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戻したい時間

掲載日:2026/05/03

駅前の古びた時計店には、いつも同じ時間が流れていた。

午後五時十分。

店の壁にかかった柱時計も、ショーケースの腕時計も、奥に積まれた目覚まし時計も、なぜかみんな午後五時十分を指している。

高校二年の直樹は、その不気味さが少し気になっていた。

学校帰り、商店街を抜けるたびにその店の前を通る。

薄暗い店内には、白髪の店主が一人。無口で、いつも窓の外を見ていた。

ある雨の日、直樹はついに店へ入った。

「すみません。なんで全部、五時十分なんですか?」

店主は少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。

「気づいたか」

低い声だった。

「この店の時計はな、“戻したい時間”を指すんだ」

「戻したい時間?」

「人には一つくらいあるだろう。あの時こうしていれば、と何度も思い返す瞬間が」

直樹は笑った。

「そんなの、いっぱいありますよ」

「なら、一つ選びなさい」

店主はショーケースから古い銀の懐中時計を取り出した。

「これを使えば、その時間に戻れる。ただし、一度きりだ」

直樹は半信半疑だった。

けれど、その言葉は妙に胸に刺さった。

彼には、どうしてもやり直したい日があった。

去年の夏。

親友の亮太と喧嘩した日だ。

くだらない意地の張り合いだった。

仲直りしないまま、亮太は交通事故で亡くなった。

最後に交わした言葉は、「もう知らない」だった。

もし戻れるなら。

直樹は迷わず懐中時計を握った。

「去年の八月三日、午後五時十分に」

店主は静かにうなずいた。

「では、行きなさい」

次の瞬間、世界が歪んだ。

——蝉の声。

熱い風。

見慣れた川沿いの道。

制服ではなく、あの日の私服。

スマホの日付は、確かに去年の八月三日だった。

直樹は走った。

亮太の家へ。

汗だくでインターホンを押す。

やがて、亮太が出てきた。

生きている。

その事実だけで、涙が出そうになった。

「……なんだよ」

不機嫌そうな顔。

でも、生きている。

「ごめん」

直樹は頭を下げた。

「俺が悪かった。ほんとに、ごめん」

亮太はしばらく黙っていた。

やがて、ふっと笑った。

「お前、急にどうしたんだよ」

「いいから……許してくれ」

「別に、俺も言いすぎたし」

その一言で、胸の奥の重石が崩れた。

よかった。

間に合った。

二人で少し話し、前みたいに笑った。

夕焼けが町を染める。

午後五時十分を過ぎていた。

これでいい。

そう思った、その時。

亮太が言った。

「なあ直樹」

「ん?」

「お前、去年も同じこと言ってたよな」

直樹は固まった。

「……え?」

「この時間に来て、急に謝って。全く同じ顔してた」

喉が凍る。

「何言って……」

亮太は不思議そうに首をかしげた。

「その後、お前、駅前の時計屋に行っただろ?」

背筋が冷たくなる。

「なんで、それを」

「だって俺も行ったから」

夕陽の中で、亮太は静かに笑った。

「俺も戻ったんだよ。お前が事故に遭った日から」

直樹の呼吸が止まった。

「……事故?」

「そうだよ。死んだの、お前の方」

世界が音を失った。

「何を……」

「去年の八月三日、午後五時十分。あの喧嘩のあと、飛び出したお前が車にはねられた」

亮太の声だけが、やけに鮮明だった。

「だから俺は、何度も戻ってる。何度もお前を止めようとしてる」

直樹の手から、懐中時計が落ちた。

ガラスが割れる。

その中には、小さな写真が入っていた。

——病室のベッド。

眠る自分。

その横で、泣いている母親。

思い出が、一気に押し寄せた。

白い天井。

機械音。

動かない身体。

「……植物状態」

亮太が静かに言った。

「お前はまだ、生きてる」

直樹は立ち尽くした。

じゃあ、今ここにいる自分は。

「選べ」

いつの間にか、あの店主がそこにいた。

夕焼けの中、まるで最初からいたように。

「このままここで、後悔のない夢を生きるか」

店主は壊れた懐中時計を拾い上げた。

「それとも、目を覚ますか」

亮太は何も言わなかった。

ただ、まっすぐ直樹を見ていた。

長い沈黙のあと。

直樹は、小さく笑った。

「……ずるいな」

「ん?」

「こんなの、答え決まってるじゃん」

彼は涙をぬぐった。

「ちゃんと、生きるよ」

その瞬間。

世界が、白くほどけた。

——目を開けると、病室だった。

消毒液の匂い。

白い天井。

そして、泣きながら笑う母親。

「直樹……!」

かすれた声で、彼は最初にこう言った。

「亮太に……謝らないと」

母親は、少しだけ困ったように笑った。

「その必要はないわ」

「え?」

「毎日来てるもの。あの子」

病室のドアが、ちょうど開いた。

そこには、呆れた顔の亮太が立っていた。

「やっと起きたか、バカ」

直樹は泣きながら笑った。

そして思った。

駅前のあの時計店を、もう一度探してみよう、と。

けれど——

退院して何度商店街を歩いても、

そこに時計店はなかった。

まるで、最初から存在しなかったみたいに。

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