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第34話 時間の外側


カチ。音が、世界を切り離す。


水面は宙に固定され、砕けかけた月光は空中で止まり、ローゼリアの血の雫は落ちる直前で静止する。風も、音も、鼓動もない。世界が、息をやめた。


止まっていないのは──エリオだけ。


「……はぁ」


浅く息を吐く。懐中時計の秒針が、かすかに赤く滲んだ。代償が、確定する。眠れない夜が増える。寿命が薄くなる。それでも、止めた。


視線を上げる。ルカリウスが、牙を覗かせ完全なオッドアイのまま、ローゼリアを抱いている。赤と紫が、凍った光の中で燃えていた。


「……止まってるよね?」


確認のための独り言。止まっている。なのに──赤い瞳の奥が、ほんのわずかに揺れた。


「え」


背筋が冷える。止めたのは世界で、止まっていないのは“血”だ。血の共鳴だけが、時間の外側に触れている。戻しても、血だけは嘘をつかない。


視線をセラフィオンへ移す。ローゼリアの手首を掴んだまま。盤の光が、止まったまま震えていた。その瞳の奥には、罪と後悔と欲が混ざっている。


「……最悪の組み合わせ」


エリオはゆっくりと歩み寄り、まずルカリウスの顎を指先で軽く押し上げる。動かない。けれど、赤い瞳が微細に揺れた。


「君、止まらないんだ」


満月。血。契約。その中で、本能だけが時間の外側に触れている。


「リアを守るためなら、世界ごと噛み砕くタイプだよねぇ」


苦笑は軽いのに、目は冷たい。


次にセラフィオンの前に立ち、凍ったままの顔を覗き込む。


「……思い出した?」


優しく、残酷に。盤に映ったあの夜。回帰前、ルカリウスを殺した瞬間。


それは合理だった。正しかった。王家のために。けれど今、目の前の男はローゼリアを守るために理性を捨てかけている。


エリオはゆっくりとローゼリアを見る。銀盆の水面に浮かんだ薔薇の紋が、黒く染まりかけていた。これ以上は、崩れる。


どこまで戻す?数秒か。それとも、契約前までか。秒針が震える。寿命が削られる。


「……はぁ」


軽く笑う。


「僕、ほんと損な役回りだなぁ」


止まったセラフィオンの手に、そっと触れる。本来なら触れない。けれど今は止まった世界だ。


「ねぇ、研究者さん」


囁く。声は届かない。届かないのに、言わずにはいられなかった。


「……君が壊れたら、リアが一番困るんだけどな」


少し間を置く。


(でも僕は、君にも壊れてほしくない)


ゆっくりと、セラフィオンの手をローゼリアから離す。それからルカリウスの牙に触れた。


「噛むのは、まだ早い」


最後に、ローゼリアの首元に指を添える。血の流れ。共鳴の中心。


「……ここだ」


秒針を、さらに回す。カチ。時間を、二秒だけ戻す。代償が、重く落ちる。


「戻るよ」


次の瞬間、世界が動く。



◇◇◇



音が戻る。水が落ちる。光が弾ける。


ルカリウスの牙は、まだ触れる寸前で止まっていた。セラフィオンの手は、ローゼリアから離れている。水面に浮かんだ薔薇の紋は、完全に黒くなる前で止まる。共鳴は、暴走直前で固定された。


「……っ」


ルカリウスが低く唸る。赤が揺れる。それでも、噛まない。噛めばローゼリアの均衡が終わる。本能が、それを知っている。


セラフィオンが息を吸う。記憶は消えない。盤の像は、脳裏に焼きついたまま。


「……私が」


小さく呟く。言葉が落ちる音だけが、やけに重い。


ローゼリアはまだ崩れきっていない。ぎりぎり、間に合った。エリオの足元がふらつく。眠れなくなる。寿命が削れる。けれど笑う。


「はい、セーフ」


軽く言う。額には汗。笑みの裏で、秒針が血を吸っている。


「……誰が、止めた」


ルカリウスが低く言う。オッドアイが、まだ燃えている。止められた感触だけが、喉の奥に刺さっている。


空気が重い。


セラフィオンがゆっくりと前へ出る。理性は戻っている。だが奥は壊れたまま。


「……契約は中止です」


冷静な声だった。けれど、心臓だけが震えていた。


「このまま進めば、崩壊します」


ルカリウスが睨む。赤と紫。


「……それでも、噛む」


低い。獣。空気が、張り詰める。


エリオが口を開きかけた。その前に。


「……ルカ」


かすれた声。それだけだった。名前だけだった。


それでも赤が、わずかに揺らぐ。理性が戻る。完全ではない。けれど、ローゼリアの声だけが鎖になる。


満月はまだ空にある。契約は未完。暴走は、止まっただけ。


沈黙が落ちる。月光だけが、変わらず四人を照らしている。


そして──ローゼリアの右手首が、うっすらと熱を帯びた。


契約は、まだ終わっていない。


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