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第8話 盤外の観測者


広間のざわめきがまだ収まりきらぬ中、小公爵はゆっくりとローゼリアへ視線を戻した。その動きは優雅で、乱れがない。何も奪われていない者の所作だ。


「……なるほど」


低く落ちた声に、わずかに愉しんでいる響きが混じる。


「王女様は、随分と成長なさったようだ」


穏やかで整った声音。瞳には、敗北の影がない。焦りも怒りも浮かばない。揺らがない。それが、いっそう不気味だった。


王の側近たちが静かに囲む。武器は抜かない。逃げ道だけを閉ざしていく。


「弁明は後日、正式に行ってもらう」


王の声が落ちた。


小公爵は肩をわずかに揺らす。動揺ではない。呼吸の調整だ。


「私が黒幕だと、本気で思われていますか?」


否定ではない。抗議でもない。問いだけを残す。追い詰められた者の声音ではなかった。


沈黙を置き、視線がルカリウスへと向けられた。社交の仮面は外れている。怒りではなく、見透かす目だ。


「……お前は駒だ」


囁くように小さな声に刃を込める。祝宴のざわめきが、一段低く沈んだ。ルカリウスは視線を逸らさない。


「駒かどうかは、最後まで残った者が決める」


短い言葉。揺るがない強い芯だけがある。

小公爵は、ほんのわずかに笑った。皮肉ではない、知っている者の余裕の表情だった。


「王女様が守ろうとしている男は、すでに“選ばれている”」


その言葉は、祝宴の音よりも深い場所に沈んだ。意味を持ちきる前に、胸の奥へ冷たい滴だけを落として。


側近に挟まれても歩みは乱れない。重い扉が閉じる。低い音が広間を震わせ、祝宴に細い亀裂が走った。


(選ばれている──誰に、何に?)


ローゼリアの胸の奥へ、冷たいものが沈む。恐怖ではない。盤のどこかに、まだ見えていない駒が置かれているという感覚。そして、その中心にいるのは──ルカリウス。


夜は、まだ終わらない。祝宴の音が、一枚だけ剥がれ落ちる。


──拍手。


一定の間隔。寸分も狂わない。喜びではなく、採点の音だ。一拍。二拍。三拍。そこで、ぴたりと止んだ。


広間の視線が、ゆっくりとそちらへ吸い寄せられる。


燭台の光が届ききらない柱の陰に、ひとつ“青”が立っていた。


深い青の衣。黒髪。冷えた瞳。そこにいるだけで、祝宴の空気がわずかに温度を失う。美しい、と思うより先に、異質だと感じた。


「見事な一手でした、王女様」


低く澄んだ声が、広間の中央まで迷いなく届く。賞賛の形をしているのに、どこにも熱がない。


ローゼリアの背筋を、細い震えが走った。知らない顔。知らないはずなのに、胸の奥だけが“先に”反応した。


男は、ゆるやかに微笑んだ。祝福ではない。成功を喜ぶ笑みでもない。ただ、少し前からすべてを見ていた者のような目だった。


「盤が少し、面白くなりましたね」


ルカリウスの気配が変わる。半歩、前。ローゼリアと“青”のあいだへ、影のように身体を滑り込ませた。


触れない。触れないまま守る。境界線が、ひとつ引かれる。


「……誰だ」


短い問い。威圧はない。ただ、これ以上は踏み込むなと告げる声だ。


青い瞳がルカリウスを一度だけ測り、すぐにローゼリアへ戻る。


「ただの傍観者ですよ」


穏やかな声音。視線はなお、ルカリウスの肩越しにローゼリアへ届く。


「あなたの未来は、まだ分岐している」


その一言で、広間の温度が半度落ちた。


“分岐”を言い切る声だった。占いでも予感でもない。だからこそ、背筋が冷えた。


ローゼリアが問い返すより早く、青は半歩、影へ退く。

人の肩が揺れ、視線が交錯する。


次に見たとき──そこには、もう何もなかった。


シャンデリアの光だけが、柱陰を静かに照らしている。


残ったのは、冷えた余韻だけ。そして──今この瞬間も、どこかで“見られている”感覚だった。


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