第18話 『衝突』
ウィーネの身体を蔽っていた水が、長剣のような形態を取った。直後、リーズに向かって勢い良く飛んでいく。リーズはへたり込んだままのサフィアの身体を慌てて抱き上げると、身体に纏っていた激しい風をその水の長剣に向かって放った。
バシュゥッ!
水と風が衝突したその瞬間、空気が破裂したような大きな音が部屋に鳴り響く。ウィーネの放った長剣は形を崩し、霧雨の如く部屋に降り注いだ。
水の苦手なリーズの体を、雨は濡らしていく。それに怯んでしまったリーズは、動くこともままならず、その場に立ち竦んでしまう。
続けざまにウィーネはリーズに向かって、今度は槍の形状をした鋭い水流を放つ。
「リーズ!」
風の精霊の名を呼ぶ声は、サフィアのものだった。塞ぎ込んでいた少女はウィーネの攻撃を見て、そして水に慄くリーズの顔を見て、心を奮い立たせたのだ。
「うああああっ!」
叫ぶサフィアの背中から、大きな茶色の羽が再び姿を現した。サフィアはリーズの腕から離れ、羽を力強く羽ばたかせる。そしてすぐさまリーズの腕を抱えて上に飛んだ。直後、ウィーネの放った鋭い水流がリーズの立っていた床を抉った。
ふらふらとおぼつかない飛び方をしていた昨日とは違い、サフィアのその姿は、非常に堂々たるものだった。まるで雄々しく空を駆け抜ける、鷹そのものの雰囲気。たった一日で、彼女は羽の使い方を自分のものにしていた。
リーズはサフィアの腕からゆっくりと離れ、自力で浮いた。そして眼下から鋭い視線をぶつけてくる水の精霊を睨み返した。
「ごめん。ありがとう」
己を叱咤するため、リーズは両頬を手で叩いた。今は水に怯えている場合ではない。
リーズは隣に浮く少女を横目で見やる。彼女をどう呼ぶべきか一瞬迷ったが、『今』の名前で呼ぶことにした。
「サフィア。風は操れそうか?」
水の精霊を見据えながら、リーズはサフィアに問いかける。
「うん。たぶん、大丈夫」
「なら時間差でいこう。俺の後に頼む」
「わかった」
サフィアが頷くのを待たず、リーズは両手をウィーネに向かって突き出し、風を発動させる体勢を取る。
リーズは、姉の風の精霊としての力がどれほど優れているのか、嫌と言うほど良くわかっていた。何しろ昔、ことあるごとに自慢のために見せつけられていたからだ。だからこそ、リーズは賭けた。この姿になっても、サフィアの――いや、姉の風を操る力は、自分を凌駕するはずだと。昨晩のように、圧倒的な力を出してくれるはずだと。
「風よ! 汝の猛々しさを突風に!」
リーズが叫ぶと、鎌鼬を彷彿とさせる鋭い風の刃が、一斉にウィーネに襲い掛かる。
ウィーネは腕を横一線に振る。刹那、水流が彼女の腕から生まれる。その水流の盾を前に、風の刃はあっさりと霧散した。
だが、リーズの顔に動揺はない。最初から防がれるとわかった上での攻撃。水の精霊の霊力を、少しでも無駄打ちさせるためのものだった。
「お願い!」
サフィアが手の平を天に向ける。瞬く間に彼女の頭上に風が集まり、それは球体となる。ほどなくして大人一人分の大きさになった風の塊を、サフィアは渾身の力を込めてウィーネに投げ付けた。
「小癪な!」
ウィーネは再び腕を横に振り、水の盾を張る。だが風球はそれをものともせず突き進むと、ウィーネの全身を飲み込んだ。
「――――っ!」
風球の中に閉じ込められたウィーネの身体を、鋭く変形した風が容赦なく襲いかかる。その様子はまるで、ナイフの飛び交う檻に閉じ込められたかのようだった。ウィーネの水色の肢体からは次々と鮮血が溢れ、檻の中の風に遊ばれて舞う。
リーズは見たことのないその風の攻撃に、ただ目を見張る。リーズが想像していた以上に、サフィアの攻撃が強力だったからだ。
風球の中で成す術もなく風に襲われていたウィーネは、力を振り絞り指先から小さな水の玉を出現させる。そして自分の足元に向けて勢い良く放った。放たれた水の玉は風球を突き破り、床にめり込んだ後すぐさま消滅した。水の玉が突き破った箇所からは風が漏れ始め、瞬く間に風球は消滅してしまった。
