触れてはいけない温度
放課後のチャイムが鳴り終わるころ、空はすでに重たく曇っていた。
校門を出た瞬間、ぽつりと頬に落ちた冷たいしずくに、私は思わず立ち止まる。傘を持ってこなかったことを思い出し、ため息をひとつついた。
仕方なく、商店街のアーケードまで小走りで駆け込む。屋根の下に入った途端、雨脚は急に強くなり、地面を叩く音が一気に大きくなる。
夕方の商店街は、雨の匂いと揚げ物の油の匂いが混ざり合って、どこか懐かしいような、胸の奥をくすぐるような空気を漂わせていた。
私は制服の袖についた雨粒を払ってから、ふと視線を横に向ける。
八百屋の前で、おばあさんが落としたらしい袋が地面に転がっていた。中からはリンゴがひとつ転がり出て、ころころと私の足元まで転がってくる。
私はしゃがみ込み、リンゴを拾い上げると、おばあさんに声をかけた。
「落ちちゃってますよ」
おばあさんは驚いたように目を丸くし、それからほっとしたように微笑んだ。
「あらまあ、ありがとうねえ。手が滑っちゃって」
私は袋の口を整えて渡す。おばあさんは何度も頭を下げながら去っていった。
ほんの些細なこと。誰でもやるようなこと。
私はまた雨の外を眺めながら、時間をつぶすようにスマホを取り出す。けれど、画面に集中できるほど気持ちは落ち着いていなかった。
なぜだろう。背中に、誰かの視線が刺さっているような気がした。
気のせいだと思いたかった。けれど、確かに空気が変わった。
アーケードの奥の方で、通りすがりの人たちが、何かを避けるように道を開けていく。
ざわりとした気配が、雨音とは違う重さで近づいてくる。
私はそっと顔を上げた。
黒い傘を差した男が、ゆっくりと歩いてくる。スーツ姿。背が高く、無駄のない動き。表情は読めない。けれど、周囲の空気が彼を中心に沈んでいくような、そんな圧があった。
誰も目を合わせようとしない。すれ違う人は皆、息を潜めるようにして距離を取る。
私は思わず息を呑んだ。怖い。けれど、目が離せなかった。
男は私の前を通り過ぎる……かと思った瞬間、ふと立ち止まった。
黒い傘の影から、鋭い視線がこちらに向けられる。
心臓が跳ねる。けれど、男は何も言わない。ただ、じっと私を見ていた。まるで、私の中の何かを探るように。
私は耐えきれず、視線をそらす。
すると、男はゆっくりと歩き出した。すぐ後ろを、黒い服の男たちが数人ついていく。彼らは私の横を通り過ぎるとき、ちらりとこちらを見た。その目は、冷たく、警戒しているようで、どこか怯えているようにも見えた。
やがて彼らの姿は雨の向こうに消えていった。
私は胸に手を当て、深く息を吐く。怖かった。けれど、あの男の視線は、ただの威圧とは違う何かを含んでいた気がした。
理由なんて分からない。ただ、忘れられない目だった。
雨は弱まる気配を見せず、私はしばらくその場から動けなかった。
***
翌日。学校の帰り道、私は友達と別れ、ひとりで住宅街を歩いていた。
昨日のことを思い出すたび、胸がざわつく。あの男は誰だったのか。どうして私を見たのか。考えても答えは出ない。
そんなときだった。
背後から、靴音が近づいてくる。振り返ると、見知らぬ男たちが数人、こちらを見ていた。
嫌な予感がした。足がすくむ。
逃げようとした瞬間、男たちがにやりと笑いながら近づいてくる。
「ちょっといい?」
声が低く、湿っていた。私は後ずさる。心臓が早鐘を打つ。怖い。けれど、叫ぶこともできない。
男たちが手を伸ばしてきた、その瞬間だった。
空気が変わった。昨日と同じ、あの圧。
背後から、ゆっくりとした足音が響く。男たちの表情が一瞬で凍りついた。
私は振り返る。
そこにいたのは、昨日の黒い傘の男だった。今日は傘も差していない。スーツのまま、無表情でこちらに歩いてくる。
