第32話 満月の契約
研究塔の最上階。開かれた硝子天井の向こうで、満ちた月が──「目」を開いている。
白く冴えた光が石床を撫でる。水を張った銀盆が、静かに式の口を開いていた。
月光と、水と、血。本来なら、それで十分なはずだった。
外には誰もいない。いるのは四人。ローゼリア、ルカリウス、セラフィオン、エリオ。
空気が、静まりすぎている。息が音になる。誰かの鼓動さえ、月に嗅ぎ取られそうだった。
「始めます」
セラフィオンの呼吸が整う。星読みの盤が月光を受け、薄い線を空間へ刻むように描いた。冷えた石と月光が、式の輪郭を硬く縁取る。
ローゼリアは迷わず短剣を取り、指先を浅く裂いた。赤が、月光に濡れた。血が水面へ落ちた瞬間、淡い光がふわりと広がる。水面が皮膚みたいに震え、式が目を覚ます。生き物のように。
「ルカ」
呼ばれる前から、ルカリウスは一歩前へ出ていた。同じように指先を切り、血を落とす。赤が混じり合い、月光がひと呼吸ぶん強くなる。
ローゼリアの手首が熱を帯びた。右手首の痣が、ほんの一瞬だけ薔薇の形を取る。次の瞬間には、もう消えている。
セラフィオンの瞳が鋭くなる。
(やはり……波形が乱れている)
王族性が、安定しない。ローゼリアは歯を食いしばった。痛みは皮膚ではない。血の奥、骨髄の奥で“古いもの”が軋む。
「……契約を」
言葉を紡ごうとした、その瞬間──水面が弾けた。光が反転する。押し返す力。
銀盆の水が内側からせり上がり、赤い波紋が天へ跳ね上がる。月光が歪み、星読みの盤が軋んだ。“式”が、自らを拒絶している。
「固定が……」
セラフィオンの声が低くなる。
「反発じゃない……これは、増幅だ」
次の瞬間。水面が裂けるように跳ね、光が裏返る。赤い波紋が逆流し、空間そのものが震えた。塔が、月に噛まれたみたいに軋む。
「……っ」
ローゼリアの身体が揺れる。
「リア!」
ルカリウスが抱き止める。その瞬間、熱が走った。抱擁の温度が、式に火を入れる。拒絶の波が今度はルカリウスへ跳ね返り、混ざりきらなかった血が本能の鍵穴をこじ開けた。
ベチバーが荒れる。アンバーが熱を帯びる。月が、強すぎる。銀光がルカリウスの横顔を切り取った。
紫の瞳の奥で──左目が、赤を滲ませる。一瞬ではない。赤が沈まない。引く気配がない。完全なオッドアイ。理性の境界に、裂け目が走ったまま。
「……ルカ?」
ローゼリアの声がかすれる。拒絶で乱れた血の匂い。指先の傷。温度。月が、白く凝っている。
ダマスクローズとホワイトムスクが濃くなる。ベチバーが、深く落ちる。ルカリウスの呼吸が荒くなった。理性と本能が、同じ場所を奪い合っている。
「下がってください」
セラフィオンの声が鋭くなる。星読みの盤が異常な波形を描く。
「共鳴が不完全です。今は危険──」
言葉が終わる前に、ルカリウスがローゼリアの顎を掬った。強くはない。けれど、逃がさない。逃げ道だけを奪う指先。赤い瞳がローゼリアを見下ろした。
「……リア」
声が低く沈む。指先が、ローゼリアの首筋をかすめる。
触れるか触れないかの距離で、止まる。……一瞬。
「……欲しい」
セラフィオンの指が、わずかに動く。介入の計算。触れてはならない距離を、身体が先に測っている。足が、半歩動きかけた。エリオの懐中時計が、微かに震えた。
空気が張り詰める。あと一歩で、崩壊。
その瞬間。ローゼリアは、ルカリウスの胸元を掴んだ。セラフィオンの足が、止まる。
月光の下で、翡翠の瞳が赤い左目を真っ直ぐ見上げる。
そして、囁いた。
「……噛んで」
──許可は、刃より速い。
赤い瞳が揺れる。理性が最後に抵抗する。
「……だめだ」
かすれた声。ルカリウスの牙が覗いたまま、引こうとする。
ローゼリアの両手が、ルカリウスの頬を挟んだ。逃がさない。赤と紫の混じる瞳を、真正面から見上げる。濡れた睫毛が月光を弾き、翡翠の瞳が揺れない。
「……見て」
囁きは甘くない。澄んでいる。刃の先みたいに。ルカリウスの呼吸が乱れる。ローゼリアは逃げない。
「噛んでって、言った」
微笑みではない。覚悟だ。血を差し出す、選ぶ側の女の静かな確信。
その瞬間、ルカリウスの理性が最後に揺らぎ、静かに折れた。
ゆっくりと、首筋へ顔を埋める。唇が触れる。皮膚が温かい。呼吸が、混ざる。
そして──牙が、浅く沈んだ。
熱が走る。血が流れ込む。ルカリウスの喉が、深く鳴った。飢えの音でもあり、恐れの音でもある。
「……っ、リア……」
吸う。奪うのではない。受け取る。
銀盆の水面が、一度だけ静止した。まるで“式が刻まれた”かのように。次の瞬間、爆ぜる。
ベチバーが甘くほどける。ホワイトムスクが濃くなり、ダマスクローズが一気に花開く。香りが、契約の鎖になる。
何かが、縫い付けられようとする。
ローゼリアの背が弓なりに反る。熱が脊髄を走り、呼吸が短くなる。だがその両手は、最後までルカリウスの頬に触れたままだった。
──逃げるためではない。留めるために。




