第1話 本物
王都の演武場には、今日も華やかな歓声が響いていた。
中央に立つのは、公爵家の一人娘――ジュリエット・フォン・グランツ。
銀糸のような髪を揺らし、白磁の肌に微笑みを浮かべるその姿は、
まさに絵画から抜け出したような美貌である。
「ふふ……今日も私が勝ってしまうのかしら」
彼女は細い腕を軽く打ち下ろす。
対峙するのは王都騎士団の若き精鋭。
だが、彼は剣を構えたまま、わざとらしく転んだ。
「ぐあっ……!さすがはジュリエット様……!」
観客席からは拍手喝采。
ジュリエットは胸を張り、勝利の余韻に酔いしれる。
(私は細身で見目も良い。だからこそ、誰もが油断する。だが実際は――最強の拳を秘めている!)
彼女の心の中は、自信に満ちあふれていた。
相手が公爵家に気を使って負けているなど、露ほども疑っていない。
「ジュリエット様、今日も見事な勝利でございます!」
「やはり王国最強はお嬢様だ!」
取り巻きたちが口々に称賛を送る。
彼らの笑顔の裏に、冷や汗がにじんでいることに、ジュリエットは気付かない。
その日の夜。
王宮の広間では、王子主催の舞踏会が開かれていた。
ジュリエットは勝利の余韻を胸に、優雅に舞い踊る。
「殿下、今日も私は勝ちましたわ。やはり私こそが、この国で最も強き者……」
王子は曖昧に笑い、グラスを傾ける。
彼もまた、真実を知っていた。
ジュリエットの拳は、実際には羽根のように軽い。
だが、彼女の誇りを傷つけぬよう、誰も真実を口にしない。
「ジュリエット嬢、次の模擬戦は辺境から来る令嬢が相手だとか」
「辺境?ふふ、田舎娘に私が負けるとでも?」
ジュリエットは笑みを浮かべる。
その笑みは、無邪気で、そして残酷なほどに無知だった。
翌日。
王都の演武場は、これまでにないほどの人だかりで埋め尽くされていた。
理由はただ一つ――辺境の男爵令嬢が挑戦者として現れるからだ。
「……あれが?」
「で、でかい……!」
観客のざわめきが広がる。
そこに現れたのは、身長二メートルを超える巨躯の少女。
全身を覆う筋肉は鎧のように隆起し、顔は鬼神を思わせる厳つさ。
だが、その瞳は澄み切っており、どこか真っ直ぐな誠実さを宿していた。
彼女の名は――アグネス・ド・バルハルト。
辺境の男爵令嬢にして、真の強者。
「まあ……なんて野蛮なお姿。あのような方が令嬢だなんて」
ジュリエットは鼻で笑った。
「でも、ちょうどいいわ。私が“真の強さ”というものを教えてあげる」
観客席からは「いや、あれは無理だろ……」という小声が漏れる。
だがジュリエットは気付かない。
彼女の頭の中では、すでに勝利のシナリオが完成していた。
(可憐な私が、巨人のような娘を打ち倒す――見た目に惑わされぬ真の強さというものを民にも見せてあげる。皆も、殿下もさらに私を認めてくださるわ)
ジュリエットは拳を握りしめ、堂々と前に出る。
その細腕も体躯も、陽光に透けるかのように華奢だった。
アグネスは静かに相手を見据えた。
彼女にとって、戦いとは誇りであり、真実である。
忖度も虚飾もない。
ただ、強い者が勝ち、弱い者が負ける――それだけだ。
「準備はいいか?」
低く響く声に、ジュリエットは笑みを返す。
「ええ、もちろん。あなたには悪いけれど、本当の強さというものを教えてあげるわ」
観客席の空気が凍りつく。
誰もが気付きつつある。この幻想は、今日で終わるのだと。
合図の鐘が鳴り響く。
ジュリエットは華麗にステップを踏み、拳を突き出した。
「はああっ!」
その拳は、アグネスの胸板に触れる前に止まった。
いや――止められたのだ。アグネスが軽く指先で受け止めたのである。
「……軽いな」
次の瞬間、ジュリエットの身体は宙を舞い、地面に転がっていた。
観客席から、どよめきと悲鳴が同時に上がる。
ジュリエットは呆然と空を見上げた。
自分の拳が、まるで紙切れのように弾かれたことを理解できない。
(な、なに……なにがどうなってるの?私の拳が届かなかった!?)
その心の声は、誰にも届かない。
ただ一つ確かなのは……、
王都を覆っていた幻想が、いま粉々に砕け散ったということだった。