男たちは一歩、二歩と後ずさる。彼は何も言わない。ただ、冷たい視線を向けるだけ。それだけで、男たちは青ざめ、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。
私はその場に立ち尽くす。
男は私の前で立ち止まり、静かに言った。
「……怖がらせたな」
その声は、昨日の冷たい空気とはまるで違っていた。驚くほど柔らかく、低く、落ち着いていた。
私は震える声で言う。
「あ、あの……助けてくれて……ありがとうございます」
男はわずかに目を細めた。表情が緩んだように見えたのは、気のせいだろうか。
「この前の、おばあさんを助けたやつ。見てた」
私は息を呑む。どうしてそんなことを。
「ああいうの、できる子は少ない」
その言葉は、褒めているようで、どこか寂しげでもあった。私は胸の奥が熱くなるのを感じた。怖いはずなのに。逃げるべきなのに。なのに、彼の声は不思議と心に沁みた。
すると、後ろから黒服の男が駆け寄ってきた。
「片付きました」
その手には、赤い染みのついたハンカチが握られていた。
私は息を呑む。背筋が冷たくなる。やっぱり、この人は危険な世界の人だ。
男は私の怯えた表情に気づき、ほんの少しだけ眉を寄せた。
「……怖がらせるつもりはなかった」
その声は、先ほどよりもさらに静かで、優しかった。
私は震えながらも、はっきりと言った。
「それでも……助けてくれて、ありがとうございました」
男はしばらく私を見つめ、それからゆっくりと背を向けた。黒服たちが後に続く。
彼らの姿が角を曲がって消えるまで、私はその場から動けなかった。
怖い。けれど、胸の奥に残った温度は、恐怖だけではなかった。
*****
あの日から、私は何度も振り返る癖がついてしまった。
誰もいないはずの道でも、背後に気配を感じると胸がざわつく。怖い。けれど、それ以上に、あの男の姿が頭から離れなかった。
助けてくれたこと。
私にだけ向けられた、あの柔らかい声。
そして、部下が持っていた血のついたハンカチ。
思い出すたび、心が揺れる。
怖いのに、逃げたいのに、なぜか目をそらせない。
そんな自分が一番怖かった。
***
数日後の放課後。
私は図書室で借りた本を抱えながら、商店街へ向かって歩いていた。雨は降っていないのに、空気はどこか湿っている。胸の奥に、言葉にならないざわめきがあった。
アーケードに入ると、夕方の光が薄く差し込み、店の看板がぼんやりと照らされていた。
そのときだった。
「おい、そこの子」
背後から声がした。
振り返ると、見覚えのある黒服の男が立っていた。あのとき、血のついたハンカチを持っていた男だ。
私は思わず身を固くする。
「少し、いいか」
声は低いが、敵意は感じない。
けれど、近づいてくるだけで足がすくむ。
「……な、なんですか」
黒服の男は、私をじっと見つめたあと、短く言った。
「若頭が呼んでる」
心臓が跳ねた。
“若頭”という言葉が、あの男を指していることはすぐに分かった。
「い、今ですか……?」
「今だ」
逃げられない。
けれど、不思議と足は動いた。黒服の男の後ろをついて歩く。アーケードの奥へ、さらに奥へ。
人通りが少なくなるにつれ、空気が重くなっていく。
胸が苦しい。
でも、戻れなかった。
やがて、薄暗い路地に入ったところで、黒服の男が立ち止まった。
「若頭、連れてきました」
その声に応えるように、影の中からゆっくりと姿が現れた。
あの男だった。
スーツの上着を脱ぎ、シャツの袖をまくっている。
整った顔立ちに、薄い光が落ちる。
その美しさは、冷たさと紙一重で、思わず息を呑むほどだった。
彼が歩くだけで、周囲の空気が張り詰める。
けれど、私を見ると、彼の表情がわずかに緩んだ。
「悪いな。呼び出して」
その声は、あの日と同じ、驚くほど優しい。
私は喉が詰まり、言葉が出なかった。
