戻したい時間
駅前の古びた時計店には、いつも同じ時間が流れていた。
午後五時十分。
店の壁にかかった柱時計も、ショーケースの腕時計も、奥に積まれた目覚まし時計も、なぜかみんな午後五時十分を指している。
高校二年の直樹は、その不気味さが少し気になっていた。
学校帰り、商店街を抜けるたびにその店の前を通る。
薄暗い店内には、白髪の店主が一人。無口で、いつも窓の外を見ていた。
ある雨の日、直樹はついに店へ入った。
「すみません。なんで全部、五時十分なんですか?」
店主は少し驚いた顔をして、それから小さく笑った。
「気づいたか」
低い声だった。
「この店の時計はな、“戻したい時間”を指すんだ」
「戻したい時間?」
「人には一つくらいあるだろう。あの時こうしていれば、と何度も思い返す瞬間が」
直樹は笑った。
「そんなの、いっぱいありますよ」
「なら、一つ選びなさい」
店主はショーケースから古い銀の懐中時計を取り出した。
「これを使えば、その時間に戻れる。ただし、一度きりだ」
直樹は半信半疑だった。
けれど、その言葉は妙に胸に刺さった。
彼には、どうしてもやり直したい日があった。
去年の夏。
親友の亮太と喧嘩した日だ。
くだらない意地の張り合いだった。
仲直りしないまま、亮太は交通事故で亡くなった。
最後に交わした言葉は、「もう知らない」だった。
もし戻れるなら。
直樹は迷わず懐中時計を握った。
「去年の八月三日、午後五時十分に」
店主は静かにうなずいた。
「では、行きなさい」
次の瞬間、世界が歪んだ。
——蝉の声。
熱い風。
見慣れた川沿いの道。
制服ではなく、あの日の私服。
スマホの日付は、確かに去年の八月三日だった。
直樹は走った。
亮太の家へ。
汗だくでインターホンを押す。
やがて、亮太が出てきた。
生きている。
その事実だけで、涙が出そうになった。
「……なんだよ」
不機嫌そうな顔。
でも、生きている。
「ごめん」
直樹は頭を下げた。
「俺が悪かった。ほんとに、ごめん」
亮太はしばらく黙っていた。
やがて、ふっと笑った。
「お前、急にどうしたんだよ」
「いいから……許してくれ」
「別に、俺も言いすぎたし」
その一言で、胸の奥の重石が崩れた。
よかった。
間に合った。
二人で少し話し、前みたいに笑った。
夕焼けが町を染める。
午後五時十分を過ぎていた。
これでいい。
そう思った、その時。
亮太が言った。
「なあ直樹」
「ん?」
「お前、去年も同じこと言ってたよな」
直樹は固まった。
「……え?」
「この時間に来て、急に謝って。全く同じ顔してた」
喉が凍る。
「何言って……」
亮太は不思議そうに首をかしげた。
「その後、お前、駅前の時計屋に行っただろ?」
背筋が冷たくなる。
「なんで、それを」
「だって俺も行ったから」
夕陽の中で、亮太は静かに笑った。
「俺も戻ったんだよ。お前が事故に遭った日から」
直樹の呼吸が止まった。
「……事故?」
「そうだよ。死んだの、お前の方」
世界が音を失った。
「何を……」
「去年の八月三日、午後五時十分。あの喧嘩のあと、飛び出したお前が車にはねられた」
亮太の声だけが、やけに鮮明だった。
「だから俺は、何度も戻ってる。何度もお前を止めようとしてる」
直樹の手から、懐中時計が落ちた。
ガラスが割れる。
その中には、小さな写真が入っていた。
——病室のベッド。
眠る自分。
その横で、泣いている母親。
思い出が、一気に押し寄せた。
白い天井。
機械音。
動かない身体。
「……植物状態」
亮太が静かに言った。
「お前はまだ、生きてる」
直樹は立ち尽くした。
じゃあ、今ここにいる自分は。
「選べ」
いつの間にか、あの店主がそこにいた。
夕焼けの中、まるで最初からいたように。
「このままここで、後悔のない夢を生きるか」
店主は壊れた懐中時計を拾い上げた。
「それとも、目を覚ますか」
亮太は何も言わなかった。
ただ、まっすぐ直樹を見ていた。
長い沈黙のあと。
直樹は、小さく笑った。
「……ずるいな」
「ん?」
「こんなの、答え決まってるじゃん」
彼は涙をぬぐった。
「ちゃんと、生きるよ」
その瞬間。
世界が、白くほどけた。
——目を開けると、病室だった。
消毒液の匂い。
白い天井。
そして、泣きながら笑う母親。
「直樹……!」
かすれた声で、彼は最初にこう言った。
「亮太に……謝らないと」
母親は、少しだけ困ったように笑った。
「その必要はないわ」
「え?」
「毎日来てるもの。あの子」
病室のドアが、ちょうど開いた。
そこには、呆れた顔の亮太が立っていた。
「やっと起きたか、バカ」
直樹は泣きながら笑った。
そして思った。
駅前のあの時計店を、もう一度探してみよう、と。
けれど——
退院して何度商店街を歩いても、
そこに時計店はなかった。
まるで、最初から存在しなかったみたいに。




