー。一発喰らうところだったぞ」

 言葉とは裏腹に平然としていた。呼吸も安定している。

 何もない地面から杖が現れた。一つ、また一つ。現れた杖は全部で四本。宙に浮いた状態で横並びに立っている。ヨウヒが軽く手を振り払った。四本の杖が一斉に飛び立つ。奴隷戦士は剣を握る手に力を込めた。

 なぎ払えばいいだけだ。打破するために力を溜める。だが予想は外れた。

「……!?」

 杖たちは、奴隷戦士から一定の距離をとると、四方に飛び散る。そして先端部を地面に突き立てて動きを止めた。最初の一本を含むと全部で五本。その五本の杖は、獲物を中心部へと追い詰めるための杭だった。

 ――囲まれたと思った矢先。

 耳をつんざく雷鳴と共に、虚空を引き裂き稲妻が地上へと落ちた。

 暗雲の中にちりりと雷光が走っている。雷はしなる鞭のように、次々と落とされた。

 観客たちは、皆揃って耳を塞ぎ瞼を閉じ天の唸りが遠ざかるまで息を詰まらせた。

 平静を取り戻した競戦場には、放電する五本の杖があった。

「なんと……! あの小娘、雷を呼び出したのか…っ」

 どよめく観客席。魔法使いは自然界の力を使う。だが、天から下る雷を呼び出す事が出来るのは強い魔力を持った者に限られるのだ。それを目の前の少女がやってのけた。信じ難い現状に観客は驚嘆した。

 電流を走らせ五本の杖が円を描いた。その中央にいるのは奴隷戦士だ。ヨウヒは彼を閉じ込める拘束結界を成したのだった。無駄に動き回られてはこちらも疲れが出る。しかも魔術を使う戦士となれば、尚更厄介だった。だからヨウヒは魔力を封じる円陣を呼び出したのだ。円陣の中で魔術を使えばどうなるか、戦士であれば気付くことだった。

 さらりと様子を窺う奴隷戦士に、ヨウヒは口許を歪めた。

(――動揺の色がない。精神を操られているからなのか、それとも場馴れしているということなのか。どちらにしても)

 ヨウヒが結界の中へ突き進む。電流を通り抜け、奴隷戦士と対峙した。

「これでお前は逃げられぬよ」

 奴隷戦士は雄叫びをあげ斬り込む。息もつかせぬ切迫攻撃を交わしながら、ヨウヒは高鳴る鼓動が何を現しているのか気付いていた。

 宙を舞う少女の姿。観客の目は釘付けになった。

 競戦場の中央に作られた結界陣の中で、彼女はまるで遊んでいるようだった。

 邪心にとり憑かれた奴隷戦士の狂気に臆することなく、対等どころかからかっているようにも見える。

 鬼が住むか蛇が住むか。人の心の中は誰にも知る事はできない。

 ヨウヒが人目を惹き付けるのは、見た目からの印象の差が大きいからだろう。しかも女子供は侮られやすい。

「邪鬼か?」

 観衆から囁かれる声には畏怖が含まれていた。シュコウは嘆息する。

(――ヨウヒの悪い癖が出た)

 相手を試す。そう言えば聞こえは良いが実際は違う。彼が反対した理由がまさにそれ、だったのだ。

 高揚感が箍を外してしまう恐れがある。彼女は子供ではない。だけど大人でもない。少しずつ相手の領域を侵して弄ぶ。それは甚振いたぶっているようにも見えるのだった。

 ついに奴隷戦士の手から剣が落ちた。

 呼吸が乱れている。肩で整えようとしているが、疲労回復には繋がらなかった。

「そろそろ飽きたな」

 興味が薄れ始めたヨウヒの前で、奴隷戦士が拳を構えた。

 ヨウヒは、意外な展開にひゅうっと口笛を吹いた。

「体術にも心得があると? ははっ! 面白い」

 一歩踏み込み一気に間合いへと入った奴隷戦士は、容赦なく拳を突いた。ヨウヒは余裕を持って腕を交差させ突きを止める。相手に退く間を与えず、ヨウヒは反撃に出た。

 しかし、この辺で止め時だった。亡骸の奴隷戦士などに用はないのだ。それに先ほどから鋭い眼光を送っているシュコウの機嫌もある。

(軽い運動にはなった。もう十分だな)