「怖がらせたか」
「……すこし」
正直に言うと、彼は目を伏せ、苦笑のようなものを浮かべた。
「だろうな。俺の顔見て平気なやつなんて、そういない」
その言葉は淡々としているのに、どこか寂しげだった。
「でも、お前は逃げなかった」
私は息を呑む。
逃げなかったのは、ただ足がすくんで動けなかっただけだ。
それなのに、彼はまるで私を肯定するように言った。
「……あのときのこと、礼を言いたかった」
「え……?」
「おばあさんを助けたやつだ。ああいうの、俺の周りにはいない」
彼はゆっくりと近づいてくる。
怖い。
でも、逃げられない。
「お前みたいな子は……俺の世界にはいないんだ」
その声は、ひどく静かで、ひどく優しかった。
胸が熱くなる。
怖いのに、涙が出そうになる。
「だから、目についた。忘れられなかった」
私は言葉を失った。
彼の視線は鋭いのに、私に向けられるときだけ、どこか温度が違う。
「……あの、不良の人たちを追い払ってくれたのも……」
「ああ。あいつらはただの雑魚だ。お前に触れさせる気はなかった」
その言い方があまりにも自然で、私は胸がざわついた。
「どうして……私なんかを……?」
彼は少しだけ考えるように目を伏せ、それから言った。
「理由なんて、後からついてくるもんだ」
その言葉は曖昧なのに、妙に胸に残った。
そのときだった。
「若頭」
黒服の男が駆け寄ってきた。
表情は硬く、緊張が走っている。
「例の件、動きがありました。敵対組織が……」
言い終える前に、彼の表情が変わった。
さっきまでの柔らかさが一瞬で消え、冷徹な“処理者”の顔になる。
私は息を呑む。
空気が凍りつく。
「場所は」
「倉庫街です。すぐに向かったほうが」
「分かった」
短い言葉なのに、周囲の空気が一気に張り詰めた。
彼は私に視線を戻す。
その瞬間だけ、氷が溶けるように表情が和らいだ。
「……帰れ。危ない」
「で、でも……」
「お前に何かあったら、俺は多分、我慢できない」
その言葉は、彼の世界では致命的なほど甘かった。
胸が熱くなる。
怖いのに、涙が出そうになる。
「また……会えますか」
震える声で言うと、彼は一瞬だけ目を見開いた。
そして、背を向けたまま答えた。
「お前が望むなら、何度でも」
その声は、私にだけ向けられた、唯一の優しさだった。
彼は黒服たちを連れて歩き出す。
その背中は、冷たく、強く、そしてどこか孤独だった。
私はその場に立ち尽くし、胸に手を当てた。
怖い。
でも、それ以上に――
あの人の優しさが、忘れられなかった。
*****
若頭と別れたあの日から、胸の奥にずっと火種のようなものが残っていた。
怖い。
でも、それだけじゃない。
彼の声。
彼の目。
私にだけ向けられた、あの柔らかい温度。
思い出すたび、胸がぎゅっと締めつけられる。
私は普通の女子高生で、彼は裏社会の“若頭”。
住む世界が違う。
関わってはいけない。
頭では分かっているのに、心はどうしても彼を忘れようとしなかった。
***
その日の帰り道、空は薄い灰色に染まり、風が冷たかった。
商店街を抜け、住宅街に入るころには、胸のざわめきが強くなっていた。
何かが起きる。
そんな予感がした。
角を曲がった瞬間、黒い車が数台、路肩に停まっているのが見えた。
見慣れない車。
そして、見慣れない男たち。
胸が凍りつく。
「……っ」
逃げようとした瞬間、腕を掴まれた。
「おとなしくしろ」
低い声。
知らない顔。
けれど、その目は明らかに敵意を含んでいた。
怖い。
足が震える。
声が出ない。
「若頭に近づいたガキだろ。運が悪かったな」
その言葉で、すべてを理解した。
私が狙われた理由。
彼が言った「危ない」という言葉の意味。
怖い。
でも――
「……離して」
震えながらも、私は言った。
