第11話 遠ざけた血
「契約前よ」
責める声ではない。ただ、事実の確認だ。
ルカリウスはゆっくりとローゼリアを見た。瞳の色は、まだ深い。
「……だからこそだ」
掠れた声だった。
「今、あなたを飲めば──俺は選ばれる」
言葉が沈む。空気は凍らない。ただ、沈む。
王族の血、分岐、盤外の青い視線。すべてが一本の刃になる。選ばれる、王になる、奪えば届く。
その甘さは、喉を焼くほど魅惑的だった。だが、奪うということは、ローゼリアに選ばせないということでもある。
ルカリウスは息を整え、牙を消した。それでも視線は逸らさない。燭台の炎が静かに揺れ、二人の間に薄い光の境界線を引く。
「リア」
その名を呼んだ瞬間、喉の奥で別の呼び方が転がった。
「……お前は、何を捨てようとしている」
問いは鋭くない。けれど、深い。
ローゼリアは微笑んだ。答えはまだ告げない。
右手首が、ほんのわずかに熱を帯びる。まだ何もない。ただ微かな違和感だ。
一年。猶予はある。けれど、永遠ではない。
越えなかった夜。それでも確実に、運命の輪郭は変わり始めていた。
◇◇◇
扉が閉まったあとも、甘い香りは喉の奥に残っていた。
ルカリウスは回廊を歩く。白い壁に金の装飾。磨かれた床に月光が落ちる。王宮の夜は静かだった。けれど、胸の奥だけが静かではない。
指先に残る体温。舌の裏に残る、たった一瞬の甘さ。あれは、ほとんど血と呼べない量だった。それでも、渇きがはっきりと疼いている。
「……っ」
喉が鳴る。理性で押さえ込める。これまでも、そうしてきた。しかし今夜は違った。
“今、あなたを飲めば──俺は選ばれる”
あの瞬間の感覚が消えない。王族の血。今なら、なおさらだ。
喉が熱を持つ。選ばれる。王になる。世界を握る。野心にとって甘美な響きだった。でも、それは奪うということだ。ローゼリアが選ぶ前に、選ばせること。
ルカリウスは足を止めた。拳を強く握る。爪が掌に食い込んだ。痛みで、理性を引き戻す。
足りない。
生まれたときから、ずっと足りない。どれだけ血を飲んでも、埋まらない底。だが今夜、足りない理由を知ってしまった。あの血は、力より先に、選ばれる感覚を与えてくる。
だからこそ、飲めない。
飲めば王になれる。飲めばローゼリアを越えられる。飲めば、奪える。それは甘い。だが、それは敗北だ。
ルカリウスは踵を返した。向かう先は騎士棟だ。歩幅に迷いはない。逃げるのではない。選ぶために、遠ざける。
石壁の冷たい廊下を進みながら、あえて胸の奥を抉る。別の血で、鎮める。名前も顔も残らない血で。
それは救いではない。罰だった。王族の血を奪わなかった自分への罰。甘さを選ばなかった代償。
騎士棟の扉を押し開ける。冷えた空気が肺を打つ。石と鉄の匂いが、喉の奥の甘さを上書きしていく。
胸の奥の渇きだけが、癒える場所を知っている。それでも今夜は選ばない。
だから──別の血で、夜を越える。




