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あなただけを見つめてる

作者: 肺魚
掲載日:2026/08/07

 俺は、婚約者が怖い。

 俺、オリバー・ハルフォードの婚約者である、ラミレイア・レイヴィル侯爵令嬢は、周りからはとても評判がいい。見た目こそ、茶色の髪に同色の瞳で地味だが、観察力があって気遣いがあって、優しく淑やかで穏やかで、怒ったところを誰も見たことがないと。

 俺たちは、領地で大々的に綿花を栽培し、綿織物の産地として有名なレイヴィル侯爵家と、布を染める染料を生産しているハルフォード伯爵家の間で、事業を拡大するため政略で婚約した。両家が結びつけば、より質の良い織物を作れるようになるというのが親たちの目論見だ。

 初めて紹介されて会った時、少し地味だなとは思ったものの、よく手入れされた長い髪や、白くきめ細かい肌に、おっとりとした優しい笑みを浮かべた彼女の印象は悪くはなかった。

 彼女は俺の顔を見て、少しぼうっとしているようだった。これは自惚れだが、俺は子供の頃から明るい金髪に緑の瞳で、見た目が良いと家族にも親戚にも評判がいい。彼女も、俺の見た目を気に入ってくれたようだった。政略ではあるが、好かれて悪い気はしない。

 親からも家格が上の彼女とはうまくやれと言われていたのもあって、俺は優しく見えるように微笑みかけた。彼女の頬が赤らむ。良い印象を残せたようだった。

「オリバー様は、もしかして、マカロンがあまりお好きではありませんの?」

 お茶をしている時に不意に言われて、俺はちょっと驚いた。苦手なそぶりを見せたつもりはなかったが、図星だったからだ。

「わかってしまいましたか? 実は、歯にくっつく感じが少し苦手でして」

 俺がそう言うと、ラミレイア嬢は優しく微笑んだ。

「少し、苦手そうに見えたものですから。でもそうすると、キャラメルなども苦手なのかしら?」

「キャラメルは噛まずに舐めるので、そう苦手ではありません」

「甘いもの自体はお嫌いではないようですよね」

「ええ、割と好きなほうですね」

「オリバー様のこと、もっと知りたいですわ。せっかく婚約したのですもの」

「俺も、あなたのことを知りたいです」

「では、お互いに知っていきましょう」

 初めてのお茶会の日はそうして終わった。ラミレイア嬢は評判通り、よく相手を観察していて察しの良い、気の利く令嬢だと、その時はそう思った。

「少し眠そうですわね。夜更かしはほどほどになさいませね」

「ちょっと面白い本があったもので、つい」

「今日はあなたのお好きな茶葉を用意しましたの。それから、杏のコンフィも。——お好きでしたわよね?」

「え、よく俺の好物がわかりましたね? そんなにわかりやすいかな……」

「ええ、見ていればわかりますわ」

 婚約者としてのお茶会は、毎月一度行われる。学園でも同じクラスなので、週に二度ほどは共に昼食を取るようになっていた。

「先ほどの授業中、少し上の空でしたわね。何か考え事でも?」

「みっともないところを見られていたようで嫌だなぁ……。ちょっと次の数学の授業で、次に当てられることになっていたのを思い出したもので」

「それなら、私がお教えできると思いますわ」

「ラミレイア嬢は、本当によく見ておいでですね」

「観察眼には、少し自信がありますの」

 俺が感心したように言うと、彼女はにっこりと微笑んだ。

 この時は、普通によく気のつく、優しい婚約者だと思っていた。周りの評判通りの、理想の淑女だと、本気でそう思っていた。

「先ほど廊下でメイラー伯爵令息とお話しされていた、クォーターズの万年筆、ちょうど誕生日のプレゼントにご用意してありますわ」

「え? あ……そう、なんだ? ありがとう、嬉しいよ」

 少し、踏み込みすぎているのではないかと感じ始めたのはこの頃だった。他の相手との会話の内容を知っていて、それを当然のように話す。俺が誰かと話している時も、聞き耳でも立てているのかと、ほんの少し怖くなった。