 ヨウヒの気を込めた蹴りが、奴隷戦士の腹部を狙う。察知した奴隷戦士は即座に腕で庇った。蹴りは腕を直撃する。骨の砕ける音がして、思わずヨウヒが舌打ちした。

(……余計な仕事を増やしてしまった――)

 手傷を治す手間を少しでも省きたかったのだが、そう上手く事は運ばない。

 調子に乗りすぎたと反省して、ヨウヒは蹲る奴隷戦士へと歩みを寄せた。

 観客の喝采が発狂じみたものへと変化していた。

 唸る声にひしめく大地。澱んだ空気が風に舞う。ヨウヒはふいに奴隷の所用者の存在を探った。立ち込める砂煙がその者らしき姿を隠してしまう。

「汝、名を申せ。我は――の者なり。この意に刃向かうこと良しとせず」

 身を屈めると耳を近づけて、唸る。

「んんん…? やっぱり刻印の縛りは邪法か。ならば」

 突風が起こる。と、ヨウヒは奴隷戦士が持っていた剣を手にし、天を指すように振り翳した。

「――その命、我がもらうぞ」

 その声は喚声にかき消される。振り下ろした刃は、奴隷戦士の背中を斬りつけた。溢れでる流血を土が吸収していく。奴隷戦士はぴくりとも動かなくなった。

「おい。審判。判決をしろ」

 細長いマッチ棒のような体の男が一人恐々と近付いてきた。

 ちらりと所有者を見るヨウヒ。日差し避けのテントの影ではっきりと顔は識別できなかった。

 審判員が手を挙げ大きく振る。競技不能の判決が出たのだ。ヨウヒは所有者に向けて声を大にした。

「勝利は私の手に下りた。この奴隷は頂いていく」

 相手からの返答を待たずに、ヨウヒは奴隷戦士の腕を掴んだ。ぐいっと引き寄せ肩に掛ける。ヨウヒは、少女とは思えない力強さで、奴隷戦士の体を引き摺って入り口を出た。

 外ではシュコウと少年が待っていた。その隣には、受付の男がいる。

「どうだ、まいったか! 私を小ばかにしおってからに」

 男は驚嘆するあまりぽかんと口を開けていた。ヨウヒは足で砂を蹴り上げ、男の注意を自分に向ける。放心状態から抜け出した男にヨウヒが問うた。

「この奴隷の所有者の名は何と言う?」

「ええ? ああ――名前? 登録に本名を使う奴なんかいねーよ」

「偽名でもいいから教えろ」

「んん~」

 難しい顔をする。個人情報の漏洩になるのだから、悩むのは当然だ。ヨウヒは黙って返答を待った。しばらくして男が声をひそめる。

「俺から聞いたって言うなよ?」 

 頷くヨウヒ。男は手の平で口許を隠すと耳打ちした。こっそりと打ち明けられた名前に、頬を引き攣らせる。

「愚かな………」

 その声には、邪な悪意ではなく悲哀の念が含まれていた。

 気が利くというか、お調子者というか。受付の男は手押し車を用意していた。

 荷台へと奴隷戦士を横たえる。シュコウがついでにと、背負っていた少年も一緒に乗せようとしたとき。

「俺が手伝ってやってもいいぜ。台車を戻しに来るの面倒だろ?」

 物凄くありがたい申し出だが、めちゃくちゃ胡散臭い。

「………何が目的だ?」

 男は邪気のない笑顔で答える。

「人聞き悪いなぁ。心配りと言って欲しいぜ。俺はザンカって言うんだ、よろしくな。えっと……シュコウ、だっけ?」

 整った眉間に深く皺を寄せて、シュコウは嫌悪感を視線に込めてヨウヒを見た。

「別にいいじゃないか。私は構わないぞ」