怖くても、ただ怯えているだけの自分でいたくなかった。
「離せって言ってるの……!」
男が苛立ったように腕を強く引いた、その瞬間だった。
空気が変わった。
背後から、鋭い気配が走る。
肌が粟立つほどの圧。
息が詰まるほどの緊張。
「……何してんだ」
その声は、低く、冷たく、氷のようだった。
振り返ると、若頭が立っていた。
黒いコートを羽織り、風に揺れる髪。
整った顔立ちに、怒りの影が落ちている。
その姿は、恐ろしいほど美しく、そして恐ろしいほど冷たかった。
男たちが一斉に青ざめる。
「わ、若頭……っ」
「離せ」
その一言で、私の腕を掴んでいた男の手が震え、力が抜けた。
私は自由になったけれど、足がすくんで動けなかった。
若頭はゆっくりと歩み寄り、私の前に立つ。
その目は、私に向けられた瞬間だけ、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「怪我は」
「……ない、です」
声が震えた。
でも、彼の顔を見た瞬間、涙がこぼれそうになった。
怖かった。
でも、それ以上に――
彼が来てくれたことが、胸に沁みた。
若頭は私の頬に触れそうな距離まで顔を寄せ、低く言った。
「……遅くなった」
その声は、さっきまでの冷徹さとは別人のように優しかった。
胸が熱くなる。
「お前に触れたやつは……全員、後悔させる」
その言葉は甘くない。
むしろ、恐ろしい。
でも、私に向けられたその声音は、どこか温かかった。
「帰るぞ」
若頭が手を伸ばす。
私は迷った。
この手を取れば、もう戻れない気がした。
でも――
「……行きます」
震える声で言った。
怖いのに、逃げたくなかった。
若頭はわずかに目を見開き、それから静かに微笑んだ。
その笑みは、誰にも見せないものだと分かった。
***
車に乗せられ、しばらく走ると、静かな高台にある建物に着いた。
中は驚くほど整っていて、無駄がなく、清潔だった。
若頭は私をソファに座らせ、コートを脱ぎながら言った。
「怖かっただろ」
「……はい。でも」
「でも?」
「あなたが来てくれたから……大丈夫でした」
若頭は動きを止めた。
そして、ゆっくりとこちらを見る。
その目は、鋭さを失い、どこか戸惑っているようにも見えた。
「……お前は、本当に……」
言葉を探すように、彼は視線を落とした。
「俺の世界にいるべきじゃない」
「分かってます」
「巻き込みたくない」
「それも……分かってます」
「じゃあ、どうして」
その問いは、苦しげだった。
私の答えが、彼を縛ると分かっているような声だった。
私は胸に手を当て、震える息を整えた。
「……あなたが、優しかったから」
若頭の目が揺れた。
「怖い人なのに。冷たいのに。
でも、私にだけ……優しかったから」
沈黙が落ちる。
彼はゆっくりと歩み寄り、私の前に膝をついた。
「……俺は、お前を壊すかもしれない」
「壊れません」
「どうして言い切れる」
「あなたが……壊したくないって言ってくれたから」
若頭は息を呑んだ。
その表情は、初めて見るほど弱く、脆かった。
「……そんなふうに言われたの、初めてだ」
私はそっと手を伸ばし、彼の袖をつまんだ。
震える指先が、彼の温度に触れる。
「また……会えますか」
前にも聞いた言葉。
でも、今は意味が違う。
若頭は私の手を見つめ、ゆっくりとその手を包んだ。
「……お前が望むなら、何度でも」
その声は、氷が溶けるように柔らかかった。
私は涙をこぼしながら、微笑んだ。
怖い。
でも、それ以上に――
この人の優しさが、胸に沁みた。
若頭は立ち上がり、私の頭にそっと手を置いた。
「もう離さない」
その言葉は、甘くて、危険で、どうしようもなく優しかった。
私は目を閉じ、その温度を受け止めた。
触れてはいけない温度。
でも、もう離れられなかった。




