第11話 『ありがとう』
※※※
この日を、どんなに待ちわびたであろうか。
男の心はただただ、喜びで満ち溢れていた。
男の目の前に鎮座するのは、巨大な試験管。培養液がなみなみと注がれたその中で、白髪の少女が眠るようにたゆたっていた。
男はわずかに目元を緩ませながら、白く四角いスイッチを震える指先で静かに押した。
澄んだ青色の液が、配水管を唸らせながら瞬く間に嵩を低くしていく。液は呆気ないほど、すぐに姿を消した。
つい先ほどまで眠っているように思えた少女は、男の予想に反し瞼を開け、ぺたりとその場に座り込んだ。
成功だ。意識がちゃんとある。
男は喜びに打ち震えながら、膝から崩れ落ち、倒れた。
あの日。男が娘を失った、あの日――。
馬車に轢かれ、ズタズタになった娘の亡骸を抱き締め、腹の底から絶望を咆哮した、あの日。
あれから何十年経ってしまったのか。男は骨と皮だけという表現がぴったりな、土気色の手を見つめて失笑した。
いや、笑っている場合ではない。早く、早くこの手であの少女を、愛しい『娘』を抱き締めたい。
はやる気持ちを抑えられず、男は懸命に足を動かそうとした。
……だが、男の足は動かない。男の足は、前へと進まない。
再び会えさえできれば時間なんてどうでも良いと考えたいつかの自分を、男はこの時ばかりは恨んだ。
男は、時間をかけ過ぎてしまったのだ。
身体中に刻まれた、皺という名の年輪。真っ白になった頭。そして、もう指先一つ動かせなくなった、全身。
先ほどのスイッチは、最後の力を振り絞って押したものだった。
男の痩せた頬に、冷たくて硬い床の感触が広がる。視界は霞がかったように白濁し、『娘』の姿は、輪郭だけがかろうじて判別できるかというものになっていた。
だが、それでも男は幸せだった。
なぜなら、男の脳裏に映る『娘』は、満面の笑みで男を見つめていたからだ。
世の人間は皆、この男の生きた年数を知って、大往生だと口を揃えて言うだろう。しかしできるなら、男はあと数刻、いや、あと百秒だけでもこの世界にいたいと願った。
『ただいま。お父さん』
笑顔で語りかけてくる娘の姿が幻だと、死の間際に男の脳が創り出した幻想だと、そんなことは男は知る由もなかった。そんなことは知らなくて良かったのだ。男は本当に幸せだったのだから。
「あぁ……おかえり……ビエンタ…………」
脳裏の娘に返事をした男は、とても穏やかで優しい笑みを浮かべたまま、静かに双眸を閉じた。
アメジアの胸のざわめきは消えない。彼女は足早に師の元へと向かっていた。
二ヶ月に一度開かれる、調剤師達の集会。大陸中の名だたる調剤師が一同に集まり、情報交換や勉強会をするその集会に、随分前からエルマールは自分の代役として、アメジアを行かせていた。まだまだ若輩者の自分が行っても良いのか、と躊躇していたアメジアだったが、高齢だと移動が負担になるとエルマール自身に言われては、断れるはずもなかった。
アメジアにとって十度目となった集会だったが、なぜかこの日は朝から気持ちがざわつき、せっかくの集会もあまり身に入らなかった。そして集会が終わると飛ぶように会場を後にし、馬車に飛び乗ったのだ。
(どうして、こんなに不安な気持ちが消えないの)
馬車を降りたアメジアは小走りで街を外れ、研究所のある山中へと向かう。
虫の知らせ――。
迷信の類を信じたくはないアメジアだったが、さっきからその言葉が頭の中をぐるぐると渦巻いていて、不安でたまらなかった。
街を出てから半刻もせぬ内に、アメジアは山の中にある研究所に到着した。
(エルマール先生……)
心の中で師の名を呼びながら、アメジアは研究所の重い扉を開ける。扉の隙間から染み出てくるのは、嗅ぎなれた青臭い匂い。アメジアの手に、じんわりと汗がにじみ始める。
「アメジア、ただいま帰りました」
研究所内に高らかに響き渡る彼女の声。しかし、返事がない。
調剤用の植物や薬品が所狭しと置かれた部屋を見回すが、エルマールの姿はなかった。アメジアは迷いなく、その奥の扉へと向かった。
エルマールの『趣味』の部屋へ。
扉を開けたアメジアは、その光景を見た瞬間、唇を震わせた。
彼女の視線の先に、つい先ほどこと切れたエルマールの身体が、冷たい床に横たわっていたからだ。
「――先生」
震える唇で、声で、師を呼ぶ。だが当然、返事はない。
アメジアは恐る恐る、一歩ずつ足を踏み出す。立っている感覚は、既に彼女から消えていた。それでもアメジアは硬い床をゆっくりと踏み締めながら、師の元へと近付いていく。
夢であってほしいと願いながら。
そこで初めて、アメジアはその存在に気付いた。部屋の奥。裸のまま、虚ろな目でぼんやりと座り続ける少女の存在に。
巨大な試験管の中にいつもいた存在。試験管の培養液の中で、いつも眠るようにただ浮かんでいた人口生命体の彼女は、今はっきりと目を開けている。アメジアは全てを理解した。
(あぁ、先生は……最後に……)
アメジアの目から涙が溢れ、頬を伝う。だがすぐに服の袖で涙を拭った。そして少女の元へゆっくりと歩み寄ると、少女の顔を覗き込むようにしてしゃがんだ。
「…………」
ガラス玉のような人工物でできた綺麗な目が、アメジアの顔を見つめる。その表情は困惑で染まっていた。
「あなたは? わたしは……だれ?」
