第2話:動かない軍
王国軍は、動かなかった。
将軍は本陣に座し、命令書を手元に置いたまま、
一度もそれを裏返さなかった。
紙面は整っている。
部隊番号、配置、補給線、すべて記入済みだ。
ただ一行だけ、空欄がある。
――先制攻撃の理由。
それが書けない以上、命令は成立しない。
敵はいる。だが、攻撃は受けていない。
脅威は想定されているが、確認されていない。
防衛行動も同様だった。
「守るべき何かが侵されている」という報告が存在しない。
城壁は無事で、国境は静かだ。
兵を動かす根拠が、どこにもない。
将軍は剣に手を置くこともなく、
ただ命令書の白さを見つめていた。
魔王軍も、動かなかった。
前線には兵が並び、
侵攻路はすでに確保されている。
だが侵攻条件は、依然として未達のままだ。
敵対行為が観測されていない。
挑発もなく、侵犯もない。
侵攻を開始するための「引き金」が存在しない。
幹部たちは会議を重ね、
最終的に「待機」を選択する。
だが、その理由を文書に落とそうとすると、
筆が止まる。
待つ理由が、説明できないのだ。
恐れているわけではない。
準備不足でもない。
ただ、今は進む段階ではないとしか言えなかった。
教会でも、何も起きなかった。
奇跡は、祈れば起こるものではない。
必要とされた場合にのみ、発現する。
それが教義だった。
だが現時点で、
奇跡を要請すべき事態が定義できない。
災厄は起きていない。
信仰は脅かされていない。
敵も、明確な姿を取っていない。
司祭たちは祈祷堂に集まりながら、
開始の言葉を見つけられずにいた。
神に問うための問いが、
この場には存在しなかった。
こうして三勢力は、
それぞれ異なる理由で、同じ選択をしていた。
――動かない。
後にまとめられた戦史には、
この日の記述が並ぶ。
王国軍:命令なし。
魔王軍:侵攻未発動。
教会:奇跡要請なし。
そして、どの項目にも共通して、
補足欄が空白のまま残されている。
なぜ動かなかったのか。
誰も、言葉にできなかった。




