第15話 横並びにできない
「……入りますか、王女」
半開きの扉の向こうから届いた声は、いつもと変わらず平坦だった。驚きも、動揺もない。ただの確認の温度。
ローゼリアは一度だけ深く息を吸い、静かに扉を押し開けた。室内にはまだ血の匂いが残っていた。考えたくないのに、黒髪の女の姿が脳裏に浮かんでしまう。
燭台の灯りが揺れ、机に並ぶ書類の影を長く引き伸ばしている。王族直属騎士団の紋章が刻まれた封蝋。実戦用の剣。磨かれた革手袋。装飾はない。誇示もない。ここは、生き残るための部屋だった。
ルカリウスは窓際に立っていた。上着は乱れず、襟元も整っている。つい先ほどまで別の女の体温を受け止めていたとは思えないほど、何事もなかった顔で月を背にしていた。
「夜更けに王女が騎士の部屋を訪ねるとは、噂になりますよ」
淡々とした声音だ。距離は、きちんと保たれている。
ローゼリアは答えず、室内をゆっくりと見渡した。血筋ではなく、剣で掴み取った男の空気だけがある。
ローゼリアは一歩、近づいた。床板が小さく鳴る。
「……渇いてるの?」
責めない。ただ、確かめる声だった。
ルカリウスの視線が、ゆっくりとローゼリアへ向く。揺れはない。
「足りないわけではない」
正確な言い方だった。満たされているとは、言わない。月光がルカリウスの横顔を淡く縁取っている。
「飲まなければ、置いていかれる」
低い声。誇張も卑屈もない。ただの事実だ。血は階級であり、力だ。どれだけ王族の血に近づけるかで、未来は変わる。守れるものの範囲も、変わる。
ローゼリアは、ほんのわずかに息を止めた。
「……誰に?」
静かな問いだった。世界か。王族か。それとも──
ルカリウスは笑わない。視線も逸らさない。
「選ばれなければ、守れない」
そこに甘さはない。愛でもない。使命と野心と、現実だけ。その真っ直ぐさが、胸を締めつける。
ルカリウスはまだ、“愛で選ぶ”男ではない。けれど、守るために選ばれようとするその在り方が、どうしようもなく不器用で。どうしようもなく、まっすぐだった。
ローゼリアは、わずかに視線を落とし、普段のルカリウスを思い浮かべた。彼は誰の血も拒まない。差し出されれば飲む。けれど特別扱いはしない。
力を保ち、置いていかれないための選択。それが彼なりの生存方法なのだと、理屈では、ローゼリアも分かっている。それでも──胸は痛む。
「さっきの子、満足そうだったわ」
何気ない声音だった。けれど、夜の空気に落ちた瞬間、わずかに重さを持つ。予想もしていなかった言葉に、ルカリウスの眉が、ごくわずかに動いた。
「いまさら、見慣れてるだろ」
淡々とした事実。慰めでも、弁明でもない。
ローゼリアは視線を逸らさない。
「……見慣れることと、平気でいることは違うわ」
静かに、けれど確かに。空気が変わった。
ルカリウスの目がわずかに細まる。王女を見る視線ではない。感情を測る目だ。
ローゼリアはもう一歩、踏み込んだ。ただひとりの女として。
「私は──」
躊躇う間があった。それでも、今度こそ後悔したくないという意志が背中を押した。
「あなたに横並びにされたくない」
沈黙が落ちた。燭台の炎が揺れ、壁に映る二人の影がわずかに重なる。
ルカリウスがゆっくりと距離を詰める。衝動ではない。理性で選んだ一歩だった。
「横並びにできると思うか」
低い声。抑えられているが、熱が混じっている。ローゼリアの心臓が、わずかに跳ねた。
「……だから、厄介なんだ」
その言葉は、ほとんど独白だった。困惑でもない。苛立ちでもない。ルカリウスの中に生まれ始めた“例外”への自覚。横並びにできない存在を、すでに選びかけているということへの、自覚。
まだ気づいていない。
けれど、その一歩は、もう確実に引き返せないところまで来ていた。




