第3話 『お願い』
ベッドと本棚、そしてテーブルセットのみが置かれた、綺麗に整頓された小さな部屋。リーズは視線だけぐるりと動かして、部屋の中を再度見回した。
木製のベッドの上には、白い清潔なシーツがひかれていた。折り目が強い無数の皺があるのは、今朝起きてから触っていないからだろうか。胡桃を彷彿とさせる優しい彩色の椅子に腰掛けていたリーズは、視線をベッドから本棚へと移動させる。本棚には、厚さも大きさも不揃いな、無数の本が隙間なく置かれていた。中には背表紙に文字がある物もあったが、人間の字など知らないリーズには、それが何の本であるのかは当然わからない。
まさか、人間が住む家の中を見る羽目になろうとは――。姿を見せてしまったことだけでも何だか後ろめたかったリーズは、当然落ち着くことなどできないでいた。
そんなそわそわしているリーズと、丸いテーブル越しに向かい合わせに座っているのは、先ほどリーズに手を振り返した、あの白い髪の少女だ。
髪同様の白い肌は、まるで白瑪瑙のように透き通っている。
年は十五ほどだろうか。わずかに膨らむ双丘は、まだまだ青い果実と言った様相。スッと通った鼻梁、そして全身から溢れるキラキラと透き通った、それでいて柔和な雰囲気。
種族は違うが、リーズはこの少女が、人間の中でも美少女と呼ばれる類の方だと確信していた。
肩より少し長めの髪を揺らしながら、少女は丁寧な動作でポットから紅茶を注ぐ。
(あいつが見たら歓喜しそうな子だな。あいつ人間の女の子に憧れていたみたいだし)
『人間の女の子って凄く柔らかいらしーぜ!? オレ、人間界に行ったら絶対に触ってやるんだ』とは、リーズの友人談。耳にタコができるほど聞いたこのセリフに、お前はどこの変質者だと毎回リーズがツッコんでいたのも、今となっては既に懐かしい。
リーズが故郷の友人のことをふと思っていると、「どうぞ」と目の前に白いティーカップが置かれた。
なみなみと注がれた紅茶を受け取ったリーズは、静かに口元へ運ぶ。ほんのりと爽やかな匂いが鼻を通り抜けた。精霊界の春の匂いと似ている、とリーズは思った。そして甘めに味付けされた液体を、彼は一気に飲み干した。
「…………」
「…………」
目を星のように瞬かせながら、少女はリーズの顔を穴が開かんばかりに見つめてきた。どうやら味の感想を聞きたいらしい。
(うっ……。なんつー目で見てくるんだ)
純粋さと意志の強さが滲み出る、美しい空色の瞳。思わず吸い込まれそうになってしまったリーズは、僅かに上体を反らしながら口を開いた。
「あ、ありがとう。その、美味かった」
「本当!? 良かった!」
正直、リーズは甘い味付けはあまり好みではなかったのだが、そこは社交辞令というものだ。今後の人間関係(片方は精霊だが)を円滑にするためにも、相手を傷付けるような態度は宜しくない。何より、これからリーズが彼女に頼もうとしているのは、口止めなのだから。
「お茶菓子持って来たわよ」
突如背後から聞こえた別の女性の声に、リーズは反射的に振り返っていた。
扉を押しながら入って来たのは、眼鏡を掛けた二十代後半と思われる女性。首の後ろで一つに纏められた艶を持つ黒髪は、腰にまで届こうとしている。濃い紫の瞳は長い黒髪と相まって、どこか神秘的な印象をリーズに与えた。白くて薄いコートのような服を身に付けた彼女の両手には、お茶菓子のスコーンを乗せたトレイが支えられている。
少女の身内にしては、髪の色も顔つきも、あまりに違いすぎる。しかし今のリーズにはそれはどうでも良いことだった。さっさと説明とお願いをして、この場を離れたい気持ちの方が強かったのだ。
「精霊とお話できる機会が訪れるなんて。感激だわ」
にこにこと上機嫌で言う女性に、リーズは気付かれぬ程度に肩をすくめた。
(くそぅ、最初から姿を消していれば、こんなことには……)
