第40話 秒針は嘘をつかない
回廊の奥。月光が届かない影の中に、ひとり分の気配があった。気配を消しているわけではない。ただ──存在を“ずらして”いる。世界の焦点から、半歩だけ外れて立つように。
エリオは柱にもたれたまま、ゆっくりと目を細める。懐中時計が、指先でわずかに揺れる。金属の冷えが、皮膚を通して骨に触れる。
カチ、と。
小さな金属音。ほんの一秒。ほんの半歩。それだけ、世界を遅らせていた。
時間は流れている。エリオだけが、その流速を知っている。
聞くつもりはなかった。けれど満月の夜は、血が騒ぐ。そして時間は、嘘をつかない。歪みは、必ずどこかに痕を残す。
ルカリウスの血が反応した瞬間、空間が微細に軋んだ。目に見えないひびが、夜の膜を走った。
あの揺らぎは、禁忌でも契約失敗でもない。もっと原始的なもの。血が、呼び合った音。
「……やっぱり」
小さく呟く。予想はしていた。満月前夜のオッドアイ。匂いへの過剰な反応。ローゼリアを噛みかけた瞬間の、あの波形。
王族性が、何かを見つけてしまった。
エリオはゆっくりと目を閉じる。
(なるほどね)
思ったより、深い。ただの偶然でも、相性でもない。もっと、根の方で噛み合っている。
ルカリウスの血は普通じゃない。王族でもない。完全な異端でもない。それなのに──王族性が拒絶しない。
「……引っかかるな」
言葉は軽い。でも瞳は、笑っていない。
もしあれがただの吸血族の血なら、あの瞬間もっと単純な結果になっていた。暴走か、拒絶か。どちらかだ。なのに、あの夜の波形は違った。崩壊でも固定でもない。まるで血のあいだに、ひとつだけ隙間があるみたいに。
エリオの金の瞳が、静かに光る。
「研究者さんは、気づき始めてる」
くすり、と笑う。あの理性型研究者。今はまだ仮説段階。でも、もうすぐ辿り着く。“普通では説明できない血”が、ルカリウスの中にあることに。
エリオは、懐中時計を開く。秒針が、規則正しく刻む。
カチ。カチ。カチ。
音は正確すぎる。だからこそ残酷だ。
ローゼリアは自分を削る。ルカリウスは自分を差し出す。セラフィオンは自分を壊す。みんな、優しすぎる。馬鹿みたいに。優しさはいつも、最短距離で破滅に向かう。
エリオは、ふっと息を吐く。
「……厄介だなぁ」
でも。嫌いじゃない。こういう不確定要素。理論を越える瞬間。未来が分岐する音。
月光が、わずかに影へ差し込む。
その一瞬。エリオの瞳が、完全に“知っている者”の色になる。
ローゼリアが禁忌を使ったこと。ルカリウスが死んだ未来。セラフィオンがその死に関与していたこと。全部、知っている。そして、血だけは巻き戻らないことも。でも言わない。まだ。
「壊すなら、ちゃんと壊そうよ」
ぽつり。誰に向けた言葉でもない。けれど夜は、それを覚える。
秒針を、指で止める。一瞬。世界が、止まる。
風が止まり、月光が静止し、遠くの呼吸も凍る。石壁に滲んだ光が、そのまま固まる。
その静寂の中でエリオだけが動く。回廊の先。ルカリウスとセラフィオンの距離を、じっと見る。青と赤。理性と本能。どちらも、まだ気づいていない。
「次の満月は──」
時間を、戻さない。決めた。止めれば、また世界が嘘を覚える。過去が上書きされ、罪だけが残る。
(だから今度は、止めない)
誰かが壊れるなら、選んで壊れろ。
パチン。指が離れる。凍っていた世界が、ひび割れ、再び動き出す。月光が流れ、風が息を取り戻す。誰も気づかない。時間が一秒、止まっていたことに。
エリオは、いつもの笑顔に戻る。軽くて、無害で、どこか愛嬌のある顔。
「さーて」
軽やかな足取りで、闇から離れる。
「僕だけ、ずるいね」
誰にも聞こえない声で。
月は、何も知らない顔で空にある。でも秒針は、全部知っている。そしてエリオだけが、その重さをひとりで抱えている。




