第2話 赤い記憶、黒い選択
「ローゼリア王女様、お誕生日おめでとうございます」
弾む声が、朝の空気に甘さを落とす。ローゼリアは、ゆっくりとまぶたを開けた。
視界に広がるのは、赤く染まった世界ではない。ピンクゴールドのカーテンが薄く透け、大きな窓から眩い光が差し込む、穏やかな朝だ。
「……ルカは?──ルカリウスはどこにいるの?」
侍女はきょとんと目を瞬く。
「扉の外側で、お着替えが終わるのをお待ちでございます」
部屋の両端には積み上げられた誕生日の贈り物。甘い薔薇の香りが満ちていた。
(ルカは、生きている……の?……あれは、夢だった……?いや、違う)
夢ならよかった。
けれどあの体温の消え方を、夢と呼べるほど鈍くはない。
右手首の奥で、熱いものが脈打っている。今は見えない赤い痣が、皮膚の下で息をするように。
視界が、少しずつ現実へ焦点を結ぶ。
金の装飾で縁取られた鏡の中に、真紅のドレスを纏ったローゼリアがいる。ゆるやかに巻かれた赤髪、宝石に縁取られた胸元。翡翠の瞳だけが、死を記憶したまま静かな光を宿している。
(……このドレス)
去年の誕生日、婚約者から贈られたものだ。記憶と現実が重なり、思考が追いついてくる。
(──時間が、巻き戻った)
二十一歳の誕生日に戻った。そして今日は──婚約が正式に結ばれる日。
今すぐルカリウスの元へ走り、生きているのを確認したい。なのに、この赤が震えを誘う。
「王女様のルビーのような髪に合わせて、婚約者様がお選びになった特注品でございます。とてもお似合いですわ」
同じ台詞。同じ空気。鏡越しに届く侍女の弾んだ声が、まるで遠い場所から聞こえてくるようだった。
ローゼリアは自分でドレスの紐をほどく。この赤を、一秒でも早く遠ざけたかった。
「……ドレスを着替えたいわ」
穏やかなのに、迷いのない声。侍女の手が、わずかに止まった。
宝石を散りばめた赤が、絨毯へ滑り落ちる。花模様のラグの上で、赤がゆっくりと広がった。甘く整えられた部屋の中で、その色だけが毒のように浮いて見える。
「この色の気分ではないの」
鏡越しに、翡翠の瞳をまっすぐ見据える。そこにいるのは雪の上で泣き崩れていた女ではない。この国でいちばん高貴な女──王女だ。
(今度こそ、あなたを死なせない)
「ルカが好きな、黒のドレスを」
その名を口にした瞬間、胸の奥が跳ねた。けれど表情は崩さない。それがローゼリアの、唯一の鎧だった。
(あなたが好む色がいい)
赤を脱ぐ。それはただの衣替えではない。血に染まる未来を脱ぎ捨てる、儀式だ。
「かしこまりました。昨日届いた新作をお持ちいたします」
侍女が一礼して衣装室へ向かう。
衣装室の扉が開く音がして、すぐに黒いドレスが運ばれてきた。丁寧な手つきで身体へ重ねられていく。深い夜の色が、そっと肌を包んだ。
赤よりも重く、静かで、深い。抱かれるのではない。纏うのだ──夜そのものを。
「黒はまた一段と……王女様を輝かせますね」
鏡に自分の姿を映し、ローゼリアはわずかに微笑んだ。
「ええ。こちらの方が──」
(吸血族の王女らしいでしょう?)
続きを、張り詰めた息と一緒に飲み込む。
この一日を越えれば、運命は再び同じ夜へ堕ちていく。
それだけは、許さない。
(まずは、この婚約を止める)
それが最初の一手。止められなければ、また赤い雪へ辿り着く。ルカリウスが、死ぬ。
「……ルカ?そこにいるんでしょ」
──今度こそ、ルカリウスを王にする未来を選ぶ。




