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第18話 合理の仮面


大広間の空気は、解散のざわめきへと変わりつつあった。貴族たちは小声で囁き合いながら散っていく。父王は側近と短い言葉を交わし、玉座の奥へと姿を消した。


扉が閉じる音が、遠くで小さく響く。広間に残った緊張だけが、切り離された布のように床へ落ちた。


残されたのは、中央に立つローゼリアと、数歩離れて佇むセラフィオン。そして──広間の壁際に立つ、ルカリウス。


視線が、静かに交差する。衝突ではない。けれど、確かに火種を含んだ交差だった。火花は、言葉より早い。


セラフィオンが先に口を開いた。


「“条件付き”とは?」


声は低く、穏やかだ。感情の波は見せない。けれど、観察者の目は崩れない。その視線だけが、ローゼリアの“選択”の中心を正確に捉えていた。


ローゼリアは周囲を一瞥し、歩き出す。人払いの意味を理解したセラフィオンも、同じ歩幅で並んだ。少し離れ“護衛の距離”を保ちながら、ルカリウスも後を追う。


広間を抜け、長い回廊へ。窓から差し込む昼光が、二人の影を床に伸ばす。光は白いのに、会話の温度だけが、ひどく冷静だった。


足音が石床を打つたび、言葉の前触れみたいに反響する。だからこそ、沈黙が余計に重い。


「あなたは、なぜ今になって現れたの」


王女としてではない。ひとりの女としての問いだった。


セラフィオンはすぐに答えない。呼吸を整える間があった。逡巡ではなく──言葉を選ぶ時間。


「死んだと聞いていた」


「ええ。便利な誤報でした」


わずかに口元が動く。微笑と呼ぶには薄い、形だけの動き。次の一言は、妙に正確だった。


「ですが、私は“死ぬ予定ではなかった”」


予定。その単語が、ひどく引っかかる。ローゼリアは足を止めた。影が、床の上で揺れる。


「……何を知っているの」


セラフィオンの青い瞳が、わずかに細まった。冷たい色のまま、奥だけが静かに研がれる。


「観測時に分岐の痕跡が現れることがあります」


断言ではない。観察報告だ。しかし、観察者が“ここまで来た”時点で、十分に強い。


「あなたの周囲で、それが強まっていた」


ローゼリアの指先が、わずかに強張る。


「なので、戻らざるを得なかった」


「研究のため?」


「それもあります」


即答。迷いのない肯定。そこがセラフィオンの怖さでもある。しかし次の言葉は、ほんのわずかに遅れた。


「……あなたを守るためでもある」


ローゼリアの鼓動が、ひとつ強く跳ねた。白い光の中で、その跳ねだけが妙に鮮明だった。


「守る?」


「王族の血は、この国の均衡そのものだ。あなたに何かあれば、勢力図は一気に崩れる。私は均衡を守る側の家系です」


それは完璧な理屈。けれど、視線は逸れない。“血”の話をしているのに、その目はずっとローゼリアの輪郭だけを追っている。理論の仮面の下で、感情が呼吸していた。


「愛人契約という形を提案したのも、そのためです。正式婚約は政治の矢面に立つ。愛人であれば、自由度が高い。近距離で見届けることも可能」


「見届ける?」


「はい」


淡々と。冷静に。その冷静さが、逆に不穏だった。


「あなたの血は、安定していない」


ローゼリアの空気だけが止まる。


それ以上は踏み込まない。踏み込めば、ローゼリアが引くと知っているからだ。


「今はそれだけ言っておきましょう」


ローゼリアは目を細めた。


「私を、駒にする気?」


「いいえ」


「私は盤を読む側です。駒にはなりませんし、あなたを駒にもしたくない」


その言葉には、ほんのわずかに熱が混じっていた。気づかぬほど小さな、しかし確かな温度。“守る側の家系”という言葉の奥に、個人的な執着がひと筋だけ走る。


ローゼリアは、静かに刺した。


「……元々は、あなたが婚約者だったと聞いたわ」


「はい」


即答は、崩れない。否定も弁明もないことが逆に重い。言葉が少ないほど、過去は濃くなる。


「それでも、婚約は望まないの?」


セラフィオンは一瞬だけ黙った。青い瞳が揺れたのは、光のせいではない。


「望む、という言葉は正確ではありません」


丁寧に整えた返答。逃げではない。掟の輪郭を、ぎりぎりで隠す言い方だった。


「……私は、あなたを一度失っています」


「望めば、あなたは私を選びますか?」


静かな問いだった。挑発ではない。むしろ──確認だ。願いに近い確認。


ローゼリアは答えない。答えられない。その沈黙は、拒絶よりずっと残酷だった。


その沈黙を、セラフィオンは理解している。目を逸らさない。目を逸らさないことが、唯一の欲の告白になる。


「私は合理的な人間です」


そう言いながらも、視線は外さない。


「ですが、合理だけで動いているわけでもない」


風が回廊を抜ける。遠くで金属が鳴る音。距離を空けて後ろを歩く、ルカリウスがわずかに身じろいだ。


「愛人契約は制度です」


ここまでは、理屈。


「──ですが私は、あなたの一途な視線を、いつか自分に向けさせたい」


その言葉は、熱を持たないのに、深いところへ落ちた。野心でもない。欲望でもない。計算の奥に隠し持っていた感情が、ほんの一瞬だけ顔を出す。


ローゼリアの指先が、かすかに震えた。震えたのは恐れか、懐かしさか。判別はつかない。

空気が、さらに動く。


後ろで、ルカリウスの瞳が鋭く光った。理由は分からない。しかし本能が告げている。


──あの男は危険だ。


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