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触れてはいけない温度

作者: かも@ろん
掲載日:2026/02/24

放課後のチャイムが鳴り終わるころ、空はすでに重たく曇っていた。

校門を出た瞬間、ぽつりと頬に落ちた冷たいしずくに、私は思わず立ち止まる。傘を持ってこなかったことを思い出し、ため息をひとつついた。

仕方なく、商店街のアーケードまで小走りで駆け込む。屋根の下に入った途端、雨脚は急に強くなり、地面を叩く音が一気に大きくなる。

夕方の商店街は、雨の匂いと揚げ物の油の匂いが混ざり合って、どこか懐かしいような、胸の奥をくすぐるような空気を漂わせていた。

私は制服の袖についた雨粒を払ってから、ふと視線を横に向ける。

八百屋の前で、おばあさんが落としたらしい袋が地面に転がっていた。中からはリンゴがひとつ転がり出て、ころころと私の足元まで転がってくる。

私はしゃがみ込み、リンゴを拾い上げると、おばあさんに声をかけた。

「落ちちゃってますよ」

おばあさんは驚いたように目を丸くし、それからほっとしたように微笑んだ。

「あらまあ、ありがとうねえ。手が滑っちゃって」

私は袋の口を整えて渡す。おばあさんは何度も頭を下げながら去っていった。

ほんの些細なこと。誰でもやるようなこと。

私はまた雨の外を眺めながら、時間をつぶすようにスマホを取り出す。けれど、画面に集中できるほど気持ちは落ち着いていなかった。

なぜだろう。背中に、誰かの視線が刺さっているような気がした。

気のせいだと思いたかった。けれど、確かに空気が変わった。

アーケードの奥の方で、通りすがりの人たちが、何かを避けるように道を開けていく。

ざわりとした気配が、雨音とは違う重さで近づいてくる。

私はそっと顔を上げた。

黒い傘を差した男が、ゆっくりと歩いてくる。スーツ姿。背が高く、無駄のない動き。表情は読めない。けれど、周囲の空気が彼を中心に沈んでいくような、そんな圧があった。

誰も目を合わせようとしない。すれ違う人は皆、息を潜めるようにして距離を取る。

私は思わず息を呑んだ。怖い。けれど、目が離せなかった。

男は私の前を通り過ぎる……かと思った瞬間、ふと立ち止まった。

黒い傘の影から、鋭い視線がこちらに向けられる。

心臓が跳ねる。けれど、男は何も言わない。ただ、じっと私を見ていた。まるで、私の中の何かを探るように。

私は耐えきれず、視線をそらす。

すると、男はゆっくりと歩き出した。すぐ後ろを、黒い服の男たちが数人ついていく。彼らは私の横を通り過ぎるとき、ちらりとこちらを見た。その目は、冷たく、警戒しているようで、どこか怯えているようにも見えた。