「大丈夫ですか?」

「え、何が?」

「今日はいつもよりも口呼吸が多いですわ。鼻が詰まっておられるのではなくて? 風邪の引き始めかもしれません。今日は早く帰って休んでくださいませ」

 お茶会の席でそう言われて、早めに帰宅してからすぐに、くしゃみが何度も出た。彼女の言う通り、風邪を引いていた。その日は暖かくして、早めに寝た。

「昨日、読まれていたヒューバート・セスティンの新刊ですが、登場人物のライールのことを、クラスメイトのキルスナー子爵令息に似ているなとお思いでしたね。私も、実はそう思っていましたのよ」

「え……そんなこと、君に話したかな?」

「見ていればわかりますわ」

「……そう」

 口には出さずに考えていたことを言い当てられて、戸惑う。そもそも、昨日その本を読んでいた時、俺は自室に一人だったはずなのだ。家族か——まさか、使用人からでも聞いたのだろうか。俺は、少し不気味に思った。

「いけませんわ、オリバー様」

「え、何かしたかな?」

「クラスメイトたちと昨晩、街に出て飲み屋で騒ぎましたよね? いくら変装されているからといって、露出の激しい女性のいる店で騒ぐなど……人の目のあるところでは振る舞いに気をつけないといけませんわ」

「な、なんで知っているんだ!?」

「そういったお店に興味がおありでしたら、私のほうで見られないように店員たちを屋敷に集めるよう手配いたしますわ。これからは気をつけてくださいまし」

 年頃の男子生徒たちだけで出かけた先のことまで知っていて、しかもそれを怒るのではなく、嗜められる。俺はさすがに彼女のことを、少しおかしいのではないかと思い始めた。

 その頃から、彼女の言うことが、いちいち恐ろしく感じるようになった。

「昨晩、首を寝違えたようですが、大丈夫ですか? まだ痛むのではありませんか?」

「今日の朝食に出た卵、黄身が二つあって喜んでおられましたよね。可愛らしいところがおありですのね」

「先ほど、ノートにお取りになったブレナン語の単語の綴りを、いくつか間違えておられましたよ」

「クラスメイトのダンドレー子爵令息を見ていて落ち着かないのは、あなたが彼の、やたらと肩をすくめる癖をよく思っていないからですわ」

「隣のクラスのルメール男爵令嬢のことを、可愛らしいとお思いなのね。確かに、彼女は明るい茶色の髪に青い瞳で、見た目も華奢で、可憐ですものね」

 ラミレイア嬢は、本当に俺のことをよく知っていた。俺自身の気がついていないことまで知っていた。

 俺は、最近彼女のことが怖い。俺のことをどうしてそんなに知っているのか。近くにいない時のことまで、なぜそんなに知っているのか、わからない。それが、恐ろしい。

 それとなく、周りに彼女のことを少しだけ愚痴ってみる。ちょっと、距離が近すぎるとか、俺のことを知りすぎているとか、内面に踏み込みすぎているとか。けれど。

「何言っているんだ? お前のことを誰よりもよく観察して、気遣ってくれている優しい令嬢じゃないか」

「街遊びがバレた時も、怒らずに逆にうまくやれるように手配するとまで言ってくれたんだろう? 心が広くて理想的な婚約者だな」

「ラミレイア様は、本当に周りをよく見ていて、些細なことにもよく気がつく、気の利く令嬢ですわよね」

「あの方が怒るのを見たことがありませんわ。本当に懐の深い方」

「愛され過ぎて怖い? なんだ、惚気か」

 誰一人、わかってくれなかった。むしろ、俺が贅沢を言っていると注意される始末だ。

「オリバー様、今朝着てくるのを迷って選ばなかったほうのジャケット、とてもお似合いでしたわ」

「妹君のことを、あまりからかいすぎるものではありませんわ」

「お母様のドレスを似合わないなどと言うのは、感心できませんわ」

「先日、クラスメイトのスタイン伯爵令息と隠れて観に行かれた街の演劇、とても気に入られたようですね。特に、主演女優のマリエンヌ・セルドナの豊満な体つきと、鼻に抜けるような声がお気に召したのですね」

