第20話 『真相と決断』
「精霊王……様……」
背筋が凍るのは、人間界へ来てから何度目だろうか。ありえない存在を前に、リーズはただ尻尾を震わせる。
「ラウド……。何で……」
リーズは茫然自失の体のまま、親友へと視線を移す。
リーズの気持ちが理解できると言ってくれた彼。ウィーネは精霊王の娘だと教えてくれたのも、彼だ。そして精霊王に対し、疑念が消えない様子を見せていた。『長老に知らせて何とかする』ために、精霊界へと戻って行ったはずだ。
それなのに。
なぜ彼は、精霊王と共に現れたのか。まさかラウドは、やはり精霊王の命令に従うことにしたのだろうか?
リーズの心に黒い波が立っていく。
そんな彼の心情を汲み取ったのか、ラウドはリーズから視線を逸らす。そして喉の奥から絞り出すような声を出した。
「違うんだリーズ。オレは、全てを終わらせるために精霊王様を連れてきた」
「全てを、終わらせる?」
ラウドを見るリーズの目から、訝しさはまだ消えない。
そんな二人の精霊のやり取りは、彼らの後ろに佇む精霊王の耳には届いていなかった。
王としての衣服に身を包んではいるものの、布に覆われていない箇所からは、ウィーネ同様の青い肌が覗いていた。まるで海の底を彷彿とさせる顔色。その彼の頬を、一滴の水滴が滑り落ちていく。
精霊王の灰色の瞳は、真っ直ぐとアルラズを捉えていた。彼の奥に『在る』娘を感知したのだ。
「人間に、精霊の力を与えるなど……」
寂しげに呟かれたその言葉は、誰に掬われることもなく、少し冷える部屋の空気の中へと溶けていく。精霊王は無言のまま、アルラズに向かって右腕を伸ばした。
アルラズの眉が上がる。
アルラズは突如現れたこの精霊が、精霊王だということを知らない。ただ、水の精霊を取り込んだアルラズの内部から、ある感覚が湧き上がってきていた。
彼は、同属だと。
精霊王は伸ばしていた腕を、素早く縦と横に振るった。
部屋の空気を切り裂く、水の破裂音。
次の瞬間には水でできた檻がアルラズの周囲に出現し、彼を閉じ込めていた。だが、アルラズは慌てた素振りを見せる様子はない。小さく肩を竦めただけだった。
「僕も舐められたものだね。こんなもので拘束したつもりかい?」
「一応私も、その子の父親なのでな」
父親、という単語が紡がれた瞬間、アルラズの双眸が見開かれる。
「娘を、返してもらう」
エンシオは両手を組み、指を複雑に絡ませて印を結んだ。直後、アルラズの頬に浮き出ていた青白く光る刺青が、さらに激しく発光を始める。
イィィイイイイイイイイン。
それはまるで、耳鳴りのような音だった。突如部屋中に響き始めたその不快な音に、リーズとラウドは思わず顔をしかめ、両耳を押さえた。
「ぐっ――!? やめ、ろ!」
音は次第に大きくなる。それと同時に、アルラズが身体を前に折り曲げ、頭を抱えて呻きだす。その顔は苦悶で歪みきっていた。
「ウィーネ、精霊王として命ずる。帰ってこい」
エンシオの低く鋭い声が、空間を切り裂いた。直後。
ゴポッ!
