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第12話 均された血、消えない匂い


騎士棟の夜は、まだ深かった。


ルカリウスの私室には静かな闇が沈んでいた。重い黒のカーテンが月光を遮り、燭台の炎だけが低く揺れている。赤い影が石壁に滲み、鉄と革の匂いが冷えた空気に馴染んでいた。


いつも通りの、騎士の部屋だ。


──なのに今夜だけ、空気がわずかに緩んでいる。


他人の体温。差し出された首筋の血の気配。本来この部屋には存在しない温度が、冷えた空気を薄く濁していた。


ルカリウスは長椅子に腰掛けていた。膝の上には、ひとりの女。吸血族貴族の娘だ。艶やかな黒髪が肩を滑り、白い首筋が惜しげもなく晒されている。薄い皮膚の下で、律儀な鼓動が規則正しく脈打っていた。


「今日は、私を選んでくださるのですね」


期待を含んだ声だった。ルカリウスは答えない。顎を持ち上げ、鼻先をわずかに寄せる。匂いを確かめる仕草は、捕食者のそれだった。


女は目を閉じ、自ら首筋を差し出した。迷いなく、牙が沈む。温度が舌を満たす。鼓動とともに命が流れ込み、熱が喉を落ち、内側をゆっくりと満たしていく。


選んだつもりなんてなかった。血は“燃料”だ。必要な分だけでいい。


騎士棟に戻れば、必ず“燃料”が待っている。それは、ただの日課にすぎない。女たちが何を見て血を差し出すのかなど、知りたくもなかった。


(くだらない)


匂いに差はある。だが本質は同じだ。貴族も、一般族も、人間も──結局は、命の匂いでしかない。


それでも。舌の奥が、別の温度を探している。


女の指が肩に絡む。吐息が震える。吸血は快楽を伴う。だがルカリウスにとっては、要るから飲む。それだけだった。──それなのに。


(……違う)


量は足りているはずなのに、鼻の奥に残るものが消えない。思い出すのは、ほんの一瞬、掠めただけの王族の血。味だけではない。もっと深い場所に刻まれた、匂いだ。


ダマスクローズ、アイリス、ホワイトムスク。その奥に、熟したワインのような濃い気配。


ただの血ではなかった。危険な黒い果実のような香りと、わずかな甘さ。本能の底を、確実に揺らした。


今、別の女の血を飲んでいるというのに。鼻の奥に残るのは、あの気配だけだ。


牙を抜くと、女は頬を染め、満足げに微笑んだ。


「……優しいですね、ルカリウス様」


優しい──その言葉を受け止める場所が、ルカリウスの中にはない。横並びのひとり。昨日は別の女。明日はまた別の誰か。置いていかれないために飲む。それだけだ。


飲んでいないはずの血が、喉の奥でまだ呼吸している。


手のひらに蘇るのは、ローゼリアの首筋の感触。浅く掠めた、あの小さな傷。血は飲んでいない。それでも、消えない。


「……帰れ」


女が去り、命の匂いが薄れていく。燭台の炎だけが、変わらず低く揺れている。


血は足りている。それでも──渇きだけが、残る。


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