「これ以上、身元不明者を集ってどうするつもりだ?!」

 奴隷の少年と青年。それに大男。

「この国の事を聞く必要があるじゃないか」

「情報を手に入れる方法は他にもあるだろ」

「私がいいと言っているんだ。責任は私が持つ」

 とか言いながら持った例がないじゃないか、とシュコウは胸の内で愚痴った。

「宿はどこだい?」

 台車を突きながらザンカが訊いた。

「まだ決まってないんだ。対応の行き届いた宿屋を探してもらえるとありがたいんだが」

 ヨウヒの口振りは、すでにザンカを信用しているように聞こえた。シュコウは不服そうに睨んでいる。

「対応の行き届いた、とはなんだ?」

「奴隷を二人も連れてるんだ。ある程度気の利いた所ということだ」

「なるほど。そうだなぁ…。高級街は逆に物騒だしな。もしよければだが、姉貴が経営してる宿屋はどうだ? 俺の住居でもあるんだが、ボスコ通りでここからも近いし、飯も姉貴が用意してくれるよ」

「それは助かる」と、ヨウヒの二つ返事で宿屋は決定した。



 ボスコ通りとは小売り店が列を連ねる商店街であった。店といってもほぼ青空店舗。露店のようなものだ。下層階級者の住居地区が隣にあることからか、目を剥くような高価な物は売られていなかった。しかし、まがい物の割合が多いようだ。

「ザンカ。仕事は終わったのかい?」

 中年女性がにこやかに話しかけてきた。白いエプロン姿に手に小さな紙袋を抱えている。小太りの女性ではあるが、顔色があまり良いとは言えなかった。

「こないだ姉さんに助けてもらってね。よろしく伝えといておくれよ」

「ああ。おばちゃんもあんまり無理すんなよ」

 そう答えると、軽く手を挙げ通り過ぎる。その女性はヨウヒたちにもおじぎを返し遠ざかって行くと、ヨウヒが何気なく訊ねた。

「今の女性、どこか具合でも悪いのか?」

「ああ。旦那が急に死んじまってな。五人のガキを食わせるために昼夜問わず働いてるんだ。生活はかなり苦しいって話だ。うちの姉貴が時々菓子なんかを持って様子を見に行ってるみたいだけどな。貴族連中は娯楽に貢ぐ金はあっても、貧困家庭を助けてはくれない。国からの助成金なんかも下層階級まで届かないんだ」

 シュコウに背負われた少年は沈鬱な面持ちでザンカを眺めていた。

「……なるほど。生きるために奴隷制度を復活させたということか」

 生活基準の落差が激しいこの国では、人間が商品として扱われている。だが売り買いする者たちも生きるために必死なのだ。他人を戒め陥れようとも、命ある限り生きなくてはならない。家族を養うために手を汚すことになっても。

 たどり着いた宿屋の前で、シュコウは露骨に顔を歪ませる。

 三階建ての古びた建物ではあるがボロ屋ではない。店先に掲げられた看板には、『ソーテール』と黄色いペンキで書かれている。

「ちょっと待っててくれ。姉貴に話つけてくるから」

 そう言い残すと、ザンカは扉の向こうへと消えて行った。

「ヨウヒ…。本当にこんな所で寝泊りするのか?」

 物悲しそうにシュコウが見つめる。その様子からして、彼が考えていることは容易に想像できた。

 食事の用意をしてくれると言っていたが、衛生面は大丈夫なのだろうか。新鮮な食材を使ってくれるのだろうか。ヨウヒはその辺り無頓着だ。口にし慣れていない物で腹を下したりしないだろうか。

