第2話 『待って』
どこまでも続く、透き通った淡い菫色の空。
地に群生する植物からは、白い綿毛が絶え間なく飛び立つ。綿毛に混じり空を飛び交うのは、ルビーのような煌きを宿した小鳥たち。生命の息吹溢れる、穏やかな空間。ここの名は精霊界と言う。
綿毛舞う広い草原の真ん中に、和やかな雰囲気に似つかわしくない、異質な建造物があった。アイボリー色の大理石の柱が荘厳に並ぶ、まるで要塞かと見紛うような大きな造りの神殿。これは精霊界を統べる、精霊王の居住である。
「何でだよ!?」
その入り口で、リーズの大きな怒声が響いた。その声に驚いた小鳥達は草の根をつつくのをやめ、菫色の空に向けて一斉に羽ばたいた。
「リーズ! 落ち着け!」
強引に神殿の中へ入ろうとするリーズを、茶色の髪をした青年が押さえながら諌める。青年にもリーズと同じような耳と尻尾があった。そんな茶髪の青年に、リーズは噛み付かんばかりに吼えた。
「落ち着いていられるか! とにかく精霊王様に会わせろ!」
「すまないがそれはできない。今は何人たりとも通すな、という命令が出ていてね。それにどうせ会ったところで、精霊王様の考えは変わらん」
青い髪の青年が、リーズを押さえながら冷静に言った。見張りの精霊二人に押さえられながらも、リーズは尚吼える。
「だったら俺が変えさせてやる! 納得いかねーよこんなの!」
その姿は、まるで檻に入れられるのを必死で拒否している、狼のようであった。リーズは暴れながら、何とかして神殿の中へ入ろうと再び強引に足を踏み出した。
「お前の気持ちは全てではないが、俺達だってわかるつもりだ。しかし精霊王様が一度下した命令を改められると、本気で思っているのか!?」
「――っ!」
茶色の髪の精霊の言葉に、リーズは歯を強く食い縛りながら動きを止めた。
「そんなこと……俺だってわかってるさ。でもやっぱり一言くらい言いてぇよ。こっちは七年待ったんだ。挙句、捜索を打ち切るって何考えてんだよ……」
「…………」
リーズは拳を強く震わせ、唇を噛みながら項垂れる。態度を急変させたリーズに、見張りの精霊達は何も声をかけることができないでいた。
「……そろそろ手を離してくれ。もう暴れるつもりはない」
観念したのか、リーズは言葉通り腕をだらりと下げた。
「リーズ、力になれなくてすまない」
「あんたらは何も悪くないだろ。……また日を改める」
リーズは力無くそう言うと二人に背を向け、神殿を後にした。
精霊――。
それは自然を操り、星の命の循環を手助けする存在である。
精霊達はこの世界に生まれ落ちた瞬間から、この精霊界で修行をすることが義務付けられている。それもこれも、全ては『星』のため。厳しい修行に耐え、自然を意のままに操ることができるようになった精霊だけが、星の元、即ち人間界に行くことを許されているのだ。
リーズの姉は、人間界に行くことを許された、風の精霊だった。
リーズは選ばれた精霊である姉を誇りに思っていたし、そして何より目標でもあった。自分もいつか立派な風の精霊になり、姉のように星の元へ行くのだと。
時として運命というものは、何の予兆も無く突如動き出す。
リーズの姉は七年前、忽然と人間界で姿を消してしまったのだ。何の前振りも、何の痕跡も残さずに。
前代未聞――。
この風の精霊の失踪は、精霊界に大きな衝撃を与えた。
すぐさま大規模な捜索隊が結成され、人間界へと派遣された。しかし何の手掛かりも見つけることができぬまま、捜索隊は僅か一年足らずで解散。その後は年に二、三回、片手で足りる人数を人間界に送ってはいたものの、何一つ手掛かりは得られなかったのだ。そして先日、捜索そのもののを打ち切ると、ついに精霊王が決定を下した。
リーズが、その決定に納得するはずもなく――。
精霊王へ自ら直談判しようと、神殿へと勇んで行ったものの、先ほど門前払いをくらったところだった。
「どうしても、納得いかねー……」
精霊王の居城から少し離れた、風流れる金色の草原。その中をリーズはぶつぶつと呟きながら、足首の高さまで伸びた金色の草を、一歩一歩踏みしめながら歩く。さくさくと小気味良い音を鳴らす草に、やり場のない憤りをぶつけていた。
この数年疑問に思っていたあることが、リーズの頭の中を全力で駆け巡っていた。
――本当に、ちゃんと探したのか?
姉が失踪する理由に、リーズは心当たりが全くなかった。
この仕事に就けることを、何よりも誇っていると言った姉。両親とも上手くいっていた。時々連絡もしていた。
仮に姉が何らかの理由で、自ら望んで姿を消したのだとしても。全く痕跡が見つからないというのは、どういう意味なのだろうか? それはきちんと捜索していないからではないのか? そして捜索隊を一年で解散したことも、リーズは納得していなかった。
――もしかして、精霊王は何か隠しているのでは?
