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第28話 遅延する代償


研究塔の書庫は、夜になると音を失う。


石壁に囲まれた空間に、燭台の炎だけが揺れていた。長い影が文字列の上を滑り、古い文字の輪郭を歪ませる。背の高い棚が壁を埋め、古文書の乾いた匂いが冷えた空気に溶けている。


セラフィオンはひとり、机に向かっていた。


広げられているのは、王族の血印に関する最古層の記録。禁忌の項。王族性の剥奪。人間化への転換。


理論は明確だ。禁忌を侵した場合、王族性は即座に崩壊する。血印は応答を拒み、満月の契約は成立しない。猶予は存在しない。


セラフィオンの指先が、“即時”の文字をなぞる。


──それでも、ローゼリアは崩れていない。


その矛盾は紙の上ではなく、胸の奥を刺した。理論の針が、初めて自分に向く。


セラフィオンはゆっくりと懐から、小さな円盤を取り出した。星読みの盤。古代の金属で作られた、掌に収まる円形の器具。刻まれた紋様は星図のようにも、血流の軌道のようにも見える。アストラ家に伝わる観測のための補助具だ。


盤を机上に置き、指先を軽く触れさせる。金属が、ひやりとした音を立てる。


盤の中央に、淡い光が走る。血の波形。王族性の残滓。目には見えないはずの揺らぎが、幾何学的な線として浮かび上がる。


──その瞬間、匂いが変わった。


書庫の乾いたインクが薄れ、かわりに冷えた金属が立つ。さらに奥。雨の降る前の石みたいな匂いが、わずかに差し込む。“ここではない時間”が、鼻先でだけ先に割れた。


数値より先に、世界が知らせてくる。


「……崩れていない」


理論では、既に消失しているはずだ。均衡は保たれている。ただし、規則性がない。正常ではないが、崩壊もしていない。


「誤差か」


低い独白。禁忌が未発動の可能性。あるいは発動したが、不完全だった可能性。


盤の光が、ふっと揺れる。揺れ方が不自然だ。安定へ向かうはずの律動が、わざと遅れている。音を立てない崩壊ほど怖いものはない。崩れる前兆は、破裂音ではなく、塵が積もる速度みたいに忍び込む。


そして──


盤の縁に走る線が、一瞬だけ歪む。時間軸が、微細に揺らぐ。紙の上の文字列が、ほんの刹那だけ二重に見える。燭台の炎が、同じ揺れを二度繰り返す。


幻覚ではない。“残響”だ。


セラフィオンの瞳が細くなる。


「……時空干渉」


その言葉を、セラフィオンは紙には書かない。証明がない。もし時間が巻き戻されているなら、禁忌の代償は遅れているだけだ。猶予は救済ではない。


満月の契約。本来は王族性を分け与え、未来を固定する儀式だ。


だが基盤そのものが不安定なら──契約は安定ではなく、崩壊を加速させる。


「急ぎすぎている」


セラフィオンは椅子にもたれ、星読みの盤を見下ろす。


仮説が正しいなら、ローゼリアは既に禁忌を侵している。王族性は崩壊過程にある。満月の契約は失敗する可能性が高い。


では、救う方法は。


「……代償の再配分」


その言葉に、セラフィオンの瞳がわずかに揺れた。王族性は“分け与える”ことができる。ならば──“引き受ける”ことは?


盤の光が、ゆっくりと収束する。収束の輪郭が、妙に美しい。美しさは、危険の匂いと同義だ。


理論はまだ未完成だ。確信には至らない。けれど、ひとつだけ明確な事実がある。


ローゼリアは、自分がどれほど危うい場所に立っているかを、まだ正確には理解していない。あるいは理解した上で、無視している。どちらにせよ、結果は変わらない。


セラフィオンは盤を閉じ、古文書を重ねる。金属の冷えが指先に残り、夜のインクの匂いが戻ってくる。戻ってきてしまう“日常”が、いまは少しだけ不愉快だった。


理性は警告する。これは危険な領域だ。深入りすべきではない。


だが胸の奥で、別の熱が静かに芽生えている。研究対象への興味ではない。責任感だけでもない。


「……救える可能性があるなら」


それは理論の完成か。血統の義務か。それとも──欲か。


セラフィオンはゆっくりと瞼を閉じる。


均衡の先にローゼリアがいない未来を、セラフィオンは許容できるのか。


盤の蓋の内側で、光がわずかに脈打つ。その揺らぎは観測値ではなく、セラフィオン自身のものだった。


まだ答えは出ない。しかし満月は近づいている。


もし契約が失敗したとき──セラフィオンは、傍観者でいられるだろうか。


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