 まるで母親のように懸念するシュコウの横顔を、クリパスは肩越しから見ていた。

 ヨウヒが不意にクリパスの足に触れる。驚いた少年は身を捩らせた。

「……心身ともに苦痛を味わってきたか。だが、それは本当にお前に必要なものだったのだろうか」

 見上げる黒い瞳はクリパスの心を射抜くようであった。

 扉が半分開かれる。ザンカがひょっこり顔を出した。

「なぁ、お譲ちゃん。ベッドが三台しか部屋に入らねーんだがいいよな」

 頭数を数えると一つ足りない。だが子供二人を一人と数えたら三台で十分とも言えた。

「かまわ」

「見知らぬ輩とヨウヒを一緒に寝かせるなんてっ!」

 とんでもない! とばかりにシュコウが声を張り上げて威嚇する。

(中途半端にクソ真面目な野郎だな……)

 あえて口には出さないが、短時間でザンカはシュコウの性格を見抜いていた。

 まさに悪戯心がくすぶられる相手だ。むきになるほどからかい甲斐がある。

「あんたなら、俺の部屋に寝かせてやってもいいぜ?」

「なっっ!」

 何を想像したのか、シュコウは耳まで真っ赤になった。ザンカはわざと色気のある視線を送る。

「別にいいじゃねーか。男同士仲良くやろうぜ。それともお譲ちゃんを差し出すか?」 

「~~~~~~っ」

 唇を震わせて真剣に考え込む。ザンカは豪快に笑い飛ばした。

「あははっははっ! 冗談だ冗談ッ。いちいち真に受けるなよ~。心配しなくても男色の気はねーよ。お前うぶだな~。ちょっと可愛いところあるじゃねーか。もしかして未経験者か?」

 羞恥心と怒りで頭から湯気が出そうだ。

 ただでさえ熱い時季なのに、余計な発汗で脱水症になりそうだった。気恥ずかしさで足取りが重い。一方ヨウヒは気にする風もなく、ザンカの後ろを、てくてくとついて歩いた。

 ザンカが奴隷戦士を背負い部屋まで案内した。

 彼らの部屋は最上階の三階であった。階段を上がる際に生じる軋む音が、木造ならではの老朽化を示しているようだった。しかし、床板や柱には艶があり、通路には花や絵画といった癒しの小道具が、嫌味なく設置されていた。店主の性格なのだろう。清潔感を感じる空間が作られている。

「なかなかいい所じゃないか。私は気に入ったぞ」

 周囲を見渡しながらヨウヒが言った。

「そうだろ。見た目は古いが手抜き管理はしてねーぞ。姉貴はここら一帯を牛耳る女帝とも言われてるんだぜ」

「女帝とはまた大層な」

 疑り深いシュコウはちくりと嫌味を含ませる。

「会えばわかるさ。言っておくが美人だぞ。手を出すなよ」

 ザンカにとって自慢の姉のようだ。誇らしい顔で話を続けるうちに、部屋に到着した。

 良い具合に色褪せたドアに、古びた金のノブ。何も背負っていないヨウヒがドアを開くと第一声を上げた。

「私好みの部屋ではないか!」 

 一部屋とはいえ、脇には水回りが揃っていた。窓際にはベッドが三台横並びに整列していた。真っ白なシーツからは洗い立ての匂いがする。部屋で食事を摂れるようテーブルと人数分の椅子が用意されていて、丸いテーブルの上には赤いバラが一輪差している。床には手の平サイズのモチーフを繋げたラフが敷かれていた。白いレースのカーテンが清々しさを感じさせた。

「風呂と便所も付いてるぜ。ただし、水を汲み上げるのに少し時間が掛かるからな。蛇口を捻ってしばらく待たにゃあ、湯は出てこん」

 ザンカの説明を聞きながら、シュコウはクリパスをテーブルの椅子に座らせる。クリパスは挙動不審でビクついていたが、シュコウに逆らうことはなかった。

 ザンカが入り口に近いベッドに奴隷戦士を寝かせると、負傷部分に気を配りながら右頬を下に体をうつ伏せにした。ヨウヒが斬り付けた背中の傷は、応急処置を済ませているとはいえ軽傷ではない。しかも、骨折している箇所が腕以外にもありそうだった。