やがて彼らの姿は雨の向こうに消えていった。

私は胸に手を当て、深く息を吐く。怖かった。けれど、あの男の視線は、ただの威圧とは違う何かを含んでいた気がした。

理由なんて分からない。ただ、忘れられない目だった。

雨は弱まる気配を見せず、私はしばらくその場から動けなかった。

***

翌日。学校の帰り道、私は友達と別れ、ひとりで住宅街を歩いていた。

昨日のことを思い出すたび、胸がざわつく。あの男は誰だったのか。どうして私を見たのか。考えても答えは出ない。

そんなときだった。

背後から、靴音が近づいてくる。振り返ると、見知らぬ男たちが数人、こちらを見ていた。

嫌な予感がした。足がすくむ。

逃げようとした瞬間、男たちがにやりと笑いながら近づいてくる。

「ちょっといい?」

声が低く、湿っていた。私は後ずさる。心臓が早鐘を打つ。怖い。けれど、叫ぶこともできない。

男たちが手を伸ばしてきた、その瞬間だった。

空気が変わった。昨日と同じ、あの圧。

背後から、ゆっくりとした足音が響く。男たちの表情が一瞬で凍りついた。

私は振り返る。

そこにいたのは、昨日の黒い傘の男だった。今日は傘も差していない。スーツのまま、無表情でこちらに歩いてくる。

男たちは一歩、二歩と後ずさる。彼は何も言わない。ただ、冷たい視線を向けるだけ。それだけで、男たちは青ざめ、蜘蛛の子を散らすように逃げていった。

私はその場に立ち尽くす。

男は私の前で立ち止まり、静かに言った。

「……怖がらせたな」

その声は、昨日の冷たい空気とはまるで違っていた。驚くほど柔らかく、低く、落ち着いていた。

私は震える声で言う。

「あ、あの……助けてくれて……ありがとうございます」

男はわずかに目を細めた。表情が緩んだように見えたのは、気のせいだろうか。

「この前の、おばあさんを助けたやつ。見てた」

私は息を呑む。どうしてそんなことを。

「ああいうの、できる子は少ない」

その言葉は、褒めているようで、どこか寂しげでもあった。私は胸の奥が熱くなるのを感じた。怖いはずなのに。逃げるべきなのに。なのに、彼の声は不思議と心に沁みた。

すると、後ろから黒服の男が駆け寄ってきた。

「片付きました」

その手には、赤い染みのついたハンカチが握られていた。

私は息を呑む。背筋が冷たくなる。やっぱり、この人は危険な世界の人だ。

男は私の怯えた表情に気づき、ほんの少しだけ眉を寄せた。

「……怖がらせるつもりはなかった」

その声は、先ほどよりもさらに静かで、優しかった。

私は震えながらも、はっきりと言った。

「それでも……助けてくれて、ありがとうございました」

男はしばらく私を見つめ、それからゆっくりと背を向けた。黒服たちが後に続く。

彼らの姿が角を曲がって消えるまで、私はその場から動けなかった。

怖い。けれど、胸の奥に残った温度は、恐怖だけではなかった。


*****


あの日から、私は何度も振り返る癖がついてしまった。

誰もいないはずの道でも、背後に気配を感じると胸がざわつく。怖い。けれど、それ以上に、あの男の姿が頭から離れなかった。

助けてくれたこと。

私にだけ向けられた、あの柔らかい声。

そして、部下が持っていた血のついたハンカチ。

思い出すたび、心が揺れる。

怖いのに、逃げたいのに、なぜか目をそらせない。

そんな自分が一番怖かった。

***

数日後の放課後。

私は図書室で借りた本を抱えながら、商店街へ向かって歩いていた。雨は降っていないのに、空気はどこか湿っている。胸の奥に、言葉にならないざわめきがあった。

アーケードに入ると、夕方の光が薄く差し込み、店の看板がぼんやりと照らされていた。

そのときだった。

「おい、そこの子」

背後から声がした。

振り返ると、見覚えのある黒服の男が立っていた。あのとき、血のついたハンカチを持っていた男だ。

私は思わず身を固くする。

「少し、いいか」

声は低いが、敵意は感じない。

けれど、近づいてくるだけで足がすくむ。

「……な、なんですか」

黒服の男は、私をじっと見つめたあと、短く言った。

「若頭が呼んでる」

心臓が跳ねた。

“若頭”という言葉が、あの男を指していることはすぐに分かった。

「い、今ですか……?」

「今だ」

逃げられない。

けれど、不思議と足は動いた。黒服の男の後ろをついて歩く。アーケードの奥へ、さらに奥へ。