少女はリーズを裏口から家の中に入れた。そしてすぐにこの部屋のある二階へと上がったので、この黒髪の女性とは今が初対面だ。しかし、女性はリーズが精霊だと既に知っている。少女がお茶の用意をするために階下に行った際に、女性に話したのだろうと容易に推測できた。
やはり、あの時強引に去らなくて良かった、とリーズは気付かれぬように安堵の息を吐く。もしその選択をしていた場合、今頃町中にリーズの噂が広がっていたことだろう。
(しかし脱走に加えて精霊憲法違反か。あんまり考えずにこっちに来てしまったけど、俺どうなんのかな……)
「それで、精霊さんは何てお名前なのかしら?」
これからのことに漠然とした不安を抱くリーズの思考を遮断したのは、眼鏡の女性の言葉だった。
「……リーズだ」
「リーズ! 私はサフィアっていうの。こっちはアメジア」
リーズの名を嬉しそうに復唱したあと、白い髪の少女も自己紹介をした。瞳の中に宿っていた星が、いっそう瞬いている。
「私、精霊って初めて見た。架空の存在だと思っていたけれど、本当にいたんだ。尻尾も耳もふわふわなんだね」
「あのさ……」
自分に好奇の目を降り注ぎ続けるサフィアに、リーズは頭の後ろを掻きながら困惑気味に続けた。
「本当は俺達精霊は、人間に姿を見せてはいけないんだ。俺が君に見られてしまったのは、まぁ、その、事故なんだ」
「そうなの?」
「あぁ。だからこれは切実なお願いなんだけど……」
リーズは一瞬視線を宙に彷徨わせたあと、意を決してサフィアに頭を下げた。
「俺のことは絶対に、他の奴に喋らないんで欲しいんだ」
真摯に懇願するリーズに一瞬だけきょとん、とした顔をしたサフィアだったが、すぐに笑顔に戻った。
「それなら大丈夫だよ。私は家から外に出られないし、アメジアも口は堅いもの。だから安心して」
サフィアは笑顔でリーズに告げる。アメジアと呼ばれた眼鏡の女性も、微笑したままこくっと首を縦に振ってサフィアの言葉を肯定した。
「え……」
しかしサフィアの発言に頭を上げたリーズは、そのまま固まってしまった。
外に出られない。
彼女が言ったその言葉の意味が、わからなかったのだ。
「サフィアは、病気で外に出ることができないのよ」
アメジアはリーズに、静かに説明をする。簡潔な言葉だったが、リーズが理解するにはそれだけで充分だった。
「…………」
「いつ治るか全然わからないんだって。でもアメジアのお薬を毎日飲んでるから、いつかは良くなるよね?」
「……そうね」
あくまで明るくそう聞くサフィアに対し、アメジアは優しい微笑みで答える。
(何か……重い境遇の人間と会ってしまったなぁ……)
痒くもない頬をポリポリと掻きながら、リーズは何も言うことができず困惑する。見たところ元気そうだが、今は調子が良いだけなのかもしれない。この手の話にどういう言葉をかければ良いのかわからないのは、精霊も人間も同じだ。
「あ、そうだ。精霊って自然を操ってるんだよね? 私本で読んだことがあるよ。凄いよね」
天真爛漫。サフィアは、リーズの態度など全く気付いていないのだろうか。屈託のない笑顔で彼に話しかける。目の前の未知の存在がよっぽど気になるせいかは知らないが、彼女の朗らかな態度は、重い境遇なぞ微塵も感じさせるものではなかった。
「でも俺はまだ修行中で……。実は、ある精霊を探しに来ただけなんだ」
「ある精霊?」
眉をひそめて問うアメジアに、リーズは頷きながら答えた。
「あぁ。俺の姉なんだけど。……一応訊いておくけど、俺以外の精霊が現れたとか、聞いたことないよな?」
「ごめんなさい。そういう話は聞いたことがないわ」
「あーいや、別に謝らなくても。知らなくて当然だし」
リーズはぱたぱたと手を振りながら、申し訳なさそうに謝るアメジアに言った。
万が一の時のことを考えて聞いてみただけで、良い返事など最初から期待していない。
(……ん? 待てよ。この機会に人間界の地名について、この人間達に聞いておけばいいんじゃねーか?)