だが、ウィーネは今の攻撃で身体に相当のダメージを負ったらしい。風球が消滅すると同時に、地に倒れ伏せた。
「あ……。ご、ごめんなさい。私、ここまで強力なものだとは思っていなくて……」
サフィアはゆっくりと地に足を付けた後、小さな身体を少し震わせた。
(無自覚でこの威力の風を作り出すとか……)
彼女の言葉に、思わずリーズは胸中で呟き、身震いする。改めて、姉の力の凄さを再確認する羽目になってしまった。自分が姉に追い付くにはまだまだ修行が足りない――。
咄嗟にそんなことを考えるリーズだったが、すぐにハッと我に返った。今の内にウィーネを拘束しておかないと、また攻撃を仕掛けられて面倒なことになると踏んだのだ。
まずはアルラズを説得して、サフィアを諦めさせないといけないだろう。そうでないといつまで経ってもこの水の精霊は、アルラズの望み通りにサフィアを狙い続けて来るはずだ。どちらかの命が尽きるまでの攻防と追いかけっこをするつもりなど、当然するつもりはない。
「さて、とりあえず風の魔法で拘束して――」
「おやおや。またこの部屋を散らかしてくれたんだね」
部屋の隅から突如聞こえてきた男の声に、リーズもサフィアも肩を震わせ、反射的にそちらへと振り返っていた。
不適な笑みを浮かべたアルラズの視線は、部屋一面を見回した後、サフィアの前で動きを止めた。
「アルラズ……」
姿を現せた藍色の髪の青年に、リーズは思わず奥歯を強く噛み締めた。
「アメジアは? アメジアはどうしたの?」
「話し合いが上手くいかなくてね。ちょっと彼女には眠ってもらうことにしたんだ」
「そんな……!」
「あぁ、大丈夫だよ。別に命まで奪っちゃいない。ただ君の返答次第では、永遠の眠りについてもらうことになるかもしれないけどね?」
くすくすと笑うアルラズの目は、しかし笑ってはいなかった。彼の本気を察したサフィアの白い顔が、よりいっそう青褪める。
リーズはアルラズの視線を遮るように、サフィアの前に躍り出る。アルラズの目が僅かに細められた。
視線と視線の無言の攻防。両者の譲れない想いが、見えない火花を散らす。
「アルラズ……」
地に這い蹲ったまま顔だけを何とか上げて、ウィーネは愛する青年の名を呼んだ。しかし、アルラズは荒んだ眼差しを彼女に返すのみ。その視線を受けたウィーネの顔色は、瞬時に絶望に染まった。
「ご、ごめんなさい……」
「まぁ、風の精霊の魂を抜く時もかなり苦戦していたし。というか、あれは僕がいたから成功したようなものだよね。それに加え、昨日の失敗。正直、こうなるのではないかなと、少し思っていたわけだけれど」
「アルラズ。お願い、もう一度私にやらせて。もう一度だけ、チャンスを――」
「君が三度目の正直を実行するビジョンが、僕には見えないな」
「――っ!」
冷たく言い放つアルラズに、ウィーネの顔に焦りが浮かぶ。愛する青年から呆れられた水の精霊は、何とか取り縋ろうと視線を宙に彷徨わせ、次の言葉を必死に言葉を探していた。そんな彼女に向けて、アルラズは切れ長の目を細くしながら、淡々と告げた。
「君一人には任せられない。僕が直接、この人口生命体を手にするよ」
「お前にサフィアは渡さない」
アルラズの言葉にリーズが反応する。アルラズは顔をリーズに向けると、僅かに微笑んだ。
「ウィーネから聞いたよ。君は、あの風の精霊の弟なんだってね?」
「それがどうした」
露天商のような忌避のない笑みを浮かべながら、アルラズは続けた。
「僕にその人口生命体を渡してくれたら、君のお姉さんの魂を救えるかもしれないよ?」
「何だって!?」
リーズは思わず声を上げていた。だが驚愕で見開かれたその目は、瞬時に憂いを帯びたものに変化する。
