第35話 失った匂い
満月の白い光が、石床を冷たく照らしていた。
鼻の奥に残る血の匂いが、ルカリウスの奥底に沈んでいた記憶を引きずり上げる。
◇◇◇
月の光が、燻んだ壁の色を誤魔化す。そんな、いつもより少し寂しい色をした夜だった。
母は月明かりの下で、グラスを傾けながら、血を静かに摂取していた。
まるで、誰かに見てほしいようにも見えた。
けれど、あれは違う。柘榴と葡萄の整った匂いではなかった。高位貴族の間で流行る嗜好品でも、美容のための人工血でもない。あんなものが、母に手に入るはずがなかった。
──では、あれは何だったのか。
母の匂いは甘かった。そして、少し重い。生きているものの匂い。
正妻にはなれない身分だった。それでも母は、いつも笑っていた。
守りたかった。なのに、あの死はあまりにも突然だった。
吸血族でも、死ぬ。
ただ、母が血を飲む姿は見たことがあるのに。
──母の牙を見たことはなかった。
本当に、吸血族だったのだろうか。その疑問だけは、胸の底に沈めてきた。
◇◇◇
王宮の裏庭。父の訓練を待つのに、ちょうどよい場所だった。
膝に本を広げていた。ページはめくられていない。ただ、月を見ていた。
そこへ、澄んだ気配が来たから顔を上げた。
雫に濡れた翡翠の瞳。月夜に光るルビーのような髪。石壁の影から、宝石のような少女が現れた。泣いてはいなかった。けれど、泣く寸前の匂いがした。
夢の中のもののようだった。こんな場所に、こんな色が存在するとは思っていなかった。声をかけるつもりはなかった。ただ──
「……母が、死んだ」
気づけば、言っていた。夢なら、言えると思った。
少女は、息を止めた。
「わたしも……」
声が、揺れる。瞳が、揺れる。
「わたしのせい……なの」
それ以上、少女は何も言わなかった。なのに、深い部分に刺さった。きっと母は、自分のせいで死んだ。ずっとそう思っていたから。
誰にも言えなかった。だからこそ、その言葉の意味が胸に落ちた。
自分と同じ匂いがした。湿った土と冷えた空気に混ざった、あの日の匂い。失った者だけが持つ、あの匂い。
少女の横に、黙って座った。何も言わなかった。ただ、隣にいた。
それで十分だった。
──けれど今夜、月の下で揺れているのは、あの夜の静けさではない。
もっと、危ういものだ。




