私との婚約は秘密だったのに、別れた途端に公表するのですか
「ご存じありませんでしたか。アリーヌは、私の婚約者だったのですよ」
ダミアンの声が聞こえたとき、私は銀の盆から取った菓子を、まだ指に挟んでいた。向かいで絵の話をしていたマティス様が、私へ目を向ける。その隣では、今しがたダミアンを紹介したばかりのグラン夫人が、扇を動かす手を止めていた。近くにいた人たちも、話をやめている。
私は菓子を皿へ戻した。砕けた薄い皮が、手袋に少しだけ残る。
「……お話ししても、よかったのですか」
婚約のことになると、彼に話してよいか確かめる癖がついていた。別れたあとまで、許可を求めるような言葉が出てしまう。ダミアンは困ったように笑い、周囲を見回す。私が何を尋ねたのか、わからない顔だった。
「今さら隠すことでもないだろう。もう終わった話なのだから」
終わった話になった途端、隠さなくてよくなったらしい。婚約を解消したのは三週間前だ。父と彼の父親が書面を交わし、私はいただいた品を返した。別の女性と結婚したいと告げられてからは、何もかも早かった。
「そうでしたの。存じ上げませんでしたわ」
グラン夫人が私を見る。どうして教えてくれなかったのか、と聞かれる前に、ダミアンが続きを引き取った。
「近いうちに発表するはずだったのですがね。もっとも、彼女にはもう、お相手がいらっしゃるようだ」
彼の目が、マティス様へ向く。私はようやく、なぜ今この話をしたのかわかった。今夜のダミアンは、新しい婚約者を連れて来ている。私が泣いて帰ることも、隅で俯くこともなく、別の男性と話していたのが気に入らないのだろう。
「ずいぶん親しいご様子だったので。以前からのお知り合いですか」
「今夜、夫人にご紹介いただきました」
マティス様が答える。さっきまでの笑みは消えていた。ダミアンは、そうでしたか、と軽く頷く。私に向き直ると、何でもないことのように続けた。
「それならいいんだ。私とのことも、君にはそれほどつらい話ではなかったようだね」
グラン夫人の扇が、ゆっくりと畳まれる。私は掌についた菓子の欠片を、皿の端へ落とした。こういうときに黙っていると、ダミアンは話が済んだと思う。前にも、何度もそうだった。
「別の方を好きになったので、婚約を解消してほしい。あなたは私に、そうおっしゃいました」
彼の笑みが消えた。私は顔を上げ、グラン夫人へ向き直る。
「三週間前に、両家で手続きを済ませております。マティス様とお会いしたのは、今夜が初めてです」
そう説明してから、私はダミアンへ目を戻した。
「どうぞ、関係のない方に疑いを向けないでください」
「アリーヌ、誰も疑ってなど」
「でしたら、そのお尋ねは必要なかったでしょう」
声が大きくならないようにすると、かえって喉に力が入る。夫人は私とダミアンを交互に見て、頷いた。
「経緯はわかりました。お二人の婚約は、もう解消されているのですね」
「はい」
私は答え、ダミアンを見た。彼は少し間を置いて、ええ、と言う。そこへ新しい婚約者のヴィクトリーヌ様が近づいてきたので、夫人は彼女にも挨拶をし、別の客人のいるほうへ二人を案内した。
ダミアンは去り際に一度だけ私を振り返る。その目を見ても、今度は笑って取り繕わなかった。
残った皿には、齧りもしなかった菓子が一つある。私はそれを近くの卓上へ置いた。口の中が乾いて、とても食べられそうにない。
「少し、こちらへ座りませんか」
マティス様が、壁際の椅子を示す。断ろうとして、膝が震えていることに気づいた。彼は私が腰を下ろすと、離れた給仕に水を頼んでくれた。事情を尋ねられることもなく水が届き、私は少し飲んだ。冷たさが喉を通って、ようやく息が深く入った。
「ご迷惑をおかけしました」
「あなたに訂正していただいたので、困ってはいません」
彼は隣の椅子に座らず、まず私の顔を見た。一人にしてほしいか尋ねられ、私は首を横に振る。今ここで彼まで立ち去ったら、周囲にどう見えるかばかり考えてしまいそうだった。
「よければ、さっきのお話の続きを」
「あの絵の?」
「ええ。馬の脚が一本多く見えるという」
