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第10話 鼓動の距離


鏡の前を離れ、ローゼリアはテーブルへ歩み寄った。祝宴の熱はもう届かない。燭台の炎だけが静かに揺れている。


銀のトレイに置かれた細身のグラス。深紅の液体が揺れ、炎を閉じ込めたように鈍く光る。整えられた柘榴と葡萄の匂い。──人工血だ。


本物なら体温があり、脈があり、触れた瞬間に感情が流れ込む。これは違う。冷たく、死んでいる。


(今回は、これでいい)


回帰前、牙を立てた夜の熱と支配と甘い快楽。それを知っているからこそ、遠ざける。


液体を喉へ流し込む。ただ機能として身体を満たすだけで、衝動は生まれない。満ちるのは生存だけだった。


そのとき、ノック音と同時に扉の向こうで空気が揺れた。


「……随分と静かな祝宴ですね」


低い声が室内の甘さを裂く。振り向かなくても分かる。ルカリウスだ。


扉が開き、白と金の空間に影が落ちた。ルカリウスが部屋へ入り、静かに扉を閉める。


甘い空気の中に、別の匂いが混ざる。近づかなければ分からないほど微かな、乾いたベチバーと冷えた木の匂い。香水ではない。生活と体温が染みついた、ルカリウスそのものの匂いだった。


「人工血か」


「流行りものよ。美容にいいらしいわ」


「味気ない」


一歩、近づく。距離が縮む。甘い空気がわずかに濃くなった。


「王族が、それで満足できるとは思えない」


ローゼリアはグラスを置いた。その音がやけに響く。


ルカリウスの視線が首元へ落ちる。脈を、正確に追っている。獣の目だ。礼節の奥に隠れているはずのそれが、今夜は薄皮一枚で表に出ていた。


「今日は、誰の血も吸っていないな」


「吸う必要がなかっただけ」


沈黙が落ちる。空気の温度が変わった。


「必要があれば、吸うのか」


指が顎に触れる。冷たいはずなのに、わずかに熱を帯びていた。ベチバーの奥で、アンバーがほんの少し滲んでいる。


「俺は、あなた以外の血を飲まない約束だったな」


「欲しいの?」


ルカリウスの喉が、低く鳴った。指先が、ゆっくりとローゼリアの顎を持ち上げた。


まだ牙は出ていない。だが渇きが空気を震わせている。燭台の炎が揺れ、二人の影が溶け合う。吐息が触れ合うほど近い。鼓動が、静かに重なった。


「……リア」


掠れた声だ。冷静を装いながら、その奥に熱が混じる。視線が唇から首元へ落ちる。脈打つ王族の血を、無意識に追っていた。


乾いたベチバーの奥に、わずかな甘さが滲んだ。体温が上がったときだけ現れる、ほんの少しのアンバー。冷えた木の匂いが、熱を帯びる。近づかなければ気づかないはずのそれが、今ははっきりと分かった。


理性が、崩れている証だ。


その甘さが、牙になる。牙がほんのわずかに覗いた。


「俺を試しているのか」


問いかけながら、距離はさらに縮まる。唇が触れそうな数ミリで空気が張りつめた。ローゼリアの吐息が、かすかに触れる。


その瞬間──理性が、薄く剥がれる。


指先が顎から首筋へと滑り、正確に脈を捉えた。訓練された捕食者の動きだ。


「……匂いが、変わった」


ルカリウスの甘く掠れた声。人工血の甘さの奥にある、本物の王族の香り。熟したワインのような濃さと、黒い果実の残り香。抑え込んでいたはずの衝動が、今夜は濃かった。


ローゼリアは息を呑む。甘く滲むアンバーに翻弄されそうになる。


(だめ……)


そう思うのに、身体が退かない。押し返そうとした手が、気づけばルカリウスの顎をなぞっていた。


ルカリウスの額がこめかみに触れた。赤い髪に銀の髪が掠れる。首筋に唇はまだ触れない。けれど──体温が重なった瞬間、燭台の炎がもう一度揺れる。


「……俺を煽るな」


牙が、深く現れた。アンバーが甘さを増す。


そして──首筋に、かすかな痛みが走る。鋭くはない。爪で線を引いたほどの浅い裂け目。血はほとんど滲まない。


けれどその瞬間、傷の縁がわずかに赤く脈打った。牙が触れたはずのない深さまで、皮膚の奥で何かが共鳴する。見えないはずの痕が、そこにあった。


王族の血が応えたのだ。触れられただけで、選ぼうとする。


ローゼリアの体温がわずかに上がり、ダマスクローズの奥に微量の甘さが滲んだ。ムスクと混ざり、本能の香りへと変わっていく。


ルカリウスの瞳が、はっきりと揺れる。


甘い。


ほんの僅かな刺激だけで視界の奥が熱を帯び、本能が理解してしまう。


──飲めば、繋がる。


「……っ」


次の瞬間、ルカリウスが離れた。壁に手をつき、荒く息を吐く。月光が窓から差し込み、乱れた銀髪を白く照らした。自分の牙を、まるで異物のように押さえ込む。


ローゼリアは首元に触れた。傷はすでに消えかけている。それでも、そこには一瞬だけ牙の形をした影が残っていた。だがそれも、すぐに溶ける。


越えなかった。──それでも王族性は、確かにルカリウスを覚えた。


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