第7話:歴史書の空白 ――未来。
歴史編纂者は、静かな部屋で年表を整理している。
窓は小さく、光は十分だが、影は濃い。
この時代の仕事は、出来事を選ぶことではなく、
出来事に名前を与えることだった。
問題の年に差しかかり、筆が止まる。
そこには、すでに罫線が引かれている。
決戦予定日。
各勢力の資料が、異様なほど揃っている日付。
戦争前夜として語られてきた日。
英雄譚が生まれるはずだった日。
世界が動く、と誰もが思っていた日。
だが、書くべき語がない。
編纂者は、一次資料を読み返す。
王国の記録には、
「当該日、軍の配置は維持された」とある。
教会の文書には、
「祈祷準備は整えられていたが、
顕現の必要は生じなかった」とある。
魔王軍の報告には、
「侵攻条件は未達のまま推移した」とある。
どれも事実だ。
どれも否定できない。
そして、どれも決戦を説明していない。
編纂者は、年表に書き始める。
――○年○月○日
王国・教会・魔王軍、
そこで、筆が止まる。
「交戦した」と書けない。
「和平した」とも書けない。
「対峙した」では弱すぎる。
「沈黙した」では主語が曖昧だ。
出来事が存在しないのではない。
言語が、届かないのだ。
この日には、
行為がない。
結果がない。
因果が、閉じていない。
あるのは、
「起きなかった」という事実だけ。
だが年表は、
「起きなかったこと」を
見出しにできない。
編纂者は、しばらく考え、
そして筆を置く。
空白のまま、次の行へ進む。
翌年の項目には、
通常通りの記述が続く。
地方行政の再編。
教義解釈の更新。
魔王軍内部文書の改訂。
世界は、何事もなかったかのように続いている。
だが、この一行だけが、
ぽっかりと抜け落ちている。
最終的に、編纂者は注釈を付す。
欄外に、小さな文字で。
――この日、決戦が起きなかった理由について、
当時の一次資料は一致していない。
それ以上は、書かれない。
理由を断定すれば、
誰かの記録を否定することになる。
否定できない以上、
空白は、最も誠実な記述だった。
こうして、歴史書には
「何も書かれていない日」が残る。
後の世の読者は、
この空白に意味を探す。
戦争が回避された証だと読む者もいる。
世界が成熟した瞬間だと解釈する者もいる。
だが、どの解釈も、
一次資料には存在しない。
ただ一つ確かなのは、
この日、世界は
「物語になること」を拒んだ、ということだけだった。
英雄も、魔王も、
結末を与えられなかった。
そしてその不在こそが、
最も正確な記録として、
空白のまま、保存された。




