『情報の女王(クイーン・オブ・データ)』
日本経済の重鎮たちが集う夜。
「桐生グループ」と「藍川財閥」の合併記念、そして両家の婚約披露を兼ねた株主総会が、帝都ホテルの大広間で開催されていた。
シャンデリアの光が反射し、無数のグラスが煌めく。
壇上に立つのは、桐生グループ次期社長――桐生陽介。
その隣には、純白のドレスに身を包んだ人気インフルエンサー・桜井唯が寄り添っていた。
「本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます」
陽介の声はわずかに震えていた。
だがその視線は、最前列の席に座る婚約者――藍川莉央に向けられている。
漆黒のシャネルスーツ、真紅の扇子。
莉央は、誰よりも静かに、そして冷ややかに彼を見つめていた。
「しかし――皆様にお伝えしなければならない、重大な不正があります」
会場がざわめく。
「藍川莉央。あなたは、桐生グループの機密情報を流出させ、さらに株価操作のためのインサイダー取引に関与していた。その証拠を、今この場でお見せします」
スクリーンに映し出されたのは、メールのログ、資金移動のグラフ。
そこには確かに「Aikawa Rio」の名が記されていた。
「彼女の不正を防いでくれたのが、この桜井唯さんです!」
陽介は唯の肩を抱き寄せる。
「唯さんの情報力と影響力がなければ、我々は崩壊していた。彼女こそ、このグループ、いや日本経済を救った“女神”だ!」
涙ぐむ唯。その姿に、観客席の空気が一気に陽介側へ傾いた。
「藍川莉央。弁明はありますか?」
莉央は静かに立ち上がり、扇子を閉じた。
唇にわずかな笑みを浮かべる。
「弁明、ですか。――陽介さん」
冷徹な声が響く。
「この程度の“情報戦”で私を陥れようとするなんて。……あなたの判断力の低下、想定以上ですわね」
「なにを……反省の色もないのか!」
「反省? なぜ私が? ――陽介さん。あなたは今、ご自身の“命綱”を、自らの手で断ち切りました」
「……もういい。藍川莉央。君との婚約は破棄だ! 今この場をもって、桐生グループから追放する!」
警備員が動き出す。だが莉央は一歩も退かない。
「ありがとうございます、陽介さん。ようやくこの“茶番劇”から解放されます」
真紅の扇子が、ゆっくりと彼女の唇をなぞる。
「どうぞ、お二人で“偽りの蜜月”をお楽しみください。それがどんな代償を生むのか――近いうちに知ることになりますわ」
そう言って、莉央は優雅に一礼し、静かに退場した。
――地方都市、藍川信託銀行・資料整理課。
「藍川さん、今日はお茶出しと、この資料整理、お願いします」
課長の軽い声に、莉央は無言でうなずいた。
段ボールの中には、埃をかぶった古い帳簿が山のように積まれている。
スーツを汚すことも厭わず、彼女はしゃがみこんだ。
そして、机の引き出しに社用携帯とセキュリティカードをしまう。
数秒の沈黙のあと――。
「……ふふっ……あはははは……!」
乾いた笑いが部屋中に響く。
「想定通り。これで表向きの“監視”は解除されましたわね」
莉央はスーツの裏地から、極薄の通信イヤピースを取り出し、耳に装着した。
『――莉央か。ご苦労だった』
低い声。藍川財閥総帥、藍川源一郎だ。
「ええ。桐生陽介は完全に桜井唯の支配下です。“裏金データ”は、唯の背後にいる勢力に狙われています」
『うむ。計画の次の段階に移れ』
藍川財閥――表の顔は財閥、裏の顔は国家経済を陰で操る「情報管理組織」。
その任務は、戦後から続く“禁断の裏金”を監視し、国家崩壊を防ぐこと。
莉央は、幼少からその使命を背負っていた。
資料室の奥の配線図を広げる。
そこには、誰も知らない“旧回線”の経路が記されている。
