第16話 今夜だけの体温
沈黙が、長く続いた。燭台の炎がゆるやかに揺れ、壁に映る二人の影が重なり、また離れる。部屋にはまだ血の匂いが残っている。けれど、それはもう意味を持たなかった。
ローゼリアは視線を落とした。王女の顔ではない。強がることをやめた、ただの女の横顔だった。
「……今夜だけ」
小さな声。震えてはいない。ルカリウスは答えない。ただ、続きを待つ。
「子供の頃みたいに」
灯りが揺れ、睫毛に影が落ちる。
「手を、繋いで眠ってほしいの」
甘えではない。縋りでもない。あの夜の庭。同じ喪失を抱え、同じ沈黙を共有した時間。触れなくても、隣にいるだけでよかった距離。
ルカリウスはゆっくりと息を吐いた。
「もう子供じゃない。それだけで済むとでも?」
低い声。理性を保ったままの警告だった。
ローゼリアは小さく頷く。
「わかってる」
それ以上は言わない。言わないことが、ずるい。
わずかに、ルカリウスの口元が緩んだ。
「……ずるいな」
拒絶ではなかった。
ルカリウスは寝台へ向かい、距離を空けて横になる。わずかな隙間が、逆に強く意識を引き寄せた。
ローゼリアが手を伸ばす。触れる直前、ほんの一瞬だけ止まる。
次の瞬間──
絡め取るようにではなく、静かに、自然に。ルカリウスの指が重なった。強く握らない。支配でも契約でもない。ただ、確かにそこにいるという証だった。
鼓動が、ゆるやかに揃っていく。
「今夜だけだ」
念を押す低い声。それでも、手は先に握り返していた。
乾いたベチバーと冷えたウッド。体温に触れて、わずかに甘く変わるアンバー。その香りが、ゆっくりと肺の奥へ落ちていく。
ローゼリアは目を閉じた。
「……うん」
小さな吐息が、部屋の空気を柔らかくする。
欲ではない。奪うでも、選ぶでもなく。ただ、隣にいる。
ルカリウスは気づかない。血ではない温度が、言葉にならないまま胸の奥に沈んでいくことに。それでも渇きは──ほんの少しだけ、静まっていた。
◇◇◇
部屋の灯りは落とされ、燭台の炎だけがかすかに揺れていた。壁に映る影はゆるやかに伸び、溶けるように揺らめく。
ローゼリアは、ルカリウスの手を握ったまま、先に眠っていた。細い指。冷たいはずの体温。それなのに、触れていると妙に柔らかい。王女ではない。ただの、ひとりの女。無防備な寝息が、静かな部屋に小さく溶けていく。
ルカリウスは眠れなかった。身体は横たわっている。呼吸も整っている。けれど、内側だけが落ち着かない。
ホワイトムスクに、ほんの少しのバニラ。体温に溶けて立ちのぼる、ローゼリアの甘い香り。血の熱。先ほどの吸血の余韻。そして、まだ消えきらない欲。どれも中途半端に残り、静まりきらない。
それでも──握られた手だけは、離せなかった。
暗闇の天井を見つめながら、ゆっくりと呼吸を整える。そのとき、ローゼリアの呼吸がほんのわずかに乱れた。睫毛が震える。眉がかすかに寄る。次の瞬間、目尻からひと筋、音もなく涙がこぼれ落ちた。
ルカリウスは視線を落とした。
「……子供みたいだな」
低い声。からかいではない。懐かしむような温度だった。あの庭。膝を抱え、必死に涙を堪えていた小さな背中。
「昔は、よく泣いていたな」
今は泣かない。誰よりも強く、誰よりも冷静であろうとする。だからこそ、この無意識の涙は、どこか安堵に近かった。
ルカリウスはゆっくりと上半身を起こした。握られた手を離さぬまま身を寄せ、親指でそっと涙を拭う。触れるか触れないかの、かすかな圧。
その瞬間──胸の奥で燻っていた衝動が、静かに形を変えた。欲ではない。奪うでも、選ぶでもない。守る、という感覚に近い。
自嘲するように、息がこぼれる。
「……厄介だな」
何が厄介なのか。まだ言葉にできない。
ローゼリアは眠ったまま、指先にわずかな力を込める。離れるな、とでも言うように。ルカリウスは握り返した。強くはない。でも、拒まない。
越えなかった夜。欲は消えていない。契約も、まだ不完全だ。──血ではない温度が、確かにそこにあった。
ルカリウスは一度も目を閉じなかった。夜が明けても、その手だけは──離さなかった。