アルラズの口から、青い球体が勢い良く飛び出してきた。床に崩れ落ちていく彼の身体は、瞬く間に青を失い、元のアルラズのものへと戻っていく。
球体はエンシオの周りを一度だけ一周した後、あとは彼の掌の上でただふわふわと浮遊していた。
リーズは水の檻の中へと視線を移す。アルラズは完全に意識を失っているらしい。指先一つ動かす気配はない。リーズは誰にも聞こえない程度に、安堵の息を吐いた。
エンシオは意識のないアルラズと、青い球体を交互に見やる。
「馬鹿な……娘だ……」
哀れみと、慈愛と。
交わることが許されていない、禁忌の恋にその身を捧げた娘。エンシオは精霊王として、そして父親として、娘に対する複雑な胸の内を吐露した。
「いや。馬鹿なのは私だな」
その小さな自嘲の声は、静かになった室内に、波紋のように広がった。土の精霊の顔がエンシオの方へと向く。
「リーズ」
エンシオに低い声で呼ばれたリーズは、小さく肩を震わせた後、ぎこちなく彼へと振り返った。緊張からか、両の拳は強く握られている。
精霊界を抜け出してきたことへの非難か。それともウィーネのことなのか。精霊王がリーズに何を言おうとしているのか、彼には全く見当がつかなかったのだ。
「……はい」
「想像以上に、業務引継ぎの準備に手間取ってしまってな。結果として七年もお前を待たせる羽目になってしまった。本当に、すまなかった」
そして、エンシオはゆっくりとリーズに頭を下げた。精霊王のありえない行動に、リーズの理解が追いつかない。
「ちょっ、ちょっと待ってください精霊王様。とりあえずお顔を上げてください。何を仰っているのか、俺には全く――」
「トルスティが行方不明になった原因が我が娘にあると、私は七年前に既に把握していたのだ」
「――――っ!?」
精霊王の口から語られた事実に、リーズは息を呑み呆然とする。
「そんな……。だったら、どうして……」
「人間との接触。そして同族の魂を抜くという行為。娘が犯してしまった罪はとんでもなく大きい。だから私は部下に命じ、『紡ぎの間』の用意をさせていたのだ」
「なっ――!?」
紡ぎの間――。
精霊界のどこかにあるとされる、罪人を閉じ込めるための場所である。そこは一年が百年に感じられるほど、時の流れが非常に緩い場所であるという。これまでにその紡ぎの間に入った罪人は、数えるほどしかいないとされる。その扉が開かれる時は、死罪すら温いと判決が出た場合のみだったからだ。
「人間と接触していることを知りながら、娘を止めることができなかった私にも責任がある。だから私も、娘と共に紡ぎの間へと入るつもりだ。私が王の座から引いても問題のないように、業務の引継ぎも済ませてきた。新しい精霊王は長老様が指名してくださるだろう」
「…………」
そこでラウドが俯いた。精霊王が長老の元へ訪れた理由は、そのためだっだのだ。
精霊王が紡ぎの間に入る――。
そうなれば当然、精霊界には大混乱が生じるだろう。その混乱を最小限に抑えるために、エンシオは今まで念入りに準備をしていたのだ。
「私はこれから精霊界に帰り次第、娘と共に紡ぎの間に入る。出てくるのは数百年後になるだろう」
大きく空いた天井から風が流れて、この場に立つ者、倒れている者の体を等しく撫でていく。生温かい、少し湿りを帯びた風が。
「本当に、すまなかった」
エンシオは再度、リーズに頭を下げた。リーズはそのエンシオに何も言うことができなかった。そこまで覚悟をした者に、何も言ってはいけない気がしたのだ。自分に許されているのは、この謝罪を受け入れることだけだと。
しばらくの間誰も動けず、そして言葉を発することもできないでいた。
「う……」
静寂を破ったのは、小さな呻き声。声の主はアルラズだった。リーズとラウドに緊張が走るが、エンシオが静かに手を挙げ、ここは任せておけ、という視線を二人に送る。
「これは禁じ手なのだが……」
エンシオはアルラズに向けて、腕を横に振るった。彼を囲っていた水の檻が霧散し、蒸発する。エンシオは迷いなく、アルラズの元へと足を踏み出した。
