第39話 理性の仮説、血の証明
回廊の端で、ルカリウスはひとり立っていた。
研究塔の回廊は、夜になると音を吸い込む。
石壁は月光を滲ませ、足音さえ鈍く反響して、遠くで溶ける。
儀式の後、城は静まり返っていた。“終わった”はずの満月だけが、まだ喉元に骨を残している。
ローゼリアはまだ眠っている。エリオは付き添っている。誰もが今は“崩れなかった”ことだけを数えて息をしていた。
ルカリウスは月を背に、無言でいる。左目には、まだ完全に沈みきらない赤が残っている。消し忘れた火種のように。
「体調は?」
背後からの声。振り返らなくてもわかるセラフィオンの声。ルカリウスは振り返らないまま、答えた。
「問題ない」
セラフィオンは一定の距離で止まる。近づきすぎない。だが逃がさない距離。研究者が異常を観測するときの、冷たく正確な間合い。ジュニパーの冷えた香りが、月光の中で際立つ。
「問題がない者は、満月の残滓を瞳に残しません」
ルカリウスはゆっくり振り返る。右は深い紫。しかし左だけが、深層で赤を抱えている。月の反射ではない。内部から滲んでいる。
「……何が言いたい」
声は低い。警戒でも苛立ちでもない。“自分でも説明できない何か”への不快感。刃を握っているのに、刃がどこを向くか分からないときの、あの鈍いざらつき。
セラフィオンは答えない。代わりに、一歩だけ近づいた。月光が二人のあいだに落ちる。白い線が床を切り分け、近づくほど、影が濃くなる。
「あなたは、自分の血をどこまで知っていますか」
空気が変わる。ルカリウスの視線が鋭くなる。獣の目ではない。剣士の目だ。
「王族じゃない。それで十分だろ」
即答。けれど、その言い方には僅かな硬さがあった。血ではなく剣でここまで上がってきた男の、切り捨てるような自負。
「ええ。少なくとも、王族の波形ではありません」
セラフィオンの声は淡々としている。淡々としたまま、刃を研ぐ。
「ですが──通常の貴族の反応とも一致しない」
沈黙。月光が冷たい。赤が、息をしている。ルカリウスの眉が、わずかに寄る。
「……何の話だ」
セラフィオンは懐から星読みの盤を取り出す。掌に収まる円盤。月光を受けた紋様が淡く光り、空間そのものに波形を刻むように鳴る。
そして、ルカリウスに向けた瞬間。光が共鳴した。強く。明確に。
耳で聞く音ではないのに、骨が小さく震えるような反応。ルカリウスの左目の赤が、わずかに濃くなる。呼吸が一瞬乱れる。ベチバーの匂いが、冷えた木から熱を含む木へ変わりかける。
「……何をした」
「何も。反応しているのは、あなたの血です」
月光の下。盤の紋様が、王族性と同調するように脈打つ。ローゼリアに触れたときとよく似た波形。しかし、完全ではない。歪んでいる。円環になり損ねた線が、執着のように揺れる。
「不完全な共鳴」
セラフィオンの瞳が細くなる。観測者のものだ。だが奥に、ほんの僅かな感情の影が混じる。
「王族性は、通常ならもっと強く拒絶するか、完全に固定へ傾きます。ですが、あなたの血はそのどちらでもない」
「……まるで、間に立っているようだ」
ルカリウスの喉が、わずかに動く。反射的に、呼吸が一拍遅れる。
「俺は……何だ」
問いではない。事実確認だ。名づけを求めている。自分を縛るために。
セラフィオンは、初めてほんの僅かに息を乱す。盤の光とは別のものが、胸の内側で脈を打った。
「まだ仮説です。ですが、あなたの血統のどこかに、王族性と噛み合う要素がある」
断定ではない。だが否定を許さない種類の静けさがある。
「満月前夜の瞳も、今夜の残滓も──偶然では説明できない」
ルカリウスは無言で拳を握る。月の下での衝動。ローゼリアに触れたときの暴走未満の反応。全部、繋がる。けれど答えにはならない。
「……余計なことを、リアに言うな」
低く、鋭い声。知られたくない、という剥き出しの本能。
その瞬間。セラフィオンの胸の奥が、わずかに軋む。
自分の異常より先に、ローゼリアの不安を避ける。優先の仕方が、理論ではない。血の選び方だ。
「まだ仮説です。ですが、今夜の反応を見た以上、見過ごすことはできません」
月が雲間から強く照らす。ルカリウスの左目が、再びわずかに赤く滲む。
完全な王族ではない。だが、ただの非王族でも説明できない。その曖昧さが、かえって異質だった。欠陥ではなく。どこか別の場所へ、何かを通してしまう種類の歪み。
セラフィオンは初めて、その可能性に辿り着く。もしルカリウスが、王族性の崩壊と固定のあいだに生じた“継ぎ目”のような存在だとしたら。
理論そのものが、組み変わる。
ルカリウスは、低く言う。
「俺が何であれ」
視線はまっすぐだ。
「リアを守ってみせる」
単純。愚直。揺らがない。その揺らがなさが、刃のように眩しい。
盤の光が、ほんの一瞬だけ別の波形を描く。眠るローゼリアの呼吸の間隔。血の揺らぎ。まるで、首筋に残った脈を数えるように。
セラフィオンの喉が、かすかに鳴った。理性に、微かな亀裂が入る。羨望と焦燥が、観測の言葉を押しのける。
(……もし、この異常を救えるなら)
思考は、まだ理性の形をしている。けれど、もう観測だけでは足りない場所へ踏み込みかけていた。
月は静かに、二人を照らしていた。ルカリウスは、まだ知らない。
この血の歪みが、次の満月で何を引き起こすのかを。