私は思わず、会場の奥にある肖像画を見た。主催者の亡き夫が、愛馬とともに描かれている。馬の後ろに立つ猟犬の脚が重なって、遠目にはどうにも一本多い。
「夫人には、内緒にしておいてくださいね」
「実は、夫人も先ほど同じことをおっしゃっていました」
「では、私だけが失礼なわけではなかったのですね」
声に出して笑うと、少し苦しい。でも、笑えた。マティス様も椅子に座り、夫人が絵を注文したときの話をしてくれる。私は水の杯を両手で持ったまま、久しぶりに、話の続きを聞きたいと思った。
*
ダミアンとの婚約を、私が秘密にしたかったことは一度もない。両家で話が決まったとき、彼の母親が病気療養中だった。祝いの席を設けられるようになるまで、公表は待ってほしいと頼まれたのだ。私も母も、それなら仕方がないと頷いた。
半年後にお母様が回復すると、今度は家の事業の都合だと言われた。大きな取引が終わるまで、どの家と縁づくか知られたくないのだという。父は先方に説明を求めたけれど、私が、もう少し待ちたいと言った。
ダミアンを好きだった。待っていてくれて嬉しい、と言われると、待てる自分でいたくなった。
夜会で会っても、彼からは誘わない。贈られた首飾りを着けていくと、誰にもらったか聞かれるから、今はやめてくれと言われる。共通の知人の前では、名前で呼ばず、ただ挨拶を交わした。
いつか公表したら、誰もが驚くだろう。その日には二人で笑える。そう考えていれば、寂しさにも終わりがあるように思えた。
結局、私がもらったのは、他の女性との結婚を決めたという報告だった。
「ずっと言えずにいたんだ」
ダミアンはそう言った。二年も待たせた私に、もう待ってほしいとは頼まなかった。好きな人と結婚するためなら、家の都合は何とかなるのだと、そのとき初めて知った。
あの夜会の翌朝、母は私の部屋へ来ると、椅子を引いて座った。グラン夫人から手紙が届いたという。母は手紙を膝に置き、私を見た。
「まだつらいのなら、昨日は一緒に行ったのに」
「あんなことを言われるとは思わなかったの」
「昨日のことだけではなくて、それまで、どんな気持ちでいたのかを聞きたいの」
私は寝台の掛布を指で押さえた。母には、婚約の公表を待つことに同意していると、何度も話していた。寂しいと言えば、ダミアンを責められると思ったからだ。
「私が大丈夫だと言ったのだから、今さらつらいと言ったら、困らせるでしょう」
「困るわよ。どうしてあげればいいか考えるもの」
母は手を伸ばし、掛布を押さえていた私の指をほどいた。
「そのくらい、困らせてちょうだい」
頷こうとしたら、涙が落ちた。母の前で婚約の話をして泣くのは、これが初めてだった。
マティス様が訪ねてきたのは、その日の午後だ。グラン夫人から、母の了承があれば伺いたいと取り次ぎがあった。私は昨日の話を確かめに来るのだろうと思い、婚約解消の経緯をどこまで説明すべきか考えていた。けれど、母と応接間でお迎えすると、彼が取り出したのは絵の展覧会の案内だった。
「昨日、会期を間違えてお伝えしました。来週末ではなく、今週末まででしたので」
私は案内を受け取り、印刷された日付を見た。夜会で、町の風景を描いた絵が好きだと話していたのだった。
「わざわざ、そのために?」
「日付はお手紙でも訂正できたのですが、直接お会いしたくて」
あまりにまっすぐ言われ、返す言葉が出てこない。母が隣でお茶を注ぎ、彼の杯を先に置いた。
「娘と、昨夜お知り合いになったばかりでしたね」
「はい。ですから、もう少しお話をしたくて伺いました」
マティス様は、港のある西の町で育ち、今は王都で役所の仕事をしているという。グラン夫人は母方の遠縁で、上京してから何かと世話を焼いてくださるのだそうだ。私は展覧会の案内を見ながら、知っている画家の名前を指した。昔住んでいた通りを描いてもらったことがある、と話すと、彼は身を乗り出す。母が二杯目を注ぐ頃には、昨日の夜会の説明を用意していたことも忘れていた。
「もう一つ、正直に言ってもいいですか」
帰り際に、彼が尋ねた。
「ええ」