声は発したが、アルラズはまだ起き上がる気配はない。エンシオはそんな彼の頭に、そっと手を置いた。次いでぷつぷつと口の中で何かの詠唱を始める。
直後、一筋の閃光が部屋を走り抜けた。
「青年の記憶を操作させてもらった。起きた時には精霊に関することは、きれいに忘れているだろう」
「精霊王様……」
体内に水分を有する生物全てに、水の精霊は内側から干渉することができる。記憶操作は、言わば水の精霊の禁じ手だ。
あっさりと禁呪を使ってしまった精霊王を、ラウドが苦渋の表情で見据える。
「どうせ牢に入る期間が延びただけだ。気にするな」
そんなラウドに、エンシオは微笑しながら答えた。
部屋のドアが開かれたのは、その時だった。
「サフィア……」
壁に身体を預けながら姿を現したのは、アメジアだった。まだ意識が朦朧としているのか、足元はおぼつかない。しかしアメジアは、床に伏し眠り続けるサフィアの元へと、迷いなく向かっていた。
「アメジア。大丈夫か?」
リーズが慌ててアメジアに駆け寄り、身体を支える。そこで初めて、彼女はリーズ以外の精霊の存在に気付いたようだ。紫の瞳は、エンシオとラウドの間を交互に移動していた。
「ラウドさん、いつの間に……」
「あぁ、まぁ。ついさっき」
土の精霊は頭を掻きながらばつが悪そうに呟くと、明後日の方向へと視線を投げた。
「あの、リーズさんにラウドさん。この方は……?」
「……俺達精霊を束ねる、精霊王様だ」
「――!?」
リーズの返答にアメジアの瞳が揺らいだ。アメジアはエンシオが精霊にとってどれほど絶対的な存在であるかは知らない。それでもいきなり『王』という存在が目の前に現れては、萎縮してしまうというもの。アメジアの全身が急に強張った。
「此度はそなたにも迷惑をかけてしまった。ただただ、申し訳ない」
「い、いえ……」
声を詰まらせるアメジアにエンシオは軽く笑いかけた後、顎でサフィアを指した。早く彼女の元へ行ってやれ、という意味を込めて。
リーズの手を借り何とかサフィアの元へ辿り着いたアメジアは、床に広がる少女の白い髪を優しく梳いた。
「寝ているだけみたいね。良かった……」
サフィアの穏やかな寝顔を確認したアメジアから、笑みがこぼれる。その様子を見ていたリーズも、口の端を上げていた。しかし急に何かを思い出したかのように、エンシオへと振り返る。
「あの。精霊王様でも、姉貴の魂はどうしようもないのですか?」
「その娘は鷹の魂と融合してから、かなり時間が経過しておる。すまぬが、私でも……」
「そう……ですか」
エンシオならもしかしたら――という淡い期待は、瞬時に消滅してしまった。リーズは唇を噛み、項垂れるしかない。
姉は、死んだわけではない。だがリーズの知っている風の精霊としての姉は、もういなくなってしまった。
肉親が、戻ってこない。
例えようのない悲しみが、虚しさが、リーズの全身を切り裂いていく。
突然、リーズの背に何かが触れた。振り返ると、すぐ後ろにラウドがいた。ラウドはリーズの背に手を置いたまま、静かに目を伏せた。
「……大丈夫だ」
リーズが慰めてくれる親友に答えたその時、アメジアの声が響いた。
「サフィア! 目が覚めたのね。良かった……。怪我はない?」
「アメジア……」
アメジアの名を囁くように呟いた後、サフィアはアメジアの存在を確かめるかのように背中に手を回す。アメジアは自身の身体をぎゅっと抱き締め続けるサフィアを安心させるように、肩をそっと撫で続けた。
エンシオは視線をサフィアに合わせたまま、この場にいる者に聞き取れるほどの声量で静かに告げる。
「その娘は、完全な精霊ではなくなった。故に、精霊としての責務を全うする義務もなくなった」
その場に居た者全ての視線が、一斉にエンシオへと集まる。エンシオは微動だにせず、表情のない顔で続けた。
「これからは、娘の好きなように生きるが良い。だが一度精霊界に帰ると、今まで通り人間と接触することはできなくなる。こればかりは例外を作ってはならんのだ。今後娘のような悲劇を繰り返さないためにも」