蚊の鳴くような声で、少女はアメジアに問いかける。
アメジアは少女に静かに微笑むと、彼女の頭を優しく抱き締め、濡れた白い髪を慈しむようにそっと撫でた。
「私は、アメジア。そしてあなたの名前は、今日からサフィアよ。さあ、帰りましょう。大丈夫。私があなたを守るから……」
アメジアはサフィアの頭を撫でながら、腹の奥底から湧き上がってくる嗚咽を、必死で抑えていた。
※※※
リーズに起こされたアメジアは、ベッドから飛び上がるようにして起き上がった。服装は、昨晩店を閉めた時と全く同じだ。清涼感を醸し出していた形の良い白衣は、今は随分とくたびれた装丁へと果てていた。皺が幾つも寄っている。
アメジアは慌てて枕元に置いてあった眼鏡を掛けるが、少しだけ傾いてしまっていた。
風の精霊に睡眠を促されたものの、その眠りは浅く、疲労は取れきれたとは言えない。彼女の目の下には、それを裏付ける紫の横筋が浮かんでいた。
「サフィアが目覚めた」
その言葉を聞いて、アメジアはすぐさまサフィアの部屋へと向かう。しかし突然、サフィアの部屋の前で立ち止まった。まるで石像のように固まったまま、彼女は足を踏み出せないでいる。
「どうした?」
後ろからリーズが声をかけるが、アメジアは、彼にただ一言返すことしかできなかった。
「こわいの」
それは随分と小さな声だったが、リーズには充分届いたらしい。彼の尻尾が僅かに風を切る音が、アメジアの鼓膜を震わせた。
サフィアの正体を知っていながら、ずっと隠し続けていた。しかも病気だと嘘までつき、外の世界と隔離し続けてきた。
そのサフィアにどんな言葉でなじられるのか。アメジアはサフィアに責められることに怯えていたのだ。しかし、ここで永遠に立ち止まっているわけにもいかない。
サフィアがどんな言葉を吐いても、それを受け止めなければならない。彼女が下すどんな罰も、自分は受けねばならない。
アメジアは覚悟を決めた。
深呼吸をし、乱れかけた心を静かに整える。そしてゆっくりと、サフィアの部屋のドアを開けた。
「おはよう」
ドアが開いた気配を察知し、サフィアが先に朝の挨拶をしてきた。ベッドに上半身だけを起こした状態で、サフィアはアメジアに視線を送る。
アメジアはサフィアの顔を見て、少しだけ安堵した。彼女が想像していたよりずっと、サフィアの表情は穏やかだったからだ。おそらく一晩中傍についていた、風の精霊のおかげだろう。だがその表情の下の本心まで、アメジアが推し量ることはできなかった。
「……おはよう」
アメジアは懸命に、自然な笑顔を作ろうとした。だがうまくいかず、歪な表情になってしまう。その顔を誤魔化すかのように、アメジアは眼鏡を掛け直しながら、先ほどまでリーズが座っていたベッドの前の椅子に腰掛けた。
「サフィア」
アメジアは静かに少女の名を呼んだ後、頭を深く下げた。
「本当に、ごめんなさい」
「どうしたの? どうしてアメジアが謝るの?」
「だって……私は、あなたを――」
そこまで言うとアメジアは唇を噛み、溢れようとする涙を堪えた。サフィアはそんなアメジアの手を静かに握ると、相好を崩す。それはこの雰囲気に似つかわしくないほどの、眩しい笑顔だった。
「アメジア、ありがとう」
サフィアの口から出たのは、アメジアが覚悟していた罵倒ではなく、礼だった。アメジアはその礼の意味が、さっぱり理解できないでいる。双眸を見開き、サフィアの顔を呆然と見つめる。
サフィアはアメジアの手を握ったまま続けた。
「アメジアは私が傷付くと思って、今まで黙っていてくれたんだよね。そして私が怪我をして自分の血を見ることのないように――、他の人が私の正体を知ることのないように、ずっと家の中で見守っていてくれた。だから、ありがとうアメジア。出会った日からずっと私を守ってくれて、本当にありがとう」
「……あ……」
アメジアの想いは伝わっていた。
まだまだこの世界は、サフィアの存在を受け止めきれるほど、科学は発展していないとアメジアは思っていた。それなのに彼女の師は、たった一人で世界の常識を覆え返さねないことをやってしまった。
サフィアの存在を誰も知ることのない世界。きっとそれが、サフィアにとっても皆にとっても幸せなのだと、自分に言い聞かせてきた。これは独り善がりな実に勝手な想いなのかもしれないと、何度も自問自答した。苦しかった。
アメジアが今まで押し黙っていた、サフィアに対する措置の本当の意味。それを少女は、言葉に出さずとも汲み取ってくれたのだ。
アメジアの心に居座り続けていた鉛のように重い罪悪感が、徐々にその姿を消していく。
礼を言われるようなことはしていない――。
アメジアはサフィアにそう言いたかったのだが、彼女の口からは掠れた音が出るばかりで、意味のある集合体になろうとはしない。アメジアの目から、堰を切ったように涙が溢れ出す。
驚いた眼差しで見つめてくる少女に、これだけは言わなきゃと、アメジアは喉の奥から声を絞り出した。
「私こそ、ありがとう。ずっと、傍にいてくれて」
アメジアの言葉を聞いて感極まったサフィアは、ベッドから飛び出し、その胸に勢い良く飛び込んだ。
少し開いたドアの向こう。二人の様子を腕を組みながら見守っていたリーズは、毛艶の良い尻尾を左右に振り、穏やかな笑みをこぼした。




