第27話 観測不能の星
満月が近づくにつれ、城内の空気はわずかに張り詰めていった。
──血が、夜に引かれている。
月は、血を扱う一族にとってただの光ではない。夜の輪郭が、少しずつ硬くなる。
セラフィオンから静かな申し出があったのは、そんな午後のことだった。
「月齢と血流の相関を観測したい。立ち会っていただけますか」
合理的な理由だ。王族として断るほうが不自然で、ローゼリアは迷わず頷いた。
研究塔は王城の北端、夜空に最も近い場所にある。塔へ向かう石畳の回廊は静まり返り、傾きはじめた夕暮れの光が長い影を引いていた。首元の詰まったドレスを選んだのに、布の下の熱は消えない。無意識に襟元へ触れかけて、ローゼリアはすぐに手を離した。
隣を歩くセラフィオンは、いつもと変わらぬ距離を保っている。近すぎず、遠すぎず。触れれば届くが、触れなければ永遠に届かない距離。
セラフィオンの周囲には、いつも少しだけ冷えた匂いがある。ジュニパーベリーの青い静けさ。乾いたインクと白い茶葉が静かに重なる、情緒を置き去りにした“記録の匂い”。
それは人肌の温度を拒む、静かな結界みたいだった。
「満月は二日後です。王族の儀式にとって、最も安定する周期──」
淡々と告げる横顔を見ながら、ローゼリアは思わず問いを投げた。
「反対しないの?」
セラフィオンはわずかに首を傾ける。
「合理的かどうかで言えば、反対です」
正直な答えに、ローゼリアは小さく笑った。
「でも、止めないのね」
「あなたが選んだ未来なら否定はしません」
夕暮れの光がセラフィオンの横顔を柔らかく縁取り、その瞳に淡い群青を落とす。感情を滲ませない男なのに、その声はほんのわずかに低く、深い。冷えた香りの奥で、シダーだけがほんのわずかに体温を含んだ気がした。
研究塔の最上階、観測室へ出ると視界が一気に開けた。開閉式の硝子天井は今夜は開かれ、群青へと移ろう空が広がっている。淡い星がひとつ、またひとつと灯りはじめ、涼やかな風が頬を撫でた。
「……綺麗」
思わず零れた言葉に、セラフィオンは即座に応じる。
「湿度が低い。観測条件は良好です」
ロマンを数値に変換する男に、ローゼリアは小さく笑う。
「星を見ても、ときめかないの?」
セラフィオンは夜空から視線を外さないまま、静かに答えた。
「あなたは“揺らぎ”が少ない」
褒め言葉なのに、どこか検査結果のようで。
「初めてあなたを見たとき、星を閉じ込めたようなドレスだと思いました」
胸の奥で、音が鳴る。あの日。黒地に細かな光を散らした、星を閉じ込めたようなドレスを纏っていた夜。回帰した夜。
「星は軌道を外れません」
セラフィオンは続ける。
「一度選んだ道を、揺らがず進む光です」
それがローゼリアのことを言っているのかどうかは分からない。ただ、その言葉は静かに胸に落ちた。落ちた場所で、まだ熱を残している。
「……ですが今夜は、誤差が多い」
理性の声で語られるのに、どこか温度がある。セラフィオンは夜空を見上げたまま、言葉を重ねた。
「……どうして、契約を急ぐのですか」
「……守りたいから」
「あの騎士を?」
「ええ」
風が吹き、髪が揺れる。セラフィオンの指が一瞬だけ動きかけ、止まった。許可のない接触はしない。その徹底した節度が、逆に意識を強くさせる。
「王族性を分けるということは、守護対象を増やすことです。背負うものは重くなる」
「わかってる。それでも」
迷いはない。夜は深まり、星は増えていく。
「あなたがあの騎士を選ぶ未来が、合理的でないとしても」
セラフィオンの声色がわずかに変わった気がした。
「それでも私は、その未来の隣に立てる位置にいたい」
「……選ばれなくても、構いません」
その言葉は静かすぎて、残酷だった。許可も拒絶もない。ただ“位置”だけを求める声は、刃より冷たい。
それでも星の下で並ぶ距離は、不思議と心地よかった。胸の奥で最初に響くのは、あの騎士の名前だけだったとしても。
やがてセラフィオンが静かに口を開く。
「表向きには、私も愛人のひとり。……愛称で呼ぶ許可をいただけますか」
ローゼリアは少しだけ考えて、頷いた。
「いいわよ、フィオ」
ほんの少しの沈黙のあと、セラフィオンは小さく息を吸う。
「……リア」
──その呼び方だけが、観測ではなかった。
理性の仮面の隙間から、はにかんだような表情が一瞬だけ覗いた。
夜空をひと筋の光が横切る。流れ星だった。
セラフィオンは願わない。願いは理論ではないからだ。けれど、流れ星が消えるまで──隣の星からは、視線を外せなかった。