人通りが少なくなるにつれ、空気が重くなっていく。

胸が苦しい。

でも、戻れなかった。

やがて、薄暗い路地に入ったところで、黒服の男が立ち止まった。

「若頭、連れてきました」

その声に応えるように、影の中からゆっくりと姿が現れた。

あの男だった。

スーツの上着を脱ぎ、シャツの袖をまくっている。

整った顔立ちに、薄い光が落ちる。

その美しさは、冷たさと紙一重で、思わず息を呑むほどだった。

彼が歩くだけで、周囲の空気が張り詰める。

けれど、私を見ると、彼の表情がわずかに緩んだ。

「悪いな。呼び出して」

その声は、あの日と同じ、驚くほど優しい。

私は喉が詰まり、言葉が出なかった。

「怖がらせたか」

「……すこし」

正直に言うと、彼は目を伏せ、苦笑のようなものを浮かべた。

「だろうな。俺の顔見て平気なやつなんて、そういない」

その言葉は淡々としているのに、どこか寂しげだった。

「でも、お前は逃げなかった」

私は息を呑む。

逃げなかったのは、ただ足がすくんで動けなかっただけだ。

それなのに、彼はまるで私を肯定するように言った。

「……あのときのこと、礼を言いたかった」

「え……?」

「おばあさんを助けたやつだ。ああいうの、俺の周りにはいない」

彼はゆっくりと近づいてくる。

怖い。

でも、逃げられない。

「お前みたいな子は……俺の世界にはいないんだ」

その声は、ひどく静かで、ひどく優しかった。

胸が熱くなる。

怖いのに、涙が出そうになる。

「だから、目についた。忘れられなかった」

私は言葉を失った。

彼の視線は鋭いのに、私に向けられるときだけ、どこか温度が違う。

「……あの、不良の人たちを追い払ってくれたのも……」

「ああ。あいつらはただの雑魚だ。お前に触れさせる気はなかった」

その言い方があまりにも自然で、私は胸がざわついた。

「どうして……私なんかを……?」

彼は少しだけ考えるように目を伏せ、それから言った。

「理由なんて、後からついてくるもんだ」

その言葉は曖昧なのに、妙に胸に残った。

そのときだった。

「若頭」

黒服の男が駆け寄ってきた。

表情は硬く、緊張が走っている。

「例の件、動きがありました。敵対組織が……」

言い終える前に、彼の表情が変わった。

さっきまでの柔らかさが一瞬で消え、冷徹な“処理者”の顔になる。

私は息を呑む。

空気が凍りつく。

「場所は」

「倉庫街です。すぐに向かったほうが」

「分かった」

短い言葉なのに、周囲の空気が一気に張り詰めた。

彼は私に視線を戻す。

その瞬間だけ、氷が溶けるように表情が和らいだ。

「……帰れ。危ない」

「で、でも……」

「お前に何かあったら、俺は多分、我慢できない」

その言葉は、彼の世界では致命的なほど甘かった。

胸が熱くなる。

怖いのに、涙が出そうになる。

「また……会えますか」

震える声で言うと、彼は一瞬だけ目を見開いた。

そして、背を向けたまま答えた。

「お前が望むなら、何度でも」

その声は、私にだけ向けられた、唯一の優しさだった。

彼は黒服たちを連れて歩き出す。

その背中は、冷たく、強く、そしてどこか孤独だった。

私はその場に立ち尽くし、胸に手を当てた。

怖い。

でも、それ以上に――

あの人の優しさが、忘れられなかった。


*****

若頭と別れたあの日から、胸の奥にずっと火種のようなものが残っていた。

怖い。

でも、それだけじゃない。

彼の声。

彼の目。

私にだけ向けられた、あの柔らかい温度。

思い出すたび、胸がぎゅっと締めつけられる。

私は普通の女子高生で、彼は裏社会の“若頭”。

住む世界が違う。

関わってはいけない。

頭では分かっているのに、心はどうしても彼を忘れようとしなかった。

***

その日の帰り道、空は薄い灰色に染まり、風が冷たかった。

商店街を抜け、住宅街に入るころには、胸のざわめきが強くなっていた。

何かが起きる。

そんな予感がした。

角を曲がった瞬間、黒い車が数台、路肩に停まっているのが見えた。

見慣れない車。

そして、見慣れない男たち。

胸が凍りつく。

「……っ」

逃げようとした瞬間、腕を掴まれた。

「おとなしくしろ」

低い声。

知らない顔。

