第33話 重なる月光
まだ──時間は動いていた。ルカリウスが、ゆっくりと顔を上げた。唇に、血。首筋に、浅い傷。左目の赤が、まだ消えていない。血の共鳴が、終わっていなかった。
赤い光が首筋から手首へ走る。水面に咲いた赤い波紋が、歪んだ薔薇の紋を形作った。しかし──歪んでいる。棘が、異様に長い。守りではなく、侵食のための薔薇。
そしてその中心に、ごく小さく。影のように、もうひとつの紋様が重なった。
「……共鳴過多」
セラフィオンの声が低く落ちる。星読みの盤が暴走する。光が弾け、式が悲鳴を上げる。その中央に、一瞬だけ完全な円環が浮かぶ。安定したように見えた。次いで、乱れ、崩れる。均衡を作りかけて、拒絶される。
だが“何か”は成立した。
成立した瞬間だけ、世界が薄くなる。盤が像を映す。
◇◇◇
──過去の月光が、いまの月光に重なった。
赤い雪。倒れているのは──ルカリウス。回帰前。胸を貫かれたルカリウス。冷たい月に、体温だけが置き去りになった夜。
そして、毒矢を握るセラフィオン。
「……な」
息が、止まる。
今は、まだ生きている。
なのに、あの夜。
──自分が、殺した。
胸の奥で、何かが破裂する。合理が、音もなく崩れた。
「……私……が……?」
盤の光が揺れる。像が変わる。血印発動。王族性崩壊。時間の裂け目。
そしてその裂け目の奥に、細い赤い縫い糸が走った。裂けたまま縫い合わせるための糸が、迷いなく──ルカリウスの胸へ向かう。
ほんの一瞬。縫い目だけが光り、像は消えた。
だが、繋がった。──傷として。
◇◇◇
幻視が消えた。現実が、戻ってくる。
赤い左目が、完全に燃える。赤が紫に溶ける。完全なオッドアイ。その紫の奥に、かすかに“金”が混じった。
見間違いかもしれないほど淡く、それでも確かにそこにある色。
吸血族の瞳に、本来存在しない光。
それは──
“選ばれた側”ではなく、“選ぶ側”の色だった。
「足りない……」
低く、獣の声。空気が歪む。共鳴が制御を失う。水面に浮かんだ薔薇の紋が、さらに棘を増やして広がる。棘の根元だけは崩れていない。むしろ深く沈み込む。固定でも侵食でもない──“同調”だ。まだ誰も、その言葉に辿り着かない。
ルカリウスの牙が、ローゼリアの首筋に再び近づく。今度は浅くではない。
その瞬間。セラフィオンが前へ出た。考えるより先に、身体が動いていた。ローゼリアの手首を掴む。強く。触れてはいけない距離。
「リア!いけません!」
声が割れる。理性が崩れた、初めての怒声。
ルカリウスが睨む。赤い目で。殺意ではない。奪われることへの、排除本能だ。
「触るな」
空気が凍る。セラフィオンの胸に、あの夜が重なる。倒れたルカリウス。血。冷たい月。
(私は、また──)
その瞬間、エリオの懐中時計が強く震えた。秒針が跳ねる。命が削れる音がする。
エリオは一度だけ、深く息を吸った。
「……やばい」
軽い声ではない。覚悟の声だ。
均衡が、端から崩れる。薔薇が黒く変色しはじめる。
「これ、崩れる」
セラフィオンの瞳が揺れる。理性と罪悪と欲が、混ざる。混ざってはいけないものが。
「ごめん、リア」
エリオが懐中時計を開く。秒針に、血を吸わせる。
カチ。
世界が止まった。




