第6話 祝宴の静脈
楽団の音色が、大広間の壁際からゆるやかに流れ出す。弦の震えが天井画へ溶け、重厚な柱に反射する。
広間の中央。磨き上げられた大理石の上で、二人は向かい合った。シャンデリアの光が、黒いドレスを包み込む。
形式に従い、小公爵の手がローゼリアの腰へ置かれた。添えるには、わずかに強い。逃げ道を塞ぐように背へ回る指先が、肋骨のすぐ下で止まる。位置を覚えさせるための、密やかな刻印だ。
「今日は本来、発表の日だとご理解いただいていますか」
声は低く抑えられている。楽団の旋律に紛れる程度の音量だ。それでも近くをすれ違う貴族が、わずかに視線を向ける。ローゼリアの隣に並ぶのは自分だという、静かな自負だ。
ローゼリアは微笑みを崩さない。旋律に合わせ、優雅に一歩を踏み替える。黒い裾が弧を描き、光を吸い込んだ。
「……ええ」
(回帰前は……これが進むべき道だと、疑うことすらなかった)
視線を絡めたまま、緩やかに旋回する。黒が円を描く。赤がそれを追う。そして──
「婚約、やめようと思うの」
旋律に溶けるように落ちた言葉。声は抑えられている。それでも、すぐ傍を通り過ぎた一組が足を止めた。
小公爵は笑う。完璧な、社交用の笑みだ。
「ご冗談を」
「本気よ」
軽やかなターン。腕をすり抜け、再び正面に立つ。黒が大きく揺れ、宝石が光を跳ね返す。赤と黒が、至近距離で向き合った。
ローゼリアは、わずかに顔を寄せた。燭台の光が翡翠の瞳を照らし、その奥に宿る静かな炎を浮かび上がらせる。
「私、愛人をたくさん持ちたいの」
ささやきに近い声でも、ローゼリアの声はよく通る。近くを回る数名が、確かに聞いた。
広間全体が凍ったわけではない。けれど中央だけ、息継ぎが消えた。好奇と驚愕が、波紋のように広がっていく。
小公爵の瞳が、はじめて完全に冷えた。
「……王女様が、公の場で何を」
ローゼリアは、くすりと笑う。
「だって、吸血族だもの?」
無邪気な声音に乗せて落とす理屈は、刃のように鋭い。
「愛も血も、独占するものではないでしょう?」
すぐ傍で踊る貴族の足がわずかに止まる。扇の陰から視線が集まる。旋律の裏で、中央だけ緊張が傾いていた。
小公爵はさらに声を落とし、顔を近づけた。
「私を試しているのですか?」
「もう決めたの」
ローゼリアはゆるやかに首を振った。二人の間には、音楽とは別の旋律が流れている。音よりも静かな、刃の対話だ。
小公爵は一度、呼吸を整え、再び微笑んだ。完璧な社交用の笑みだ。
「……なるほど。では私も、その愛人の一人として席をいただければ」
それでも小公爵の声は乱れなかった。形を変えてでも繋ぎ止めようとする姿勢に、近くの貴族たちが息を呑む。
ローゼリアは、ほんの少しだけ首を傾げる。可憐で残酷な角度だ。
「残念だけど」
ほんの一瞬、微笑みが深くなった。
「あなたは候補に入っていないわ」
遠くでは旋律が続いているのに、中央の円だけ静寂が生まれていた。
「……理由を伺っても?」
声色は穏やかだ。怒鳴らない、取り乱さない。それが、いっそう不気味だった。
ローゼリアはゆるやかに旋回した。黒いドレスが夜の波のように広がり、袖口の深紅のルビーが一瞬だけ煌めく。赤と黒が、至近距離で交差した。
ローゼリアは、そっと小公爵の耳元へ顔を寄せる。これは侮辱ではない。──退路を、焼く。
「顔が好みじゃないの」
「あなたを見ても、胸がときめかない」
ささやき。それでも、すぐ傍の数人にははっきりと届いた。広間全体が凍ったわけではない。けれど中央だけ、温度が落ちた。
小公爵は微笑んだまま、ゆっくりと手を離す。笑みは崩れない。指先だけが、白くなるほど強く握られていた。
「顔が好みではない、とは……」
怒りでも悲しみでもない、刻む声。覚えた、という声音だ。ローゼリアは一歩だけ距離を取る。黒い裾が、床を撫でた。
「好みは大切でしょう?」
黒い薔薇のような笑み。
「一生を共にするのなら、なおさら」
砕かれた盤は、もう元には戻らない。