「……やはり。本社メインサーバーに直結している」
埃まみれのケーブルをノートPCに接続する。画面が静かに光を放った。
「“情報浄化プログラム・フェンリル”。起動準備完了」
『莉央、これを実行すれば後戻りはできん』
「覚悟の上です。“情報”は浄化されなければ、腐敗を生む。――父上もそうお考えでしょう?」
画面に並ぶコード群。
莉央の指が、滑るようにキーボードを叩く。
その頃、桐生グループ本社。
「社長! 海外サーバーから不審なアクセスが!」
「何だと!? すぐに遮断しろ!」
陽介は焦っていた。莉央を追放してから、グループの情報統制は完全に機能を失っていた。
「陽介さん、これは莉央さんの仕業よ!」
唯が涙ぐみながら彼に縋る。
「でも大丈夫。私がメディアを動かして、世論を鎮めてみせる!」
そのとき、会議室の扉が静かに開いた。
「――お久しぶりですな、陽介君」
藍川源一郎が現れた。
その目には、静かな怒りと哀れみが混じっていた。
「桜井唯。あなたは“情報工作員”ですね」
「な……何を言うの?」唯が震える。
「あなたのブレスレット。その中のチップはデータ傍受装置です」
「そんな……嘘よ!」
「陽介君。君は“裏金データ”を守る最後の盾を、自ら壊したのです」
「……帰ってくれ! もう二度と娘の名前を出すな!」
源一郎は黙って一礼し、部屋を去った。その背中に、陽介は何も言えなかった。
翌朝。
日本中のニュースが一斉に報じた。
――〈桐生グループ、戦後から続く巨額の裏金疑惑〉。
「社長! 唯さんのIDでデータが国外に送信されています!」
「唯! まさか……!」
「違うの! これは、世論を操作して乗り越えるために……!」
「黙れ! 貴様が、情報を盗んでいたんだろう!」
その瞬間、古い非常回線が自動で起動した。スクリーンに英字が走る。
LOGIN: RIO_AIKAWA
INITIATING PROGRAM: FENRIR
WARNING: COMPLETE DATA PURGE
「莉央……!」
陽介が呟く。
「お久しぶりですね、陽介さん。桜井唯さん」
スピーカーから、莉央の冷たい声が響く。
「あなた方が触れようとしている“裏金データ”。すべて、今この瞬間に消去させていただきます」
「やめて! そんなことしたら、私……!」
「ごめんなさいね。あなたの“切り札”は、ここで無効化されます」
PURGING... 10%... 50%... 99%... COMPLETE.
すべてのデータが消えた。
唯は崩れ落ち、陽介は呆然と画面を見つめる。
「莉央……君は、私を救ったのか……?」
陽介は、震える声で尋ねた。
「違いますわ。――私は、“この国”を救ったのです」
「個人の感情で経済を動かす者に、舵取りはできません。情報を制する者こそが、この国を導くのです」
静寂。彼女の声だけが、システム室に響いた。
「桐生陽介さん。あなたには経営権を放棄していただきます。それが、“情報戦”に敗れた者の責任です」
数週間後。
藍川莉央は、藍川財閥総帥代行、桐生グループ特別統括責任者に就任した。
漆黒のスーツに身を包み、東京の夜明けを見下ろす。
「報告いたします。桐生陽介氏は病気療養として退任。桜井唯氏は国外逃亡しましたが、全ネットワークから遮断済みです」
「そう……」莉央は窓辺に視線を向けた。
「――彼が、私の“愛”の形に気づく日は来るでしょうか」
秘書は答えなかった。
「もう“愛”で動くことはありません。私が信じるのは、情報と合理性だけ」
朝日が東京のビル群を照らしはじめる。
「悪役にされるくらいなら、自分から“悪役”を名乗る方が性に合っていますわ」
かつて“悪女”と呼ばれた令嬢は、今、この国の“情報の女王”として、新しい経済の夜明けを見つめていた。
✦完✦




