第22話 独占の予告
扉が閉まっても、空気は戻らなかった。
残像は視覚ではない。微かに冷えた空気。冷えたジュニパーベリーの残滓と、シダーの気配。整いすぎた、理性の匂い。
ルカリウスの鼻の奥が、わずかに反応する。
それは血ではない。だが確実に、“別の男の存在”がそこにある。青の匂いが、まだローゼリアの周囲に滞留していた。
その瞬間、ルカリウスの呼吸がほんのわずかに深くなった。理屈ではない。本能が、縄張りを塗り替えようとする。
一歩。空気へ踏み込む。ローゼリアとの距離が縮まった。青の匂いを上書きするように、冷えたウッドと体温が重なる。
「……あの男、気に入らない」
子供のように率直だった。けれど、目は真剣だ。その言葉の奥にあるのは、気に入らない、ではない。残っているのが、許せない。
ローゼリアは、ほんの少しだけ笑った。
「知ってる」
その笑みに、ダマスクローズが揺れる。奥に、わずかな甘さが滲む。安堵ではない。独占を向けられたことへの、無意識の反応だった。
ルカリウスは、それに気づいた。鼻の奥で、匂いが変わる。理性の青が消え、体温の薔薇が濃くなる。
「……満月とは何だ」
低い声。怒りではない。匂いの変化を確かめるための問いだった。
ローゼリアは息を整える。その呼吸に乗って、ホワイトムスクが淡く揺れた。
「王族の血の儀式よ。契約を結べるのは、満月の夜だけ」
ルカリウスの視線が首筋へ落ちる。もう青は残っていない。あるのは、体温に反応して甘くなる薔薇だけだ。
「契約?」
「──血印。王族性を分け与える儀式」
その瞬間、ルカリウスの瞳が変わった。青の記憶が、完全に消える。
「……俺に?」
否定しない沈黙。それだけで十分だった。
ルカリウスの体温が、はっきりと上がる。ベチバーの冷えた気配が熱を含み、アンバーが甘く変わる。血への渇きではない。匂いを奪い返すための熱だった。
「つまり、あの男はそれを見越して近づいた」
ローゼリアは小さく首を振った。
「違う……彼は、あくまで“血”を守ろうとしているだけよ」
「俺には守れないと?」
距離がさらに縮まった。薔薇が、甘く弾ける。選ばれた喜びではない。胸の奥の強張りが、静かにほどけていく。
「……この渇きはなんなんだろうな」
ルカリウスは指先でそっとローゼリアの首筋をなぞった。確かめるように。
「血じゃない」
指先に力が入る。
「他の誰かの気配が、ここに残るのが」
ほんの一瞬、言葉を失う。そして。
「──嫌だ」
それは、ほとんど独占の告白だった。
ルカリウスは一瞬だけ目を閉じた。深く息を吸う。薔薇の奥に、青の残り香がないか確かめるように。あるなら──消す。
理屈ではない。縄張りの本能だった。目を開く。あと数ミリ。
唇が──触れた。
深くはない。けれど、今までで一番“上書き”するような接触だった。青の記憶が、完全に消える。薔薇とアンバーだけが残る。
「……リア」
低く甘い声がローゼリアの理性を揺らす。
「満月まで待てと言うなら待つ」
ルカリウスの指先が、ローゼリアの長い髪を掴む。
「俺はお前を譲らない」
それは支配ではなく、本能の底から零れた誓いだった。
紫と翡翠が、そらせない。薔薇が、はっきりと甘くなった。
匂いが消え、匂いが重なる。──満月は、もう二人だけの儀式ではない。