精霊王に対する疑心。
随分前に彼の心の中に蒔かれていた疑惑の種は、ぽつぽつと芽を出し始め、そして一気に開花した。
姉が行方不明になって以来、すっかり塞ぎ込んでしまった両親の姿が、リーズの脳裏を掠めたその時――。
「決めた。俺が直接行って、とことん探してやる!」
決意の言葉と共に、リーズは力強く視線を跳ね上げた。
彼の視線の先。草原の遥か彼方には、若葉茂る木々がどこまでも広がっている。その森の中に『それ』があることを、彼は知っていた。
人間界に通じる門、天霊門。選ばれた精霊しか通ることが許されていない門だ。
リーズは片足で地を蹴ると、綿毛のようにふわりと空に浮かんだ。そして一気に速度を上げ、天霊門へ向けて飛翔する。
「選ばれた精霊? そんなこと、関係ない。俺は姉貴を探しに行くだけだ」
リーズは、悪戯に自然を操るようなことはしないと、見えない誰かに誓った。
姉はなぜ姿を消したのか。そして今、無事なのか、そうでないのか。ただそれだけを知りたいのだ。他の理由など一切ない。
肩で風を切りながら飛翔を続けていたリーズだったが、やがて森の上空にさしかかった。天霊門を探すリーズだったが、まるで彼を導くかのように、ぽっかりと開けた空間が間もなく彼の目に飛び込んできた。その空間の中で寂しげにぽつんと佇むのは、大人三人分ほどの高さをした両開きの白い扉。装飾など一切ない、簡素なその扉こそが、精霊界と人間界を繋ぐ、天霊門だ。
リーズは天霊門から少し離れた場所に下りると、音を立てないよう気を配りながら、木の陰に姿を隠した。門の前には、一人の男精霊が立っていたからだ。
門の見張りをしているその精霊は、何度も欠伸をしては体をゴキゴキと鳴らしていた。相当、暇を持て余しているようだ。
人間界へ行く精霊と帰ってくる精霊。『精霊交代』と呼ばれているその儀式は、年に一度しかない。そして次の儀式まではあと半年もある。誰も通ることのない門を護っている彼の退屈度は、並大抵のものではないだろう。
(緩みきってんなー……)
リーズは心の中で呟くが、その見張りの態度は、今の彼にとって好都合でしかなかった。
(悪いけどしばらく寝ていてくれ)
リーズは胸の前で掌を合わせ、緑色をした丸い球体を作り出した。子供の頭ほどの大きさのそれは、淡く発光しながらリーズの胸の前にふよふよと浮かぶ。リーズは球体を片手で握ると、見張りに向けて思いっきり投げつけた。
「はぅっ!?」
見事に球体は、見張りの顔面に直撃、霧散する。そしてすぐさま球体から、緑色の霧が噴出した。霧が見張りの全身を包んだ後、間を置かず彼の身体は崩れるように地に倒れる。
リーズが投げつけた球体は、眠りの効果がある風の魔法の一種だった。普通は直接対象にぶつけるものではなく、対象の周囲で破裂させるものなのだが――。魔法の正しい使用方法など、今のリーズには些事でしかない。
「おしっ!」
リーズは小さく拳を握りながら、そろそろと木の陰から出て行く。
「……悪いな」
そして熟睡する見張りに向けて小さく呟くと、リーズは白の扉を押し、中へと踏み出した。
そして扉のその先が、人間界の空だったわけである。
「えっと、その……。い、今見たことは忘れろ! じゃあな!」
片手を上げ別れの意思を少女に示して、強引に場の幕引きを図ったリーズだったが――。
「あっ、あのっ……! 待って!」
喉の奥から搾り出すような、少女の引き止める声。リーズはピクリと肩を震わせ、思わず彼女へと再度視線を向けてしまった。
「お、お願い。少しだけ、少しだけでいいから、私とお話して! 本当に少しだけ! だから……」
「わ、わかった! わかったからそれ以上声を出さないでくれ!」
大きな声で必死に懇願する少女に、リーズはキョロキョロと辺りを見回しながら少女の言葉を遮った。
声に釣られ、他の人間がやってくる可能性があったからだ。これ以上人間に姿を見られてしまうのは、リーズとしては勘弁してほしかったのだ。
姿を消して強引にその場から去るという選択肢もあったわけだが、ここまで自分に興味を持ってしまった人間に対し、何のフォローもせずに放っておくのは、よくよく考えると非常にまずいとリーズは判断した。この少女の口から「精霊の姿を見た」という噂が広がり、そしてその噂がこの地域に住まう『選ばれた精霊』の耳に入ってしまうような事態にでもなってしまったら――。
結局リーズは少女の言葉に従い、家の中に招き入れられることとなってしまった。