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第29話 時間の残響


翌朝。研究塔の観測室は、まだ朝霧に包まれていた。


硝子越しの空は淡く白み、塔の上層を抜ける風がゆるやかに冷たい。夜の名残を含んだ空気が、静かに流れている。石造りの床は冷えたままで、踏むたびに朝の静けさを確かめるような音がした。


ローゼリアは窓辺に立ち、遠くの空を見上げていた。満月前日。空は穏やかで、何事も起こりそうにないほど静かだ。


背後で、靴音が止まる。


「脈を」


セラフィオンの声は低く、余分な説明はない。ローゼリアも拒まない。差し出された手首に、セラフィオンの指が触れる。冷静で、正確な圧。医学的とも言える距離だった。


近づけば、匂いがする。冷えた金属とジュニパーベリーの青い香り、夜窓の空気みたいな薄いオゾン。その奥で、ほんのわずかにホワイトティーが温度を帯びていた。乱れが許されない匂いだ。


だが、セラフィオンの指先は脈だけを測ってはいない。体温、血流の遅延、王族性の振幅──触れているのは皮膚ではなく、揺らぎそのものだった。


脈は安定している。呼吸も整っている。しかしその奥に、微細な揺らぎ。王族性の波形が、理論上の規則からわずかに逸れている。一定であるべき律動が、ほんの僅かに“遅れて”いる。


(やはり……)


確信ではない。けれど仮説は補強される。誤差は音も立てずに、時間の裾を掴んでいる。


そのとき、観測室の扉が勢いよく開いた。


「おはよ──! リアの部屋に行ったらここにいるって聞いたから来ちゃった!」


明るい声が、朝の静寂を軽やかに破る。キャラメル色の髪が朝光に透け、柔らかく揺れた。ベルガモットの明るさと、オレンジブロッサムのやわらかな甘さが、ふわりと空気に混ざる。


エリオは屈託のない笑みを浮かべたまま、室内を見渡す。


「はじめまして。リアの従兄弟のエリオ・ヴァル・ルミナスです」


セラフィオンはゆっくりと手を離し、軽く会釈する。


「セラフィオン・ヴァル・アストラ」


その名に、エリオの目がきらりと光った。


「へぇ、アストラ家も“ヴァル”残してるんだね」


何気ない口調だが、その言葉には血の歴史が含まれている。セラフィオンは穏やかに答える。


「形式上です。王家直系から分かれた古い分流。名残に過ぎません」


「名残でも同じヴァルだよ?」


エリオはくすりと笑う。


一瞬、空気が静まる。誇示でもなく、否定でもなく。ただ事実として共有される“ヴァル”という名。ふたりの視線はすでに測り合っていた。


セラフィオンの視線が、静かにエリオへ移る。呼吸が浅い。瞳孔がわずかに収縮している。疲労の兆候がある。そして──空間に残る微細な歪み。盤を使うまでもない。時間が“戻った痕”だ。


(言うべきではない。だが黙れば、彼は死ぬ)


セラフィオンの内側で、理性が短く鳴る。


「眠れていないのでは?」


穏やかな声での指摘。エリオが、ほんの一瞬だけ呼吸を忘れた。計算が更新される。すぐに、いつもの笑顔に戻る。


「えー? 気のせいじゃない?」


軽い。けれど、奥の警戒は隠しきれていない。セラフィオンは視線を外さない。


「時間の揺らぎが、あなたの周囲に残っています。昨日ではない。もっと前だ」


その一言で、空気が変わった。誰も、すぐには次の言葉を選べなかった。


ローゼリアは意味を完全には理解していない。けれど、自分のために交わされている沈黙の重さだけは分かった。


エリオの瞳が、わずかに鋭くなる。数秒の沈黙。


やがてセラフィオンは懐から小さな紙片を取り出した。


「鎮静効果のある薬草の配合です。睡眠を補助します」


差し出されたそれは、攻撃でも追及でもない。ただ、事実への対処だった。


エリオはそれを受け取り、にやりと笑う。


「優しいじゃん、研究者さん」


軽い調子のまま、しかし視線は試すように真っ直ぐだ。セラフィオンもまた、内側で静かに仮説を固める。


(時間干渉は彼か)


禁忌、遅延、時間干渉、不安定な王族性──そして満月。理論が正しければ、儀式は危うい。


セラフィオンは静かに決意する。


満月は、ただの観測では終わらない。必要なら介入する。ローゼリアに嫌われる可能性を含めて。


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