「昨日の夜は寝返りばかり打って、なかなか寝付けなかったようですね」

 ラミレイア嬢は、俺のどんなことも細かく見知っているようなことを言い続ける。俺のことを、まるで俺以上に知っているようだ。

 そうして、俺のことをすべてわかっているとでも言うように、優しく微笑みかけてくる。それでいて、俺が彼女のそういった言動を怖がっていることにだけは、決して気がつかないのだった。

 最近、俺は常に見られているような気がして、一人でいる時にも時々後ろを振り返ってしまう。もちろん、部屋には俺しかいない。けれども、俺は自分がまるで見張られているような、そんな気持ちでいっぱいだった。

 もう、とても婚約を続ける気にはなれなかった。常に監視されているような気持ちにさせる相手と結婚なんて、できるはずがない。彼女は、とうに良き理解者という域を超えている。

 俺はどうにか、彼女との婚約を解消できないか考えるようになっていった。手っ取り早く、彼女に嫌われれば良いのだろうか。

 まず、冷たく接してみた。笑顔を見せない。交わす言葉も挨拶とかだけで最低限。機嫌が悪そうに振る舞う。

「思春期の殿方は、試し行動を取られる方も多いと聞きますわ」

 けれども、彼女は笑顔でそう言って、話しかけてくるのをやめなかった。

 それで俺は、いよいよ思い悩んでいた。最近は、見張られているようで、なかなかうまく眠ることもできていない。そしてその睡眠不足はもちろん彼女に見破られて、大層大げさに心配されている。

「まあ、ハルフォード伯爵令息。今日もお元気そうね」

 そんな時に話しかけてきたのが、隣のクラスのルメール男爵令嬢だった。明るい茶色の髪に、春の空のような青い瞳。人懐っこく、可愛らしい顔と華奢な体つきで、男子生徒たちに密かに人気だ。反対に、婚約者のいる男子生徒にも距離が近いと、女子生徒たちの間では少し評判が悪い。

 睡眠不足でフラフラなところだったのに、彼女は俺のそんな様子に全く気が付かずに普通に声をかけてきた。元気そう? いったいどこを見ているんだ?

 そうは思ったが、俺のことを何でも知っているラミレイア嬢に比べて、あまりにも鈍感で観察眼のない彼女に、少しホッとした気持ちになった。彼女は俺のことを何も知らない——そこに、安心した。

「ちょっと二人で話せないかな」

 そんな言葉が出たのは、彼女に救いを求めていたのが半分。もう半分は、浮気でもしたらさすがにあのラミレイア嬢も怒って、そうしてもしかしたら婚約を解消できるのではないかと思ったからだった。この時の俺は、もうすでにかなり自棄になっていたのだった。

 アイナ・ルメール男爵令嬢は、可愛い顔に少し優越感を乗せて、俺の誘いに頷いてみせた。彼女が婚約者のいる男性にも擦り寄っているというのは、結構な噂になっている。子爵家や、可能なら伯爵家の嫁入り先を探しているというのも。

 それなら俺は、良い餌になるはずだった。

「俺のことはオリバーと呼んでくれ」

 俺がそう言って微笑みかけると、ルメール男爵令嬢はぼうっとした表情で俺のことを見つめた。瞳に熱がこもる。

「じゃあ、私のこともアイナと呼んで」

 俺たちはその日、そのまま二人で午後の授業をサボった。そして、それから人目につくところでも、わざと二人きりで親密な様子を見せつけるようにした。人前で親しげに名を呼び合い、手を繋ぎ、昼食を共にする。

