第13話 半開きの扉と、血の余韻
ローゼリアは眠れなかった。
騎士棟へ続く廊下はひっそりと静まり返り、長く伸びる石床が月明かりを淡く反射していた。高窓から差し込む蒼い光が冷たい影を幾重にも落とし、城の奥を静寂で満たしている。
その静けさの中に、かすかに血の匂いが残っていた。癖のない命の気配。特別ではない、誰にでもある温度。
回帰したばかりの夜。未来を変えると決め、強くあろうと誓ったはずなのに、胸の奥だけがどうしても静まらない。理由は、分かっている。
(……少しだけ、顔を見たい)
王女としてでも、契約者としてでもなく。ただひとりの女として。自分に言い訳を重ねながら、足は自然とルカリウスの部屋へ向かっていた。
曲がり角を抜けた、その瞬間──
扉が内側から開く音。現れたのは、ひとりの女だった。吸血族貴族の娘。艶やかな黒髪が肩に落ち、白い頬はほんのりと紅潮している。唇は柔らかく湿り、瞳の奥には満足の余韻が揺れていた。
目が合う。一瞬だけ驚きが走り、すぐに整えられた微笑へと変わる。
「王女様」
優雅な一礼。その首筋には、まだ新しい噛み痕が残っていた。赤く、かすかに熱を帯びた跡。血の匂いが、冷えた廊下の空気に溶け込む。
ローゼリアの足が止まった。
──知っている光景だ。
今までに何度も見た、横並びの女たち。選ばれたと勘違いする夜、選ばれなかった朝。それは特別なことではない。食事であり、日常であり、生存だ。理屈では、わかっている。
それでも。胸の奥が、静かに裂ける。呼吸が、うまく落ちない。
ふいに別の記憶がよぎった。回帰前、ローゼリアは当て付けのように別の男たちの血を受け入れた夜があった。王女である自分を求める者は、いくらでもいた。差し出される首筋も、甘い声も、いくらでも。
(これで同じでしょう?)
歪んだ笑みを浮かべ、わざと横並びに堕ちた夜。復讐だったのか。意地だったのか。結局、何も満たされなかった。今なら分かる。同じことをしても、痛みは消えない。
女は通り過ぎ、血の残り香だけを置いて去っていく。足音が遠ざかり、廊下に再び静寂が戻った。
けれど。血の匂いの奥に、わずかに別の気配が残っている。澄んだ、かすかな匂い。ほんの一瞬、触れただけの──自分の血の残り香。
ローゼリアの指先が、無意識に首元へ触れた。
扉はまだ半開きのままだ。その向こうに、ルカリウスの気配がある。こちらに気づいているくせに、呼ばない。その沈黙が、逆に距離を際立たせた。
ローゼリアはゆっくりと息を吸った。冷たい夜の空気が胸の奥まで入り込む。あの部屋の奥に、まだ自分の気配が残っていることを、ローゼリアは確かに感じ取っていた。
それでも──足は、引かなかった。