「昨日あなたが笑ってくださったので、今日も笑ってもらえたらと思っていました。けれど、私が何か面白い話をしたわけではないんですよね。あの絵が可笑しかっただけで」
私は驚いて、それから笑ってしまった。彼は少し肩を落とし、母まで口元を押さえる。
「そのとおりですけれど、今のはマティス様が可笑しかったのですよ」
「喜ぶところでしょうか」
「私は、またお話ししたいです」
彼の顔が明るくなったので、言ってよかったと思った。
*
展覧会へは、母と三人で出かけた。マティス様は約束の時刻より早く来て、玄関で私を待っていた。私は慌てて階段を下りたけれど、母に、まだ時間前でしょうと呼び止められる。襟のリボンが少し曲がっていた。
直してもらうあいだ、玄関の彼と目が合う。照れくさくて目を逸らすと、ますます頬が熱くなった。
会場には、絵の具の匂いが少し残っていた。壁一面に川沿いの景色が並び、母は知人の夫人と話し始める。私とマティス様は、すぐ近くの絵を順番に見て回った。
橋の下で舟を洗う男、魚屋の軒先で眠る犬。そういう小さなものを見つけては話すうちに、一枚の絵の前で思いがけず長く足が止まる。
「私は、この窓が好きです」
画面の端の、小さなパン屋の窓を指す。斜めに差す光の中で、粉をつけた手が生地を丸めていた。
「こちらの人物ですか」
「ええ。手つきが自然でしょう。作業の途中を、窓越しに覗いたようで」
マティス様が身を屈め、私と同じ場所を見る。その横顔が近くて、私は急に指を下ろした。
「私は、絵を見ると細かさばかりに目が行っていました」
「私も、詳しくはありませんよ」
「でも、お話を聞いてから見ると、今まで気づかなかったところが見えてきます」
私は返事を探すふりをして、絵へ目を戻した。今の言葉を、もう一度頭の中で聞いていたかった。
そのとき、後ろから彼を呼ぶ声がした。役所で同じ仕事をしているという年配の男性が、私たちへ近づいてくる。私は考えるより先に一歩離れ、別の絵へ体を向けた。
「アリーヌ様?」
名前を呼ばれ、振り返る。マティス様の隣に立った男性も、不思議そうに私を見ている。
「ご紹介しても?」
私は頷き、彼の隣へ戻った。男性は丁寧に挨拶をしてから、彼に、こんなところで会うとは思わなかった、と笑う。
「絵を見るのが趣味だったかな」
「最近、好きになったんです」
マティス様はそう答え、私が好きだと言った窓のある絵を示した。先ほどまで私が話していたことを、少し不器用に説明している。私は言い直したくなって、つい口を挟んだ。
彼がこちらを見る。私も説明に加わると、その顔が嬉しそうに緩んだ。
男性と別れたあと、マティス様は歩く速さを落とした。
「先ほどは、紹介しないほうがよかったでしょうか」
「いいえ。嬉しかったのです」
うまく伝わらないだろうと思いながらも、私は続けた。
「以前は、誰かが来たら離れるようにしていたので。つい、同じことをしてしまって」
彼の足が止まる。私は壁の絵を見るふりをせず、彼の顔を見た。
「人前では、ただの知り合いでした。名前も呼びませんし、待ち合わせもしません。知られないようにするのが、私の役目だと思っていたんです」
マティス様は、すぐには答えなかった。近くを人が通り過ぎるのを待ち、声を落とす。
「では、先ほど私が嬉しかったのも、お伝えしておきます」
「嬉しかった?」
「あなたが隣へ戻ってきてくださったので。私がうまく説明できずにいたら、続きを話してくださって」
「つい、口を挟んでしまいました」
「あの窓のどこが好きなのか、もう一度聞けて嬉しかったです」
彼は笑ってから、今度は真面目な顔になった。
「次は、あなたを誘うために訪ねてもいいですか。夫人の取り次ぎや、会期を訂正する用事がなくても」
胸が鳴る。返事をする前に、つい母の姿を探してしまう。自分の気持ちはもう決まっているのだと気づき、私は彼へ向き直った。
「母に、そうおっしゃっていただけますか」
「はい」
「私も、あなたと出かけたいのだと伝えます」
言い終えると、マティス様は息を吐いて笑った。ずいぶん緊張していたらしい。私はその顔を見て、自分ばかりが怖かったわけではないと知る。
