表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
38/47

第38話 理論の外側


研究塔の書庫。夜はもう終わっているのに、燭台の火は消えていなかった。インクの匂いだけが、まだ満月を捨てていない。


セラフィオンは机に手をついたまま、動かない。星読みの盤は閉じられている。それでも脳内では、まだ波形が揺れていた。王族性の振幅。遅延。反発。時間干渉の残滓。全部、理論通りだ。予測可能だった。


なのに、拳が、わずかに震えている。ジュニパーの冷えた香りが、わずかに乱れていた。整えようとして、整えきれない。


(噛むはずがなかった)


満月とはいえ、契約の儀式中。血の共鳴は起こる。それでも、あの衝動は異常だ。理論値を超えている。


ルカリウスの左目。赤の濃度。あれは通常の共鳴反応ではない。王族性が引き寄せられていた。むしろ──王族性の方が、あの男へ応答していた。


「……なぜだ」


低く、零れる。吸血族の血は、もっと均質に反応する。共鳴はあっても、ここまで歪まない。なのに、ローゼリアの血が触れた瞬間、あの男の血は暴れた。噛みつく寸前まで。


セラフィオンの視界に、あの光景が蘇る。ローゼリアの喉元。月光。牙。そして、ルカリウスの腕に抱かれながら、それでも拒まなかったローゼリア。


胸の奥が軋む。


(彼女は、あれを止めなかった)


恐怖ではなかった。拒絶でもなかった。受容だった。その事実が、理性より先に、何かを刺す。


机に置かれた指先が、強くなる。


あの瞬間、介入しようとした。崩壊を止めるためではない。奪われるのが、嫌だった。


その事実が、遅れて胸に落ちる。


もしあのまま噛みついていたら。ローゼリアの血は固定されたかもしれない。強制的に。王族性の共有という形で。理論的には──可能性はあった。


思考が止まる。


(私は、何を計算に入れた)


ローゼリアが噛まれることを、救済の一手として。


拳が机を打つ。燭台の炎が揺れる。


救う方法はある。理論上は。代償の再配分、肩代わり、王族性の外部補強。どれも危険で、命を削る可能性がある。それでも。


「……傍観は、できない」


その言葉は、低い決意だった。もし次の満月で再びあの衝動が起きるなら。今度は、理論ではなく、介入する。


燭台の火が、ゆっくりと揺れる。セラフィオンは一度だけ目を閉じ、深く息を吐いた。


机の引き出しから、小さなガラス瓶を取り出す。濃く、暗い赤。保存用に純化された吸血族の血。封蝋を外し、器具を整える。手順は正確で、無駄がない。


袖をまくる。白い肌に浮かぶ静脈を、冷たい視線で見下ろす。針が皮膚を貫く。痛みは、ただの情報──のはずだった。


ひやり、と金属の冷えが血管の奥を辿る。慣れた感覚のはずなのに、その夜は喉の奥だけがわずかに反応した。


観測の精度を保つための、定量の摂取にすぎなかった。


これは欲ではない──そう言い聞かせながら、体温が上がった。瞳孔が、わずかに開く。呼吸が、一拍遅れる。


針を抜く。滲んだ赤を布で押さえる指先が、必要以上に丁寧だった。シダーの香りに、ほんのわずかな熱が混じる。


インクと血の匂いが、ゆっくりと混ざる。


セラフィオンは、その混合を拒めなかった。


──拒めなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