「ところでお譲ちゃん、こいつらの着替えはあるのか? それに戦士の方は早く医者に手当てを頼まねーとぽっくり死んじまうぞ」

 部屋の窓を開け放ち、ヨウヒが振り返る。湿った風が室内を一周した。

「医者は必要ない。私が治せる範囲だ」

「あんた本当に強かったんだな。バカにして悪かったよ。その年で魔法使いとは大したもんだ」

 はた、とヨウヒの目がザンカを捉えた。

「魔法使い、ではないな」 

 窓辺に背を寄り掛からせて、ヨウヒはザンカとの会話を進める。

「違うのか?」

「強いて言えば魔道師に近いだろう」

「ちょ、ちょっと待てよ、あんた。魔道師ってその意味分って言ってんのかよ」

 ザンカの強面から笑みが消えた。

 人中に秘められた力を使うことに差異はないのだが、魔法使いは自然界の柱となる四大精霊の力を借りて術を発動させる。一方魔道師は、邪法と呼ばれる闇の力を根源にしている。光が正なら闇は負。闇の精霊は悪魔の配下に属していることから、悪鬼とも呼ばれるのだ。

「っぷ。なんだその顔は。ごつい体躯のわりにずいぶん肝っ玉が小さいじゃないか」

 おどけた笑顔の裏には邪な心が潜んでいるかもしれない。そう思うと、ザンカはごくりと固唾を呑んだ。

 人を力で屈服させる力をこの少女が持っているというのか?

 恐怖とはまた別の感覚が、ザンカの中で蠢いていた。

「この世界では、魔法使いは神の使者とも言われるらしいな」

 窓から入る風がヨウヒの髪を優しく撫でる。

「ああ、神官たちがそうだな。癒しを中心に魔力を使うとか何とか……」

「癒しか――――なあ、可笑しいとは思わんか? 魔法使いが神の使者であるならば、魔道師は悪魔の使者となる。だが、いったい誰が神と悪魔を区別したんだ?」

「んー……小難しい話はよく分んねーけど、悪魔は人に禍をもたらす象徴だから神様とは別もんなんじゃないか」

「なるほど」

 うすく笑みを浮かべると、ヨウヒは窓の外へと視線を流した。

 活気に満ちた露店街は人々が忙しなく動いている。客寄せの声があちこちから聞こえるも、不安の色を浮かべる者たちは少なくはなかった。光が存在する以上、必ず影が生まれる。表向きどれほど着飾ろうとも裏は存在するのだ。

「悪いが衣類とマント代わりになる布を二枚買ってきてくれ。出来るだけ良質の物を頼む。それと果物を少しと……釣りは手間賃だ」

 シュコウは腰にぶら下げていた小袋から通貨を一枚手渡した。受け取ったザンカは驚いて目を見開く。

「金貨かっ! すっげーな! 久しぶりに見たぞ。でもこんなにいらねーよ」

「だが、足りない場合困るだろ?」

 納得しがたい様子のシュコウに、ザンカは言葉を付け足した。 

「この金貨一枚で家が買えるぜ?」

「……」

 シュコウは少し考えたあと、銀貨二枚を差し出す。

「上質の布となればこんなもんかな。まぁ十分だ」

 受け取るとザンカは部屋を出た。

 廊下でザンカはほくそ笑む。

 他人の素性をとやかく言える立場ではないが、行く先が思いやられる。買い物に出掛けてぼったくりに合うのが関の山だろうと思うと、ザンカは失笑した。

「ぼったくりに合っても、それ自体気付かんだろうなぁ」

 世間知らずのお譲さんと従者。不思議な気質を持った二人だが、ザンカは嫌いではなかった。 

 

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