母のところへ戻るときも、私は彼と並んで歩いた。
*
ダミアンから手紙が届いたのは、それから五日後だった。夜会で私たちが話したあと、グラン夫人は身近な人から尋ねられるたび、婚約はすでに解消されていると答えてくださっていた。私も母も、ようやく昔の婚約を隠さずに話せるようになったところだ。
そのことが、ダミアンには気に入らなかったらしい。手紙には、ヴィクトリーヌ様に誤解された、説明に協力してほしい、と書いてある。
『家の事情で公表を待っていたが、互いに気持ちが変わり、穏やかに別れた。そのように伝えてくれればいい』
私はその一行を二度読んだ。私の気持ちが変わったことにしたいのだろう。私は、ほかの男性を好きになって婚約を解消したのではない。それでも私が頷けば、皆が納得するという考えなのだ。
母に見せると、返事を出さなくてもいいのよと言われた。私は少し考え、会って話したいと答える。嘘の説明には協力できないと、はっきり伝えておきたかった。
今度は母に同席を頼んだ。
ダミアンは約束の午後、私たちの家へ来た。応接間へ入ると、母の姿に一瞬だけ足を止める。それでも型どおりに挨拶を済ませ、私の向かいへ腰を下ろした。
「久しぶりだね」
「先週、お会いしました」
彼が目を瞬く。以前なら、私も曖昧に微笑んで、お元気でしたかと続けていたところだ。
「手紙は読んでくれたね」
「はい。あのようにはお伝えできません」
「言葉の選び方が悪かったかな。誰かを責めるような話にはしたくないんだ」
私は卓上に、彼の手紙を置いた。すぐに答えられるよう、何度も読んでおいた紙だ。
「私が婚約の公表を待ったのは、結婚するつもりだったからです。気持ちが変わったのでしたら、先に教えていただきたかった」
「だから、きちんと話しただろう」
「ヴィクトリーヌ様とのお話が、もう決まってからでした」
彼の指が膝の上で動く。私は母を見なかった。見れば、そのまま代わりに話してもらいたくなりそうだった。
「彼女は、私たちがとっくに気持ちの上では別れていたと思っているのですか」
ダミアンが答えるまで、少し時間がかかった。
「そういう説明をした。実際、ここしばらくは会う機会も少なかっただろう」
「あなたがお忙しいとおっしゃるから、手紙を書いていたのです。婚約を公表する日も、尋ねました」
返ってきたのは、今はまだ難しい、という返事だった。それでも最後には、待っていてくれてありがとう、と書いてあった。私はその言葉を喜んだ。会えないのは寂しかったけれど、待つことが彼の支えになると思っていた。
「二人とも気持ちが離れていたのなら、どうして待つようにおっしゃったのですか」
彼は視線を落とし、卓上の手紙を見た。母も何も言わない。沈黙が続くうちに、私は少しずつ落ち着いてきた。
いつも私が言葉を足して、彼が答えなくても済むようにしていたのだ。今日は、そうしなくてよかった。
「……君は、待つことに納得していたと思っていた」
「ええ。あなたと結婚できるのなら、と思っていました」
彼が顔を上げた。私は自分の声が震えなかったことに、少し驚いている。
「だから、つらかったのです。それをなかったことにする説明には、協力できません」
「では、どうしろと?」
「ヴィクトリーヌ様には、ご自分で本当のことをお伝えください」
ダミアンは椅子の背へ体を預け、長く息を吐いた。それから、私の服へ目を留める。胸元の飾りは、婚約中に贈られたものではない。母が昔から持っていた、小さな琥珀のブローチだった。
「君のほうこそ、あの人とはどうなっているんだ。ずいぶん早いではないか」
私は膝の上で組んでいた手をほどいた。
「お会いしたいと思う方です」
「それなら、私ばかりを悪く言わなくても」
「婚約を解消してから知り合いました。あなたとの婚約は、もう解消されています」
ダミアンの口が閉じる。私はその顔を見ながら、夜会で何が嫌だったのか、やっと言葉にできた。
「婚約していた頃、誰かが来ると、私はあなたの隣を離れていました。それなのに、別れた今になって、ほかの方の隣へ行くことまで咎めないでください」