「…………」
人間に姿を見せるべからず。
なぜ、人間と接触を禁ずる法が存在するのか。リーズは今、なんとなくだが理解した。
人間という存在は、精霊にとって魅力的すぎるのだ。星の命の流れを手助けするという、精霊としての使命を放り出してでも親密になりたくなるほどに。
事実、昨日と今日人間に接触しただけのリーズだったが、既に人間に情が移り始めてしまっていた。
「リーズ」
黙ったまま動かないリーズに、ラウドが促す。リーズはそれを受けて、自分を縛っていた見えない鎖を引き千切るかのごとく、サフィア方へ強く足を踏み出した。その気配を察したサフィアが、アメジアから少し身体を離す。
「サフィアは、これからどうしたい?」
「私は……」
リーズの問いに、サフィアは小さく俯きながら声を絞り出す。
「私は、精霊だった時のこと、何も覚えていないの……」
「…………」
「だから私は、これからもアメジアと一緒に暮らしたい。リーズ、ごめんね。私はリーズのお姉さんみたいだけど、でも――」
そこで俯いていた彼女の顔は、真っ直ぐとリーズに向けられる。その空色の人口眼には、強い意志が滲み出ていた。
「私はサフィアとして、生きていきたい」
「……わかった」
はっきりと言いきったサフィアにリーズは一言だけ答えると、そのやり取りを見守っていたエンシオへと向き直った。
「あの、精霊王様、お願いです。アメジアの記憶だけは――」
「それくらい言わずとも心得ておる。安心せよ」
その言葉を聞いた瞬間安堵したのか、リーズの肩が僅かに下がった。
「リーズ……。本当にいいのか?」
ラウドがリーズに近寄り、彼にだけ聞こえる声で遠慮がちに尋ねた。
「姉貴が――いや、サフィアがそう言うのなら、俺からは何も言うことはない。俺は姉貴が無事なのかどうか知りたかっただけだし。そして、こうして見つけることができた。俺の目的は達成だ」
「…………」
リーズは視線を落とした親友の脇腹を、軽く肘で小突き小さく笑った。気遣いは不要だと、そんな意味を込めて。
「サフィア。それじゃあここでお別れだ。親父達には俺からきちんと説明してとくから。って言っても、親父達のことも覚えていないんだよな」
「ごめんなさい……」
「謝らなくていい」
リーズは苦笑しながら、サフィアの白い髪をくしゃりと撫でる。
「アメジア。サフィアをよろしく頼む」
「ええ。頑張って長生きするわ」
「元気でな。……行くぞラウド」
「それじゃあ」
ラウドが彼女らに向けて微笑んだ後、エンシオが印を結んだ。
空気が震え、光が天を貫く。そして彼らの目の前に現れたのは、大きな光の扉だった。精霊界と人間界を結ぶ扉を召喚したのだ。
エンシオは部屋の隅で倒れていたままだった、娘の身体を担ぎ上げた。ぐったりとしたまま動かない彼女の周囲を、青い球体が飛びまわる。
「精霊界に戻ってからだ、ウィーネ」
エンシオが低い声で言うと球体は彼女の身体から離れ、父の元へと戻った。
エンシオが光の扉を押し開けて進む。彼の傍で浮遊していた『ウィーネ』もそれに続き、たちまち彼らの姿は見えなくなった。
リーズはサフィアとアメジアに対し、軽く微笑んだ。それを見てサフィアが口を開きかけるが、上手く言葉が出てこなかったらしい。唇を噛み、項垂れる。空色の瞳から、透明な液体が溢れ出していた。
(あぁ、大丈夫だ)
リーズはサフィアのその涙を見て安堵した。
人間と変わらぬ感情を持つ彼女。風の精霊の魂を持つ彼女。
身体こそ作り物だが、きっとサフィアはこちらの世界で生きていけると、根拠のない確信をリーズは抱いた。
彼女らに背を向け、リーズは光に向けて歩き出す。その後ろからラウドが小走りで追いつき、リーズの横に並んだ。
サフィアとアメジアは、光の中に消えていく精霊達の背を、ずっと見つめていた。
リーズは今、隣に親友がいてくれて良かったと、心から思っていた。そうでないとおそらく、恥も体裁もかなぐり捨てて、泣き崩れてしまっていただろうから。