けれど、その目は明らかに敵意を含んでいた。

怖い。

足が震える。

声が出ない。

「若頭に近づいたガキだろ。運が悪かったな」

その言葉で、すべてを理解した。

私が狙われた理由。

彼が言った「危ない」という言葉の意味。

怖い。

でも――

「……離して」

震えながらも、私は言った。

怖くても、ただ怯えているだけの自分でいたくなかった。

「離せって言ってるの……!」

男が苛立ったように腕を強く引いた、その瞬間だった。

空気が変わった。

背後から、鋭い気配が走る。

肌が粟立つほどの圧。

息が詰まるほどの緊張。

「……何してんだ」

その声は、低く、冷たく、氷のようだった。

振り返ると、若頭が立っていた。

黒いコートを羽織り、風に揺れる髪。

整った顔立ちに、怒りの影が落ちている。

その姿は、恐ろしいほど美しく、そして恐ろしいほど冷たかった。

男たちが一斉に青ざめる。

「わ、若頭……っ」

「離せ」

その一言で、私の腕を掴んでいた男の手が震え、力が抜けた。

私は自由になったけれど、足がすくんで動けなかった。

若頭はゆっくりと歩み寄り、私の前に立つ。

その目は、私に向けられた瞬間だけ、ほんの少しだけ柔らかくなる。

「怪我は」

「……ない、です」

声が震えた。

でも、彼の顔を見た瞬間、涙がこぼれそうになった。

怖かった。

でも、それ以上に――

彼が来てくれたことが、胸に沁みた。

若頭は私の頬に触れそうな距離まで顔を寄せ、低く言った。

「……遅くなった」

その声は、さっきまでの冷徹さとは別人のように優しかった。

胸が熱くなる。

「お前に触れたやつは……全員、後悔させる」

その言葉は甘くない。

むしろ、恐ろしい。

でも、私に向けられたその声音は、どこか温かかった。

「帰るぞ」

若頭が手を伸ばす。

私は迷った。

この手を取れば、もう戻れない気がした。

でも――

「……行きます」

震える声で言った。

怖いのに、逃げたくなかった。

若頭はわずかに目を見開き、それから静かに微笑んだ。

その笑みは、誰にも見せないものだと分かった。

***

車に乗せられ、しばらく走ると、静かな高台にある建物に着いた。

中は驚くほど整っていて、無駄がなく、清潔だった。

若頭は私をソファに座らせ、コートを脱ぎながら言った。

「怖かっただろ」

「……はい。でも」

「でも?」

「あなたが来てくれたから……大丈夫でした」

若頭は動きを止めた。

そして、ゆっくりとこちらを見る。

その目は、鋭さを失い、どこか戸惑っているようにも見えた。

「……お前は、本当に……」

言葉を探すように、彼は視線を落とした。

「俺の世界にいるべきじゃない」

「分かってます」

「巻き込みたくない」

「それも……分かってます」

「じゃあ、どうして」

その問いは、苦しげだった。

私の答えが、彼を縛ると分かっているような声だった。

私は胸に手を当て、震える息を整えた。

「……あなたが、優しかったから」

若頭の目が揺れた。

「怖い人なのに。冷たいのに。

でも、私にだけ……優しかったから」

沈黙が落ちる。

彼はゆっくりと歩み寄り、私の前に膝をついた。

「……俺は、お前を壊すかもしれない」

「壊れません」

「どうして言い切れる」

「あなたが……壊したくないって言ってくれたから」

若頭は息を呑んだ。

その表情は、初めて見るほど弱く、脆かった。

「……そんなふうに言われたの、初めてだ」

私はそっと手を伸ばし、彼の袖をつまんだ。

震える指先が、彼の温度に触れる。

「また……会えますか」

前にも聞いた言葉。

でも、今は意味が違う。

若頭は私の手を見つめ、ゆっくりとその手を包んだ。

「……お前が望むなら、何度でも」

その声は、氷が溶けるように柔らかかった。

私は涙をこぼしながら、微笑んだ。

怖い。

でも、それ以上に――

この人の優しさが、胸に沁みた。

若頭は立ち上がり、私の頭にそっと手を置いた。

「もう離さない」

その言葉は、甘くて、危険で、どうしようもなく優しかった。

私は目を閉じ、その温度を受け止めた。

触れてはいけない温度。

でも、もう離れられなかった。



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