第二部:小さな不成立 副題:前提が共有されない 第1話:発動しない魔法
その村は、地図の端に小さく記される程度の場所だった。
教会との守護契約は正規のもので、署名も印章も揃っている。形式上、問題は何一つなかった。
魔物出現の報が届いたのは、昼下がりだった。
司祭は慌てる様子もなく、村外れに設けられた結界基壇へ向かう。手順は熟知している。過去にも、同じ魔法で何度も村を守ってきた。
魔法陣は正しく描かれていた。
線は途切れず、刻印の角度も規定通り。詠唱も一語一句、誤りはない。
それでも、魔法は発動しなかった。
光は集まり、術式は立ち上がる。
だが最後の段階で止まる。
結界は展開されず、魔法は「起動待機」の状態に留まり続けた。
司祭は困惑しながらも、原因を外に求めなかった。
魔法が失敗するはずがない、という前提があったからだ。
調査は、村人への聞き取りから始まる。
「守護契約は、確かに結びました」
誰もがそう答える。
だが、続く問いに対しては言葉が揃わない。
「どのように守られるのかは……」
「詳しいことは、教会が決めるものだと」
「昔からそうだったので」
契約の存在は記憶されている。
内容は、誰も知らない。
司祭はそれを問題としなかった。
守護とは有効であるものだ。理解されていようといまいと、効力は発生する――そう信じていた。
その場に立ち会っていた勇者は、黙ってやり取りを見ていた。
剣には手をかけず、司祭の詠唱にも口を挟まない。
一通りの確認が終わった後、彼は静かに問いかけた。
「その守護は、
誰が、誰を守るという理解で、共有されていますか?」
声は低く、責める調子ではなかった。
問いは、確認の形をしていた。
司祭は言葉を探した。
教義を思い出そうとし、契約文を脳裏に浮かべようとしたが、適切な答えが出てこない。
沈黙が続く。
その間、魔物は結界圏外を彷徨っていた。
村に踏み込むこともなく、かといって完全に離れるでもなく、しばらく様子をうかがった末、興味を失ったように去っていく。
被害は出なかった。
結界は最後まで発動しなかったが、必要もなかったことになる。
後日提出された報告書は簡潔だった。
結界未発動。
被害なし。
原因不明。
理由欄は空白のまま受理され、誰も差し戻さなかった。
結果が良好である以上、過程を問う必要はない。
この出来事は、特別な事件として記録されなかった。
ただ一つの例外を除いて。
歴史編纂者は、後年こう書き添えている。
このとき、魔法が失敗したのではない。
魔法が、成立しなかったのである。




