第38話 理論の外側
研究塔の書庫。夜はもう終わっているのに、燭台の火は消えていなかった。インクの匂いだけが、まだ満月を捨てていない。
セラフィオンは机に手をついたまま、動かない。星読みの盤は閉じられている。それでも脳内では、まだ波形が揺れていた。王族性の振幅。遅延。反発。時間干渉の残滓。全部、理論通りだ。予測可能だった。
なのに、拳が、わずかに震えている。ジュニパーの冷えた香りが、わずかに乱れていた。整えようとして、整えきれない。
(噛むはずがなかった)
満月とはいえ、契約の儀式中。血の共鳴は起こる。それでも、あの衝動は異常だ。理論値を超えている。
ルカリウスの左目。赤の濃度。あれは通常の共鳴反応ではない。王族性が引き寄せられていた。むしろ──王族性の方が、あの男へ応答していた。
「……なぜだ」
低く、零れる。吸血族の血は、もっと均質に反応する。共鳴はあっても、ここまで歪まない。なのに、ローゼリアの血が触れた瞬間、あの男の血は暴れた。噛みつく寸前まで。
セラフィオンの視界に、あの光景が蘇る。ローゼリアの喉元。月光。牙。そして、ルカリウスの腕に抱かれながら、それでも拒まなかったローゼリア。
胸の奥が軋む。
(彼女は、あれを止めなかった)
恐怖ではなかった。拒絶でもなかった。受容だった。その事実が、理性より先に、何かを刺す。
机に置かれた指先が、強くなる。
あの瞬間、介入しようとした。崩壊を止めるためではない。奪われるのが、嫌だった。
その事実が、遅れて胸に落ちる。
もしあのまま噛みついていたら。ローゼリアの血は固定されたかもしれない。強制的に。王族性の共有という形で。理論的には──可能性はあった。
思考が止まる。
(私は、何を計算に入れた)
ローゼリアが噛まれることを、救済の一手として。
拳が机を打つ。燭台の炎が揺れる。
救う方法はある。理論上は。代償の再配分、肩代わり、王族性の外部補強。どれも危険で、命を削る可能性がある。それでも。
「……傍観は、できない」
その言葉は、低い決意だった。もし次の満月で再びあの衝動が起きるなら。今度は、理論ではなく、介入する。
燭台の火が、ゆっくりと揺れる。セラフィオンは一度だけ目を閉じ、深く息を吐いた。
机の引き出しから、小さなガラス瓶を取り出す。濃く、暗い赤。保存用に純化された吸血族の血。封蝋を外し、器具を整える。手順は正確で、無駄がない。
袖をまくる。白い肌に浮かぶ静脈を、冷たい視線で見下ろす。針が皮膚を貫く。痛みは、ただの情報──のはずだった。
ひやり、と金属の冷えが血管の奥を辿る。慣れた感覚のはずなのに、その夜は喉の奥だけがわずかに反応した。
観測の精度を保つための、定量の摂取にすぎなかった。
これは欲ではない──そう言い聞かせながら、体温が上がった。瞳孔が、わずかに開く。呼吸が、一拍遅れる。
針を抜く。滲んだ赤を布で押さえる指先が、必要以上に丁寧だった。シダーの香りに、ほんのわずかな熱が混じる。
インクと血の匂いが、ゆっくりと混ざる。
セラフィオンは、その混合を拒めなかった。
──拒めなかった。