精霊は地域ごとに担当が決まっている。しかしその担当の地域は、選ばれた精霊のみが人間界に行く直前で知らされるのだ。選ばれた精霊ではないリーズが、人間界の地名を詳しく知っているはずもなかった。
だが姉が選ばれた精霊になり、何度か連絡をしてきたことがあるのをリーズは思い出したのだ。その時に担当になった地域のことを言っていたのだ。リーズは記憶の海の中から、懸命にその地名を手繰り寄せる。
「えっとさ、もう一つ聞きたいんだけど。エレオニア? って、そんな感じの地名があったりする? もしあったら、どの辺りか教えてほしいんだ」
「エレオニア地方はあるも何も、この辺り一帯のことだけど……。もう少し詳しく言うと、隣街を超えた西の山脈と、北の大砂漠も含むわね。あと、東の海もマルナという島まではエレオニア地方よ」
「本当か!?」
アメジアの説明を聞いたリーズは思わず大きな声を上げ、腰を浮かせてテーブルに両手を付いた。
「え、ええ……」
リーズの反応に驚いたアメジアは、ただ目を丸くして小さく頷いた。その隣で、サフィアも空色の瞳をぱちぱちとしている。どうやらかなりびっくりしたようだ。
「よっし、いきなり目的地とは俺って何て強運! そういうわけで、俺そろそろ行くわ。お茶ごちそーさんでした!」
なぜかビシッと敬礼したあと、リーズは部屋の外へ出ようと向きを変える。だがそのリーズの服の裾を、サフィアがそっと握り締めた。
「ん?」
「あ、あの……。また、会える?」
上目遣いで控え目に聞いてくるサフィアに、しかしリーズは首を横に振る。
「さっきも言ったけれど、精霊は人間に姿を見せてはいけないんだ。だからもう……」
そう言われたサフィアはしゅんと項垂れていたが、やがて顔を上げると笑顔を作った。
誰が見ても明らかな、『無理した』笑顔。しかしリーズはサフィアのその心遣いをただ静かに受け止め、言葉を発することはしなかった。
「お姉さん、見つかるといいね」
「……ありがとな」
サフィアの気遣いに礼を言うと、リーズは部屋を後にした。そしてアメジアに案内され、一階へと下りて行く。今まで嗅いだことのない、すっぱいと甘いが同居したような匂いが、リーズの鼻を刺激した。
階段を下りきったリーズは、目に飛び込んできた光景に軽く息を呑んだ。
まだ昼間なのに、仄かに薄暗い室内。その壁一面に設置された本棚には、ファイルがぎっしりと詰められていた。本棚の前には小さなカウンター。そして肩ほどの高さの細い棚が背中合わせに四つ、等間隔で部屋の真ん中に並べられている。その棚の上にはラベルが貼り付けられた小瓶が、所狭しと並んでいた。
「薬屋なの」
アメジアは軽く笑いながら、リーズに振り返った。
「今から私が言うことはただの独り言だから」
「へ?」
「独り言だから、ただ聞き流してね」
「……?」
突然不可解なことを言い始めたアメジアに困惑するリーズ。アメジアは彼を置き去りにして、カウンターに散らばっていた書類を本棚のファイルに収納しながら続けた。
「サフィアが外に出ることができないのは、病気のせいじゃないの」
「えっ……」
そこでアメジアの手が止まる。何かを躊躇うように視線を斜めに落とした彼女は、小さな溜息を吐いた後ポツリ、と続けた。
「……あの子は、人間じゃない」
「――――っ!?」
リーズの双眸が驚愕で見開かれる。
姿は勿論、気配まで、リーズが感じる限りサフィアは人間だった。人間以外の存在だと、疑う余地もないほどに。その彼女が人間ではないとはどういう意味だろうか。
「何を――」
「これは独り言よ」
掠れた声を出すリーズの言葉を、すかさずアメジアが遮る。再び本棚に手を伸ばしながら言うアメジアの横顔が、口を挟むなと雄弁に語っていた。
「だけど、あの子はそのことを知らない。ううん、知るべきじゃない。あの子だけじゃない、この世の全ての人間は知らないでいい。だからあの子には悪いとわかっていても、外に出すことができない。あの子は文句も言わず、私の言うことを信じて、ここから出ることはしない。寂しい思いをさせているというのは、私もよくわかっている……」
僅かにアメジアの声は震えていた。常時では聞き逃してしまってもおかしくないほどの、小さな小さな震え。しかし全神経をアメジアに集中していたリーズは、彼女が必死で涙を堪えているのを、容易に察することができてしまった。
「だから……。良かったらですけど、あの子の話し相手になってください……。こちらの我侭なのは十分承知しています。それでも、これは人間じゃない精霊さんにしか、あなたにしかお願いできないの」
「…………」
リーズは黙ったまま『人間に姿を見せない』ために姿を消した。そして彼女の『独り言』に返事をする。
「――考えとく」
小さく呟いたその時、チリンッという控えめな鈴の音と共に、入り口のドアが開いた。
「あ、いらっしゃいませ」
アメジアは瞬時に営業スマイルを作ると、入り口へ向かって声を掛ける。
外から入って来たのは、頭の毛がきれいになくなった老人だった。
「アメジアさん、家内が風邪をひいてしまいましてのぅ――」
リーズはアメジアに薬の催促をする老人の横を静かに通り抜け、薄暗い薬屋を後にした。