第4話 血の約束
侍女たちの足音が大理石の廊下へ遠ざかり、静寂が落ちた。朝の光が、二人の間を細く横切る。
ルカリウスは動かない。腕を組んだまま、ただ真っ直ぐにローゼリアを見ていた。その瞳は先ほどより僅かに深く、黒を纏った王女の中に変わった“何か”を探していた。
「……何を考えているんですか、王女」
穏やかな声音。その奥に刃のような警戒がある。
ローゼリアは引かない。むしろ、さらに近づく。ルカリウスの吐息が黒い絹をかすめた。
近づいた瞬間ふわりと掠める乾いたベチバーと、冷えた木の匂い。指先を伸ばし、銀の髪がわずかにかかる首筋に触れた。
骨ばった感触の奥に、確かな熱がある。生きている。ここにいる。消えていない。
ほんの一瞬、二人の呼吸が重なった。
影が睫毛の縁に落ち、瞳の紫が深く沈む。ルカリウスは逃げない。
「失うのは、もう嫌なの」
その言葉が落ちたあと、世界から余計な音が消えた。窓の外で風が枝を揺らす。それだけが、やけに遠い。
ルカリウスの左目が、ほんの僅かに赤を帯びる。満月前でもない。血を前にしたわけでもない。なのに渇きが、反応していた。飢えではない。もっと深い、欠落の疼きだ。
ローゼリアは正面からその瞳を見上げた。逃げない。逸らさない。
「ルカ」
ローゼリアは息を吸った。
「私と──愛人契約を結びましょう」
その言葉は、音もなく落ちた。まるで高所から手放された刃のように。
吐息が白くならないはずの室内で、なぜか温度だけが落ちた気がした。
ルカリウスの片眉がわずかに上がる。警戒と皮肉、そして抑えきれない僅かな興味が瞳に浮かんだ。
「王女と“愛人契約”?婚約者がいるのに──ですか?」
低く、耳に残る声。距離を測る問いだ。
ローゼリアは逸らさない。
ルカリウスはすぐには笑わない。瞳の奥で何かが計算を止める。野心でも打算でもない。ただ──“選ばれた”という事実が、ゆっくりと深い場所へ沈んでいく。
その沈黙の中、ローゼリアは背を向けた。
ドレッサーへ歩み、一番上の引き出しの鍵を回す。革の擦れる音。蛇革の黒い箱を取り出し、迷いなく蓋を開いた。
その箱だけが夜よりも深い影を落とし、深紅の紋章が光を吸い込んでいた。白壁に淡い赤の反射が揺れる。血が呼吸しているように。
「これを渡せば、あなたは私の血に縛られる」
「……血で俺を?」
掠れた声。ほんの一瞬、理性の鎧に細い亀裂が入る。
「代わりに──あなたは私の所有物になる」
ルカリウスが一歩踏み出す。ベチバーにほんの少し重なるアンバー。体温が上がっているのが香りでわかる。影が黒いドレスへ重なった。
「ははっ……もう所有はされているでしょう」
乾いた笑い。視線が絡む。
「飾りになる気はない」
「あなたを飾るつもりなんてないわ」
翡翠と紫がぶつかり合う。火花は散らない。散らないからこそ、危険だ。
「一年後、あなたは王座に手を伸ばす」
紫が深く沈む。動揺はない。
「問題でも?」
「問題なのは──その反乱で、あなたが死ぬことよ。私は、それを見たの」
ルカリウスの口元が笑う。目は笑わない。
「予知の真似事ですか?」
「あなたが雪の上に倒れる未来を、私は知っている」
ルカリウスの指先がわずかに動いた。
「……俺が死ぬ未来を、王女が知っているとして──なぜ、俺を守る」
低く、静かな問い。答えは喉まで出かかる。
(愛しているから)
けれど、飲み込む。今それを伝えれば、懇願になる。ローゼリアは王女であり続ける。
「あなたは、私が選んだ男だから」
“選ばれた”という感覚が、ルカリウスの深い場所に確かに刺さる。
「私は未来を取り戻したいだけ。婚約を止める。そのための契約よ」
声に揺らぎはない。揺らげば、負ける。
「たとえ私が死んでも、血印が発動すればあなたは王座へ届く」
少し考える間を置いてから、ルカリウスが口を開く。
「……なぜそこまで与える」
本気の問いだった。ローゼリアはまっすぐ見返す。
「あなたは、私が唯一“対等”だと思っている男だから」
ルカリウスの呼吸が、ほんの僅かに止まった。
「……条件は」
「一年間、私のそばにいて。その間、私の血以外は飲まないで」
「一年も?」
「できない?」
挑発ではなく、ただの確認だ。お互いが、次の言葉を探していた。
不意に、ルカリウスの左手がローゼリアの右手首を掴んだ。逃がさない力加減。
右手首が脈に合わせて熱を帯びる。まるでこの選択を刻めとでも言うように。
「王女……俺を縛るつもりですか」
「あなたが私を選ぶかどうか、確かめたいだけ」
ダマスクローズとベチバーが重なる。呼吸が近い。
「俺が死ぬ未来があるなら、書き換える。あなたを犠牲にして生き延びる気はない」
ルカリウスは目を閉じ、息を吐いた。次の瞬間、静かに片膝をついた。
忠誠でも、服従でもない。対等な契約者として。
ルカリウスはローゼリアの右手を取り、甲へ唇を落とす。誓いのような仕草だった。
一瞬だけ視線を伏せる。呼ぶべきではない名が、ルカリウスの胸の奥で転がった。
そして──
「誕生日おめでとうございます」
ほんのわずか、言葉が途切れる。
「……リア」
子供の頃以来だろうか。未来では最期にだけ言葉にした愛称。
その愛称が、ローゼリアの胸の奥をふわりと包んだ。呼び名がひとつ、塗り替えられた瞬間だった。
これは、やり直しではない。同じ運命が待つなら、今度は運命ごと噛み砕く。




