第9話 甘い箱庭のひび
大広間を後にし、自室へ戻るころには、祝宴のざわめきは遠い海鳴りのように薄れていた。扉が閉まり、音が途切れる。残ったのは、夜の静けさと自分の鼓動だけだった。
甘い香りが、ゆっくりと肺へ沈む。深い赤のダマスクローズ。月光に溶けるアイリスの気品。肌に残るホワイトムスク。そして体温に触れたときだけ、ほんの微かに立ち上る甘さ。
磨かれすぎた香りだ。誰かに愛されるためだけに整えられた空気。ピンクと金の天蓋、レース越しの月、絨毯に織り込まれた過剰な薔薇。壁際には薄紅の花が溢れるように飾られている。愛されることを前提に作られた、完璧な箱庭だった。
黒いドレスの紐を解くと、宝石の飾りがひとつ床へ落ちた。小さな金属音が、やけに長く響く。盤から駒が落ちた音のようだった。
鏡の前に立つ。赤い髪が肩へ流れ、翡翠の瞳が自分を刺した。視線は自然と右手首へ落ちる。
──まだ、何もない。けれど皮膚の下では、見えない砂時計が音もなく削れている。
(あと一年)
あの夜、禁忌を使った代償が、ゆっくりと王族性を削っている。一年かけて、確実に。時間を巻き戻しても、血の流れだけは止まらない。誰にも見えないところから、静かに。
甘い部屋の中心で、胸の奥だけがひび割れていた。
その亀裂の奥から、別の夜が滲み出す。湿った土。月のない森。呼吸を乱す少年。紫の瞳が、泣かずに光っていた。
「……強くなる」
あの声は祈りでも誓いでもなく、呪いに近かった。同じ喪失を抱えたはずなのに、ルカリウスの“渇き”だけが、あの夜から止まっていない。
石壁の冷えた部屋、乾いた木の匂い、ベチバーの奥に沈む獣の残り香。あの男の飢えは、明らかに異質だった。満月前夜に滲んだ赤。あれは偶然ではない。
(あなたの未来は、まだ分岐している)
青い視線がよぎる。けれど盤の中心で脈打っているのは、“渇き”を抱えた騎士だ。
その瞬間、胸の奥で何かが微かに揺れた。扉の向こうに立つ気配を、身体が先に知ってしまう。
空気が、薄く震えた。
◇◇◇
回廊は静かだった。月光が白と金の床を冷たく磨いている。
だが、この扉の向こうだけ温度が違う。甘い。香水ではない、生きた体温から滲む匂いだった。ダマスクローズとホワイトムスクが、扉越しにじわりと滲んでいる。
喉が疼く。
一日分では足りない。どれだけ飲んでも、底が鳴る。満月前夜には視界が赤く滲むことがある。理性で押さえ込めるが、消えはしない。それがずっと、続いている。
母の声が蘇る。
「あなたのせいじゃない」
優しすぎる声だった。そのあとに残ったのは、空洞だけだ。石壁の冷えた部屋で、ひとり抱えてきた空洞。どれだけ年を重ねても、埋まらなかった。
この扉の向こうの匂いだけが、その空洞の底を掠める。
欲しいのは血なのか、それとも──選ばれるという確信なのか。自分でも判別がつかないまま、喉だけが先に疼いていた。
指が扉へ触れる。冷たい木だ。息を吸う。甘さが肺に沈み、理性が一枚削られる。
静かなノックが、夜を裂いた。




