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第26話 まだ愛と呼べない


温室の扉を押し開けると、外の空気はひやりと涼しかった。


午後の光は傾きはじめ、庭園は金色に染まりつつある。長い影が芝生を横切り、噴水の水面が橙色の光を弾いていた。


石畳の先に、ルカリウスが立っていた。


腕を組み、背の高い体躯が夕陽に縁取られている。鍛錬後なのか、額にかかる髪がわずかに乱れていた。金属と汗の匂いが、冷えた夕気に混じる。剣の匂いは、いつだってまっすぐだ。


「……長い」


低い声は淡々としているが、待っていた時間の分だけ、わずかな不機嫌が滲む。


隣でエリオがくすりと笑った。甘い香りが、最後にふわりと揺れる。


「不機嫌さ出しちゃうとか、重症だよね」


「エリオ」


ローゼリアが小さく咎めると、エリオは肩をすくめてひらりと手を振る。


「じゃ、僕はここまで。リア、あとでね」


そしてルカリウスを見上げ、にっこりと笑った。


「ちゃんと送ってあげてね。あと、リアは取らないよ。安心して。ルカ兄」


悪戯の笑み。甘さが刺さるのは、甘さが無害だからだ。


「僕の好み、そっちじゃないし」


ルカリウスは意味を理解しない。ただ、面白くなかった。ローゼリアだけが、ほんの少しだけ苦笑する。エリオの香りが、笑いと一緒に遠ざかる。


ローゼリアはその背を見送りながら、胸の奥に小さな棘が残るのを感じた。甘いはずの香りの奥に、触れてはいけない静けさが、ひとひら沈んでいた気がした。


エリオの足音が、温室の奥へと遠ざかっていった。 夕暮れの庭園に、ふたりきりが残る。


甘さが消えた空間へ、ルカリウスの匂いがゆっくりと満ちてくる。冷えたウッドと金属、それに鍛錬後の体温。空気が、“ルカリウスのもの”に上書きされていく。


「……何を話していた」


歩き出しながら、ルカリウスが問う。


「恋の話、かしら?」


あっさりとした返答。ルカリウスの足が、ほんのわずかに止まる。


「……あいつと?」


「いけない?」


わざと前を歩くと、すぐ隣に並ばれる。自然に歩幅が合うのが、少しだけくすぐったい。


石畳が夕陽を受けて橙色に染まり、二人の影が長く伸びる。しばらくの沈黙のあと、ルカリウスが低く言った。


「俺は、あいつみたいに器用じゃない」


嫉妬の否定でも、自己卑下でもない。ただ、事実のように。


ローゼリアは立ち止まり、ルカリウスを見上げる。剣の匂いが近い。乾いたベチバーが、夕陽の温度に混ざる。一直線で、逃げ道がない匂い。


「器用じゃなくていい」


ほんの一瞬だけ、言葉の行き場が空に浮く。


胸の奥で、エリオの言葉がまだ響いている。


──王族の血は、永遠のためじゃない。選ぶ瞬間のためにある。


満月まで待てば、また“儀式”や“血”の話に飲まれる。だから、今。何も挟まらないこの夕暮れのうちに、言わなければと思った。


「私は、あなたがいいの」


ルカリウスの瞳がわずかに揺れる。


「ルカ」


夕陽が、ルカリウスの横顔を赤く縁取っていた。紫の瞳が、翡翠の瞳から逸らせない。


ローゼリアは一度だけ唇を閉じ、ゆっくりと息を吸った。


「私は──あなたを愛してる」


言葉は静かだった。けれど、どこにも逃げ場を残さない響きだった。叫びでも、懇願でもない。ただ真実を置くように。


風の音が、ふと遠のく。


ルカリウスは何も言わなかった。言えなかった、のほうが近い。


喉がかすかに上下する。手が、ほんの少しだけ震える。目の前のローゼリアは、揺れてもいない。ただ、まっすぐ自分を選んだ。


その事実だけで、胸の奥の何かが決壊しそうになる。


「……満月まで待てと言ったのは、お前だ」


「……そうね」


「待てると思うか」


問いではなかった。ほとんど、自分への敗北宣言だった。


ローゼリアの鼓動が強くなる。


ルカリウスはゆっくりと手を伸ばし、ローゼリアの頬に触れた。優しく触れているのに、指先の熱だけが隠しきれない。


「俺は、これ以上……」


「ルカ……?」


名を呼んだ、その次の瞬間。強く引き寄せられる。


唇が、深く重なった。


夕暮れの庭園が遠のく。噴水の音も、風も、全部遠い。ただ、触れたところから熱だけが一気に広がっていく。


軽く触れるのとは違う。逃がさない重なりだった。


ローゼリアの指が、反射のようにルカリウスの胸元を掴む。固い布越しに、激しい鼓動が伝わる。自分のものと、どちらが速いのか分からない。


ルカリウスの手が背を抱き寄せる。強い。けれど壊さないように、ぎりぎりのところで止めている強さだった。


唇が離れかける。息がうまくできない。


「……もう、無理だ」


低く落ちる声が、耳元で熱を持つ。


「満月まで、お前に触れないなんて」


次の瞬間、また深く唇が重なった。今度は少しだけ乱暴で、必死さが滲み出ていた。


嫉妬とも、独占とも、まだ愛と呼べない何かが、全部そこに混ざっていた。


ローゼリアは目を閉じる。自分を求める熱が、こんなにもまっすぐ向けられることが、怖いくらい──嬉しかった。


唇が離れる。互いの吐息が近すぎて、視線を逸らせない。


ルカリウスの瞳は、夕陽を飲み込んだみたいに深く熱を帯びていた。その奥で、ほんのわずかに赤が揺れる。


「……リア」


名を呼ぶ声が、甘い。


「その言葉を俺に言ったこと、後悔するなよ」


脅しではない。最後の自制だ。ローゼリアは小さく首を振る。


「後悔なんてないわ」


その答えに、ルカリウスの理性がまた軋む音がした。


指先が頬から首筋へ落ちる。そこは、血の通う場所。触れただけで、喉の奥が熱くなる。


噛めば、もっと深く刻める。満月を待たずに、今すぐ。その衝動が、牙の先まで来ていた。


ギリギリの理性で──噛まない。噛まないまま、首筋へ唇を押しあてる。長く。熱く。皮膚が赤くなるまで、離さない。痕だけを、先に刻むように。


ローゼリアの肩が小さく震えた。ダマスクローズの奥に潜むバニラが甘くほどける。


ルカリウスは目を閉じ、その甘さを深く吸い込んだ。


夕陽が落ちる。長く伸びた二人の影が、石畳の上でひとつに重なる。


首筋に残る赤い印は、衝動ではなく、選んだことの証明みたいに熱を残した。


──満月はまだこない。


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