第31話 満ちる前夜
夜は静かだった。満月前夜。
城の空気はどこか落ち着かず、窓の外には丸くなりかけた月が浮かんでいる。まだ満ちきらないのに、影だけが先に濃い。
ローゼリアは自室の扉の前でしばらく立ち尽くしていた。胸の奥がざわつく。明日が来る。満月が来る。そして──何かが変わる。
(眠れない)
首筋がまだ、熱を持っている。あの庭園で刻まれた痕が、まだ消えない。
羽織ったショールを少し引き上げる。隠したいのか、触れたいのか、自分でも分からないまま。
気づけば、足は別の回廊へ向いていた。ノックは一度。
「……リア?」
扉が開く。ルカリウスは薄着のまま、わずかに驚いた表情を浮かべていた。鍛錬後の熱はもう引いている。それでも瞳だけは冴えている。
「どうした」
ローゼリアは視線を少しだけ逸らし、小さく言う。
「眠れないの」
理由は言わない。それでもルカリウスは察したように数秒黙り、扉を大きく開けた。
「……入るか?」
部屋は簡素で、余計な装飾はない。石壁に燭台の炎がひとつだけ揺れ、寝台の黒い布が月光に沈んでいる。乾いた木と冷えた鉄の匂い。ルカリウスそのものの空気だった。
月明かりが窓から差し込み、床に淡い影を落としている。影は、二人ぶんの余白を持っていた。
ローゼリアは窓辺に立ち、外の月を見つめた。背後で扉が閉まり、足音が近づく気配がする。少し距離を置いて立つ気配。
「……明日は満月ね」
「ああ」
「怖くないの?」
問いというより、確認だった。ルカリウスは鼻で笑う。
「俺がか?」
低く返し、一歩近づく。
「怖いのか?」
振り向いた瞬間、距離が消えていた。月光がルカリウスの横顔を銀色に縁取り、その瞳の奥を静かに照らしている。
「もし、明日何かが変わったら……私を嫌いにならないで」
その言葉に、ルカリウスの目がはっきりと動いた。
その刹那、左目の奥に細い赤が走る。滲むのではない。ひび割れるように、理性へ亀裂が入る。満月前夜。血が、目覚めかけている。
ローゼリアの呼吸が揺れる。今夜のホワイトムスクは、いつもより芯が強い。
「何が変わる」
低い声だった。答えを待つより先に、背後から腕が回る。ベチバーが深く落ちる。乾いた森の匂い──けれど今夜は違う。ほんのり甘い。
「ルカ……」
指先が、ルカリウスの腕をわずかに掴んだ。ダマスクローズが、ゆっくりとほどける。
沈黙が落ちた。月光だけが、二人のあいだを静かに渡る。
紫の瞳が揺れる。左目だけが、赤を深くする。欲の色だ。
「リアは、──リアのままだろ」
ルカリウスの声が甘く、内側に響く。
ローゼリアは小さく頷く。けれど喉の奥はうまく鳴らない。
ルカリウスの指が、ゆっくりと頬へ触れる。指先だけが、熱い。
唇が触れそうになる。あと少しで、重なる距離。
けれど──止まる。止まったまま、呼吸だけが近くなる。
ローゼリアは目を閉じかけて、開けた。
触れない。触れないのに、指先は頬から首筋へ落ちていく。
そこは、血の通う場所だった。
「……っ」
本能が、先に反応する。
ルカリウスの喉がひとつ鳴った。呼吸が浅くなる。ベチバーの奥でアンバーが熱を持ち、いつもより甘く崩れる。
「……わかってないだろ」
落ちた声は低く、ひどく正直だった。
「……え?」
ルカリウスは答えない。
代わりに、ローゼリアの首筋へ顔を埋める。唇ではなく、もっと鋭い気配。
鋭い牙が、肌に、ほんのわずかに触れる。刺さってはいない。裂いてもいない。
けれどそこにあるだけで、全身が熱を持つには十分だった。
ローゼリアの肩が小さく震える。
怖いのではない。これ以上進めば、もう後戻りできないと、本能が知ってしまうからだ。
ルカリウスの腕が背中を抱く。強くなる。逃がさないためではない。自分を止めるための強さだった。
「……噛めば、終わる」
低く、掠れた声。
「今夜はまだ……駄目だ」
言い聞かせているのは、ローゼリアではなく自分自身だった。
牙が首筋をなぞる。庭園で唇が残した痕を、正確に辿るように。熱だけが走る。
そこには、あの夕暮れの熱がまだ残っている。牙がなぞった瞬間、身体が先に思い出した。
「んっ……」
小さな声が漏れる。
その瞬間、ルカリウスの左目の赤が、さらに濃くなった。
「これ以上、煽るな……」
脅しではない。懇願に近い。
「……もたない」
ローゼリアの指が、ルカリウスの胸元を掴む。固い布越しに、激しい鼓動が伝わる。自分のものとどちらが速いのか分からない。
ルカリウスは目を閉じる。噛みたい。刻みたい。今すぐこの首筋に、自分だけの痕を残したい。
その衝動が、牙の先まできている。けれど──噛まない。噛まないまま、首筋へ長く牙を押しあてる。
印だけを先に刻むみたいに。ローゼリアの呼吸がまた揺れる。
「……ルカ」
名を呼ぶ声が甘い。それだけで、理性が削れる。
ルカリウスはゆっくりと顔を上げた。唇は触れていない。けれど、二人のあいだにはもう充分すぎるほど熱が満ちていた。
「……明日」
低い声。荒い息。左目の赤だけが、まだ消えない。月明かりが二人を照らす。
「明日はもう保証しない」
それは予告だった。脅しではない。本能の、静かな宣言だった。
次に触れたらきっと──理性のほうが先に壊れる。




