第36話 燃え残る赤
満月は、まだ空にある。刃のように冴えた光が観測室を満たし、中断された契約の残滓を容赦なく照らしていた。空気は、凍った水面のように張り詰めている。
ローゼリアはルカリウスの腕の中で、浅く息をしていた。倒れてはいない。だが、血の波形はまだ揺れている。
ルカリウスは動かない。動けない、に近かった。左目に残る赤は沈みきらず、呼吸のたびに喉の奥で獣が低く鳴る。かろうじて立っていられるのは、噛み切らなかったことと、ローゼリアの声がまだ耳の奥に残っているからだ。
右は深い紫。左は燃え残る赤。消えきらない炎だった。
「……その目」
エリオの声が、沈黙に小石を落とす。ルカリウスが睨む。
「なんだ」
低い声。喉の奥で、まだ獣が息をしている。
「満月でも、そこまで残るのは珍しいよ」
軽い口調。目は笑っていない。
セラフィオンが、ゆっくりと視線を上げた。理性の仮面は整っている。だが内側で、何かが軋んでいる。
「王族性の共鳴だけでは説明がつきません」
淡々と、切り分ける。
「満月でここまで残るのは、異常です。ですが──」
視線が、左目へ落ちる。
「この波形は、通常の共鳴ではありません」
空気が凍る。赤が、さらに滲む。
「……何の話だ」
声は低い。だが震えを含んでいる。
「吸血族の血は、ここまで偏って染まりません。片側だけがこれほど月に引かれるのは、血統が均質ではない証です」
ルカリウスの声が、わずかに低くなる。指先が、微細に震える。
「……俺が吸血族じゃないって言いたいのか」
エリオが柔らかく笑う。
「いやいや、吸血族なのは否定してないよ」
セラフィオンが続けた。
「あなたの血統記録には空白の期間がある」
(……空白の期間……?)
ルカリウスの瞳が一瞬揺れる。次の瞬間、片目の赤が跳ね上がり完全な紅へ傾きかける。
ローゼリアが、かすれた声で呼ぶ。
「……ルカ」
その音だけで、赤がわずかに退く。けれど消えない。火種のように、奥で燻る。
「珍しい血ほど、王族性に深く刺さる」
エリオの言葉が、ローゼリアの喉元に残る熱を思い出させる。
ルカリウスの指先が、わずかに動いた。
「今夜、起きかけたのは拒絶だけではありませんでした」
セラフィオンの声は低いまま、わずかに重くなる。
「王族性は反発しながら、同時に別の形で応答していた。あのまま噛み切っていれば、契約に近い現象が起きていたかもしれない」
息を呑む音。噛まなかったはずの喉が、脈打つ。
「ただし──代償は予測不能だったでしょう」
月光が影を作り、四人を切り分ける。ルカリウスはローゼリアを見下ろす。赤い瞳の奥に、初めて浮かぶもの。怒りではない。怯えだ。
「……俺が、壊すのか」
それは獣ではなく、今にも消えそうな、ひどく脆い声だった。
ローゼリアは首を振る。
「違う」
指先が、頬に触れる。命令ではない。選択だ。
「あなたは、私を壊さないわ」
赤が、ゆっくりと紫へ沈む。完全には戻らない。けれど揺らぐ。
王族性は拒絶していない。むしろ──引き寄せている。磁石のように。
満月は、まだ空にある。契約は未完。それでも──血は、もう選んでいる。
◇◇◇
だが、ルカリウスの血だけは終わっていなかった。左目の裏で、赤が脈打つ。噛み切らなかったことを、身体だけがまだ納得していなかった。
研究塔の観測室を出たあとも、月は高く、冷たく、頂点を過ぎたばかりで満ちている。ルカリウスはひとり、石造りの回廊に立っていた。
拳を握る。まだ、残っている。あの瞬間の衝動が。
噛みつく寸前だった。理性が切れたのは一瞬だ。それでも確実に、何かが外れかけた。
(……なんだ、これは)
自分の血が、自分の意思と別に動いた。ローゼリアの血に触れた瞬間、視界が赤に染まった。あの甘い匂い。鼻の奥に、わずかな熱。理性を焼く匂い。
「……くそ」
壁に拳を打ちつける。乾いた音が、夜に溶ける。
守ろうとしたのか。それとも、奪おうとしたのか。どちらでもない。ただ、ローゼリアに噛みつきかけた事実だけは、消えない。
あのまま理性が切れていたら。ローゼリアは拒まなかったかもしれない。それが、余計に怖い。
鏡のない回廊。それでも感覚でわかる。紫の奥で、赤がまだ滲んでいる。
完全な王族ではない。完全な異端でもない。中途半端な血。それが、自分か。
月光が石壁に長い影を落とす。影はひとつ。だが、その輪郭はわずかに揺れていた。
理性は戻った。けれど、境界線は、もう薄い。満月は過ぎた。それでも血は、まだ覚えている。
──噛みたかった。




