第24話 時間が裂けた午後
昼の緊張がようやく解けはじめた午後。
王城の奥、立ち入りを許された者の限られる温室。厚いガラス天井から午後の光が差し込み、白い石床をやわらかく照らしている。温かな空気が満ち、花々の甘い香りがゆるやかに溶け合っていた。その奥で、ベルガモットとオレンジブロッサムがふわりと明るく混ざる。
蔦の絡まる鉄製のアーチ、咲き誇る薔薇、白百合。外界とは切り離された、小さな楽園。
円形の白いテーブルに、銀のティーセットと色とりどりのマカロン。午後三時の甘やかな儀式。
エリオは迷いなくマカロンをひとつ摘み、ぱくりと頬張った。
「ん〜、これ好き。ラズベリーだ」
無防備な声が、花の間に溶ける。
さきほどの“お帰り”の真剣さは影を潜め、いつもの柔らかな笑顔に戻っている。
ローゼリアは紅茶を口に運びながら、静かにエリオを見る。
「甘いものを食べないと、重い話はできないの?」
「うん。世界の理を語る前に糖分摂取は大事」
さらりとした返し。その瞳は、笑っていない。甘さの奥で、金属の冷えがかすかに鳴る。
花の影の中で、エリオは指先で懐中時計を軽く弄ぶ。蓋は開かない。ただ、触れているだけ。触れているだけで、空気が少しだけ締まる。
「……リア」
声が、ほんのわずかに落ちる。
「もう、発動してるよね」
温室の空気が、ふっと静まる。遠くで小さな噴水が水を落とす音だけが、規則正しく響く。
ローゼリアは表情を崩さない。
「何のこと?」
「とぼけなくていいよ」
エリオはもう一つマカロンを摘みながら、あっさりと言う。
「禁忌。使ったでしょ」
午後の光が、ガラス越しにわずかに揺れた。ローゼリアの指先が、カップの縁で止まる。
エリオは懐中時計を指先でくるりと回す。甘い香りの中で、金属だけが冷たく正確だ。
「この子はね、僕が選んだんじゃない」
エリオは蓋を開かないまま、金の縁を指先で撫でた。
「生まれたとき、向こうが僕を選んだんだ」
ローゼリアは黙って、その仕草を見つめる。
懐中時計は静かなままなのに、そこだけ時間の気配が濃かった。
「秒針に“愛のある血”を吸わせると動く。ロマンチックでしょ?」
エリオは軽く笑った。
「その代わり、眠れなくなるし、時間を戻した分だけ寿命は削れるけど」
「……あなたは、どこまで知ってるの」
エリオは肩をすくめる。
「全部じゃない。でも、“あの瞬間”は感じた」
瞳の奥が、すっと深くなる。
「時間が、裂けた」
温室の花蜜の甘さが、ふっと薄くなる。──一瞬だけ、“ここではない時間”が混ざった。
「リア、血を削ったよね?」
ローゼリアは視線を落とす。否定しない。温室の花が、午後の光を受けて揺れる。揺れが、まるで“答え”みたいに。
「……ルカが死んだの」
「だから、考える前に願った」
エリオは何も挟まない。ただ受け止めるように、黙って聞いていた。その沈黙だけで、張りつめた空気がわずかに緩む。
「王族であることも、寿命も、全部いらなかった。ただ、生きていてほしかった」
その言葉に、エリオの指先が止まる。止まるのは時計じゃない。エリオの“時間”だ。
「だから、リアは“人間になる”」
断定。責めない。ただ、事実として。
「リアは昔から、失うことに敏感だよね。……ルシエルを失った、あの日から」
「双子って、半身みたいなものでしょ」
花弁が揺れる。光が揺れる。揺れるたび、過去が少しずつ表に出てくる。
「リアが誰かを失うの、もう見たくない」
軽い口調のまま、声だけがほんの少しだけ低い。甘さが一段落ちる。かわりに、“決意の匂い”が立つ。砂糖じゃない。鉄と夜の匂い。
「禁忌は重いよ。あの瞬間、即座に崩れてもおかしくなかった」
ローゼリアの瞳が、かすかに揺れる。
「……だから、あなたが」
「うん」
今度は笑わない。
「僕が時間を巻き戻した」
さらりと告げたのに、最後の一音だけが少し沈んだ。
「一年。猶予を作った。それが限界だった」
本当は、限界なんて言葉で済ませたくなかった。でも、それを言えば最後、自分の願いでローゼリアを縛ってしまいそうだった。だから軽く笑う。壊れないように。
その瞬間、温室の光が一瞬だけ揺らぐ。揺らいだのは光だけじゃない。甘い空気の層が、薄い紙のようにめくれて、すぐ戻る。
エリオの指先だけが、その“めくれ”の向こうを知っている。
ガラス越しの陽射しが、きらりと歪む。ローゼリアは気づく。
「……いま、止めた?」
「ほんの一瞬」
あっけらかんと返す。
「便利なんだよ。副作用つきだけどね」
またマカロンを口に入れる。
けれど、目の下にはわずかな影。午後三時の甘やかな光の中で、その影だけが浮いて見える。甘い匂いの奥で、夜の匂いがずっと消えない。
「リア。満月の契約は、救済じゃない」
静かな声。
「王族性は分けられる。でも、禁忌の代償は消えない」
ローゼリアはゆっくりと息を吐く。
「わかってる」
「それでも、やるの?」
問いではない。確認。ローゼリアは顔を上げる。花々を背に、まっすぐに。
「やるわ」
迷いはない。エリオは、ほんの少しだけ寂しそうに笑った。甘さの皮が、ふと薄くなる。
「そっか」
そして、柔らかく言う。
「じゃあ、僕は最後まで付き合うよ」
午後の光が、ふたりを包む。甘い菓子と重い禁忌。花の香りの中で、世界の理が静かに語られている。
そして時計の針は、止まらないまま──確実に満月へ向かって進んでいた。