「いや。姉貴の魂は鷹の魂と融合してしまってるんだろ? 一度混ぜた物をまた取り出すのは不可能だと、さっきウィーネが言っていた。悔しいけれど、俺もそんなことは不可能だと思う……」
「……結構いらないことまで喋ってくれたんだね」
嘆息しながら呟くアルラズに、ウィーネはビクリと肩を震わせた。まるで親に叱られるのを恐れる子供のように。
このままでは、愛する義足の青年に見捨てられてしまう。そう感じ取ってしまったウィーネの身体は、小刻みに震えだした。そんな彼女の元まで、アルラズは静かに歩み寄った。そして彼女の耳に顔を近付け、穏やかな声で囁く。
「ウィーネ。僕はどうしてもあの人口生命体を手に入れたい。だから、君にお願いしたいことがあるんだ」
「アルラズの頼みなら何でもするわ。だから――」
「君の力を、僕にくれるかい?」
「――!?」
突拍子もないアルラズの台詞に、しかし元々青いウィーネの顔は、いっそう青褪めた。
「あの風の精霊の魂を抜くことができた君だ。それくらい、難なくできると思うのだけどな」
「た、確かに、無理なことじゃない。で、でも……」
「僕と一つになれるってことだよ?」
「……ええ。そうね。でも……そしたら私……」
「僕のこと、嫌いかい?」
「――っ!? そんなわけない。私は、私は……っ!」
ウィーネは髪を振り乱し、躍起になってアルラズに訴えかける。自分の愛は嘘ではない。本物だと、懸命に。
「それは肯定と受け取っていいんだね?」
言葉の端を押さえ、有無を言わさぬ物言いでアルラズは問い掛ける。いや、それはもはや一方的な脅し。しかしウィーネは、その脅しに美しい顔を歪ませながら頷いた。
「わかったわ。私はアルラズのことを、愛しているんだもの……」
ウィーネは自分に言い聞かせるように呟いた後、歯を食い縛りながら目を伏せる。
「やっぱり君は最高だよ。ウィーネ」
にっこりと、曇り一つない笑顔を見せるアルラズ。
そんな彼らを見ながら、リーズもサフィアもただ困惑していた。彼らのやり取りが理解できなかったのだ。わかったのは、ウィーネはアルラズにその心を利用され、逆らうことができないということだけだ。
「何をしようとしているか知らんが、サフィアはお前には渡すつもりはない」
「僕も諦めるつもりはないよ」
ウィーネに異変が起きたのは、アルラズがそう返した時だった。
ゴポッ――。
水のくぐもった音がしたと同時に、ウィーネの口から蒼く丸い物体が勢い良く飛び出て来たのだ。同時にウィーネの顔は、崩れるようにしてその場に伏せられた。
「なっ!? あれは!」
丸い物体を目にしたリーズは、思わず驚愕の声を洩らしていた。
蒼い球体は、しばらくウィーネの身体の上をふよふよと漂っていたが、ほどなくしてアルラズの顔の前まで飛んで行き、静止した。
「これが君の『精霊の力』か。綺麗だね」
球体に向かってそう呟くと、アルラズは躊躇うことなくその球体を丸呑みにした。
直後――。
どくん!
アルラズの全身が大きく一度痙攣する。そして間を置かず胸、腕、腹、脚と、彼の身体が波打つように跳ねだしたのだ。
「――――!」
リーズは咄嗟に腕を構え、耳の毛を逆立てる。リーズの頭の中で、あれは危険だと大きな警鐘が鳴り響いていた。
蒸気のような白い煙が、音を立てながらアルラズの全身を瞬く間に覆う。まるで彼の存在を、一時的にこの世から隔離するかのように。
サフィアは息をするのも忘れ、その様子をリーズの後ろからただ見ることしかできないでいた。
アルラズから発生した白い煙は部屋全体を呑みこみ始め、リーズとサフィアの身体にも纏わり付く。リーズは自分達に触れるなと言わんばかりに、身体の周囲に風を発生させた。
その風で、部屋の空気は乱された。白い煙は渦を巻きながら、徐々に濃さを減らしていく。そして二人の目に飛び込んできたのは――。
ウィーネの水の精霊としての力を取り込み変貌した、アルラズの姿だった。




