第23話 嫉妬未満
扉が、軽く二度叩かれた。返事を待たない。エリオはいつもそうだ。城の規律より、自分の体温で距離を決める男。
「──お帰り!」
弾む声とともに、キャラメル色の髪がふわりと揺れる。柔らかな猫っ毛が光を受けてきらめいた次の瞬間、エリオは迷いなく駆け寄り、そのままローゼリアに抱きついた。
細い腕が肩へ回り、頬が軽く触れる距離まで近づく。
ふわり、と甘い香りが落ちる。柑橘の明るさの奥に、花蜜と粉砂糖の気配が一瞬だけ甘く弾ける。確かな“親しさ”の匂い。
そのとき、エリオの胸元で金属が小さく光った。懐中時計だ。細い鎖が揺れ、冷えた一音が甘い香りの中に混ざる。
「会いたかったよぉ──、リア!」
甘い声。無邪気な笑顔。そこに下心はない。ただ純粋な再会の喜びだけがある。だからこそ、距離は無防備に近い。
エリオ・ヴァル・ルミナス。王族の血を引く従兄弟。幼い頃から城で顔を合わせてきた、ひとつ下の少年。血筋は強くとも、それを誇示しない男──というより、誇示する必要がないほど“当然”に血を背負っている。
ルカリウスの視線が、静かに落ちた。
危険ではないことは、知っている。だが──距離が、近い。
その近さは、刃を向ける理由にならない。なのに、鞘の中の鋼だけが先に擦れて鳴る。ただ、触れられた痕跡を、この場から退かせたい。
「……エリオか」
低く呼ぶと、エリオはようやく腕をほどき、くるりと振り向いた。金の瞳が、ちらりとルカリウスを見る。悪戯のようでいて、計算のない視線。甘い香りの奥で、懐中時計の金属の冷えが一瞬だけ光る。
エリオの“軽さ”は、軽薄ではない。重いものを軽く持つための技術だ。
王位継承権第二位。だが、その肩書きを本人が誇ったのを、ルカリウスは見たことがない。
双子が失われた日から、城の空気はエリオへ傾いた。それを誰より嫌がっていたのも、エリオだった。
「ルカ兄も久しぶり! 相変わらず見下ろしてくるねぇ」
屈託のない笑顔。
ルカリウスの視線は、つい先ほど触れていたその腕に一瞬だけ落ちる。触れた“事実”が、匂いのように残る。
“お帰り”──その一言が、胸の奥で引っかかる。まるでエリオの傍が、ローゼリアの“帰る場所”だと先に決められたみたいで。
エリオは再びローゼリアへ向き直り、迷いなく距離を詰める。
甘い香りがまた一段、近くなる。薔薇ではない。蜜のように軽い“家族の甘さ”。
「ひどいよ、真っ先に僕のところに来ないなんて。最初は僕でしょ?色々話したいことあるんだからさぁ」
甘えるような調子で、エリオはローゼリアの腕に自分の腕を絡めた。
ルカリウスは眉間に皺を寄せ、腕を組んだ。組んだ腕は壁ではない。見えない縄を、そこに張る境界線だ。
「俺がいると困る話か?」
抑えた声。怒ってはいない。けれど、静かに圧がある。
エリオは首を傾げ、悪びれずに言う。
「困るっていうより、照れる? 二人きりのほうが話しやすいこともあるでしょ」
追い払われている。それは分かっている。なのに、足が動かない。
無邪気さが、逆に刺さる。
(……抱きつく必要はあるか?)
ただ、面白くない。自分の思考が、“らしくない”のが引っかかる。
(何に対してだ?)
答えは出ない。出ないのに、胸の内側の音だけがうるさい。
「……鍛錬場へ行ってくる」
これ以上ここにいれば、今までの自分を保てない気がした。
◇◇◇
鍛錬場には誰もいなかった。石造りの壁が冷えた空気を閉じ込め、剣を振るたびに影だけが大きく伸びる。
剣を抜く。一閃。二閃。刃の軌跡が空気を裂き、金属音が石壁に跳ね返る。いつもより、わずかに鋭い。
(考えるな、集中しろ)
刃は空気を裂くのに、裂けたのは自分のほうだ。誰のものでもないはずの距離が、勝手に奪われていく。
その感情を、まだ“嫉妬”とは呼べずにいる。呼んだ瞬間、制御できなくなる気がした。
◇◇◇
──一方、室内。
エリオはゆっくりと笑みを消し、まっすぐローゼリアを見つめた。
「──本当に、お帰り」
今度は軽さのない声で。
懐中時計を取り出し、指先で金の縁をゆっくりと撫でる。蓋は開かない。ただ、触れているだけ。
甘い香りの奥で、時間が──目を覚ました。