「あんなに優しくて気の利く婚約者がいて、何が不満なんだ」

「ラミレイア嬢のほうが立派な淑女なのに」

 周りの友人たちから糾弾される。けれど、肝心のラミレイア嬢は静かなものだった。ただじっと、わざとらしいくらいに人前でいちゃつく俺たちを見ている。

「オリバー、あなたって本当に素敵な見た目ねぇ」

 アイナが俺に見惚れながらそう言う。顔には、侯爵令嬢に勝ったとでも言うような優越感がある。そんな彼女だから、利用していることに対してあまり罪悪感がない。それに、これで彼女から逃げられるのなら、本当に結婚してやっても良いというくらいのことは考えていた。

 本当に、俺のことを何もかも見通す、あのラミレイア嬢でないのなら、もう他の誰でも良い。

 周りの誰もが、彼女は素晴らしいと褒める。観察眼があって、よく気の利く、優しくて穏やかで心の広い、淑女の中の淑女だと。——けれど、俺は彼女が恐ろしいのだ。あのすべてを見通すような瞳と、すべてを理解したような笑みが。耐え難いほどに。

 彼女の視線を無視して、俺たち二人は仲の良い姿を周りに見せつけた。見せ続けた。

 学園内に噂が駆け巡る。恩知らずのオリバー・ハルフォード伯爵令息が、出来のいい婚約者ラミレイア・レイヴィル侯爵令嬢を裏切った。そんな噂だ。

 そうして、それは両家の親も知るところになった。

 俺は、ようやく深く呼吸ができるような気持ちだった。これで良い。俺が有責でも構うものか。それでこの婚約が終わるのなら——これで彼女から逃げられるのなら。

「オリバー様を繋ぎ止められなかった、私が悪いのですわ」

 話し合いの席で、怒りを見せる両親たちに囲まれて、しかしラミレイア嬢はそう言った。怒りの欠片もない、むしろ反省したような様子だった。

「オリバー様は、彼女のことが本気で好きだったわけではありませんの。私、知っているんです。私が少し、しつこくしすぎて……だから、彼女のそばが居心地が良かっただけなのだと思います」

 それどころか、俺のことを庇い出した。俺はゾッとした。

「ラミレイア、お前はこのまま婚約を続けて本当に良いのか?」

「ええ、だって両家にとって必要な政略ではありませんか。それに、私は今でもオリバー様のことを好ましく思っておりますから」

「何という懐の深さだ。——オリバー、浮気まで許してくれるような、こんなに心が広くてお前に尽くしてくれる相手の、いったい何が不満なんだ」

 父親が、呆然としている俺に話しかけてくる。まただ。また、誰も俺のこの恐怖をわかってくれない。

「オリバー様の好みは、アイナ・ルメール男爵令嬢ではなくて、もっと豊満な体つきの方ですわよね。私が子供を産んだ後になら、愛人を持たれても構いませんわ。その時は、舞台女優のマリエンヌ・セルドナに似た女性を探しましょう。私も協力いたします」

 ラミレイア嬢はいつもの、すべてを見透かすような慈愛に満ちた笑顔で、俺にそう言った。

「何で……どうして、そこまでするんだ? 何を考えているんだ、君は……」

 俺が震える声で言うと、彼女は「あら」と呟き首を傾げて見せた。

「私は、あなたのことが何でも知りたいだけですわ」

 俺の手を掬い取るように取って、顔を覗き込まれる。真っ直ぐな瞳の奥に、底知れぬ深淵が見えた。

「昨日もよく眠れなかったのですね。よく効く睡眠薬を用意してあります。お持ち帰りになって。それから、今朝は朝食も半分以上残してしまわれて……軽食を用意してあります。一緒にいただきましょう」

 手を引かれて歩き出す。ひんやりと冷たい手だった。もう、逆らう気力は失われていた。そのことも恐らく、彼女は『理解』しているのだろう。

 ——逃げられない。そう思った。

夏なので少し怖い話を書いてみました。

少しでも楽しんでいただけたなら嬉しいです。

よろしければ、ブックマークや評価などで応援していただけると幸いです。

また、次の作品でお会いできますように。

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