彼は、そんなつもりはなかった、と答えた。私は頷かなかった。二年前、首飾りを箱へ戻した日も、悪気があったわけではないのだろう。それでも、綺麗に髪を結ってもらい、彼に見せるのを楽しみにしていた私は、鏡の前で一人になった。あの日、私が寂しかったことまで否定されたくなかった。
「今後、私との婚約について尋ねられたら、解消したことと、その時期をお答えください。理由をお話しになるのでしたら、あなたから解消を申し出たことも。私も同じように答えます」
そこまで言ってから、私は手紙を彼のほうへ返した。
「私の気持ちを、ご自分に都合のよい言葉で説明しないでください」
ダミアンが帰ると、母は冷めたお茶を下げるよう侍女に頼んだ。私は椅子に座ったまま、窓の外で馬車が動き出すのを見送る。好きだった人なのに、帰っていく背中を引き留めたいとは思わなかった。会うたびに、私のほうを向いてほしいと願っていた頃が、少し遠い。
「何か、食べられそう?」
母に聞かれ、私は頷いた。夜会で食べられなかった菓子のことを、急に思い出したのだった。
*
後日、グラン夫人から手紙をいただいた。ダミアンからも、ご自身の申し入れで婚約を解消したと説明があり、あの夜の言い方は不適切だったと詫びられたそうだ。私はお礼の返事を書き、封をする前に、マティス様と出かける次の予定を一行添えた。
次にグラン夫人の家へ招かれたとき、玄関にはマティス様がいた。今日はマティス様と一緒に伺うと、あらかじめ夫人へ伝えてある。母が馬車から下りるのを待つあいだに、彼は私の袖へ目を留めた。
「あの絵の、パン屋の壁の色ですね」
淡い黄土色の服だった。前の展覧会で、私が気に入ったパン屋の壁も、こんな色をしていた。
「覚えていらしたの?」
「あなたが好きだとおっしゃったので」
母がこちらを見て微笑む。照れくさかったけれど、私も彼に伝えたいことがあった。
「今日は、あなたにお会いするから、これを選びました」
マティス様が黙り、耳を赤くする。その顔が嬉しくて、少し可笑しくて、私も笑った。夫人は私たちを迎えると、迷わず並びの席を示した。お茶の席では、この前の展覧会を見た人が何人もいて、話が弾む。マティス様が私の好きな絵を尋ねられ、今度こそ説明してみせます、と意気込んだので、私は隣で続きを待った。
その日の帰り、夫人に断って、二人で玄関脇の回廊を歩いた。母は少しあとから来るという。まだ明るい中庭には、植木鉢を運ぶ庭師の姿が見える。
マティス様は柱のそばで足を止め、私へ向き直った。
「今日、ずっと隣にいてくださって、嬉しかったです」
「私もです」
「それで、できれば、今日だけではなくて」
言葉が止まる。役所では人前で説明する仕事もあると聞いていたのに、彼は今、私より落ち着かない顔をしていた。私は待っているだけでもよかった。彼が言おうとしていることを、ちゃんと聞きたかった。でも、それと同じくらい、自分の気持ちも伝えたかった。
「私は、あなたが好きです」
彼の目が見開かれる。私は手袋の縫い目を押さえそうになり、手を開いた。
「一緒に絵を見ているときも、お手紙をいただいたときも嬉しいのです。次に会える日が決まると、それまでの日も楽しみになります」
マティス様は一度、俯いて笑った。それから顔を上げ、私の前へ手を差し出す。
「私も、あなたが好きです。お付き合いいただけますか」
はい、と答えて手を重ねると、彼は私の手をそっと握った。私は自分から握り返す。回廊の向こうで扉が開き、客人たちの声がした。ついそちらを見たけれど、手は離さなかった。
「お付き合いすることを、皆さんにお話ししてもいいですか」
そう尋ねると、マティス様は、もちろんです、と答えた。それだけでは足りないと思ったのか、すぐに続ける。
「私からも、話します」
玄関へ戻ると、母が夫人と話していた。私たちの手を見て、二人とも言葉を止める。私はマティス様を見上げ、彼が頷いてくれたので、母へ向き直った。
「お母様。私、マティス様とお付き合いすることになりました」
そう伝えるあいだも、彼は隣で私の手を握っていた。




