悪役令嬢の主菜 - 嫌な気分は美味しい食べ物で上書きします!
転載はお断りします。
198964-3
ここは、とある世界のとある国。
伯爵家令嬢アンネリーチェは十七歳、貴族の通う学園を今日、卒業する。
彼女は、市井で流行りの娯楽小説に准えられ、学園で婚約者たちから悪役令嬢と揶揄されていた。
小説では、婚約している男女にあって、男性婚約者が別の女性に心を移していく、その燃え上がる恋路を阻む女性婚約者を悪役令嬢と呼ぶ。
一人娘のアンネリーチェには婿となる婚約者がいた。
家格が上の侯爵家の三男。家を継げないので成人すれば独立するか、どこぞに婿入りするのが普通で、そうした事情から商売の成功で勢いのある伯爵家と婚約が結ばれた。レストラン「リーチェ」は王都の貴族にも高評で侯爵家も安心というものだ。
十二歳で婚約し、十四歳で学園に入るまでは良好な関係で来ていたのだが、婚約者が学園で他の令嬢に心移りしてしまった。
アンネリーチェは婚約者を伯爵家の存続に必要な人物と見ていたため、恋愛の執着はなかった。伯爵家を継ぐのは自分であり婚約者ではないと婚約の当初から自覚していた。
だから貴族家当主として牽引するために学び、研鑽を積んできている。
アンネリーチェからの距離感は、婚約者にしてみれば扱いが軽いと不満に感じたのだろう。だがそれは被害妄想というもので、丁重で礼節ある関係だったのだが、すり寄った少女に籠絡され堕落を選んだ自覚もなかった。
自分を褒め、慰撫し、持ち上げ煽ててくれる存在に傾倒し、自分からアンネリーチェとの関係を破壊していった。
アンネリーチェたちの関係悪化は、学園に通う令嬢令息たちから見て責任の所在は明白であった。婚約者が高位のため諫めるにも強く出られなかったが、多数がアンネリーチェに同情的で、彼女に婚約者たちの悪だくみを伝えるのは当然だった。
卒業パーティーの三週間前。
「婚約者が卒業パーティーで婚約破棄の暴挙に出る」
それを聞かされたアンネリーチェは取り乱すことなく、静かに友人に感謝を伝えたという。
そこからの動きは迅速だった。
その時への対抗策として、隣国出身の母に協力を仰ぎ、経営するレストランを通じて準備を開始した。
しかし、距離の離れた隣国との調整、諸々に思いのほか時間を要したために対策の準備がぎりぎりとなってしまっていた。
「‥‥‥もう時間が。間に合わないの?」
パーティー会場へ向かう時間が来てしまったが、無情にも準備完了の報せはまだ、来ない。
「お嬢様、何があろうとわたくしがお支えいたします」
「‥‥‥ブリギッテ‥‥ありがと。そうね、負けないわ!」
忠心あふれる侍女を伴い、憂鬱な気分を淑女の微笑みで隠して馬車で会場へ向かう。
華やかに彩られた装飾、煌びやかな照明、優雅な調べの流れるパーティー会場。
彩り豊かな料理が並び、令嬢令息たちは気の合う者で集まり卒業を祝い、惜別の名残を惜しむ。
だが、その和やかさを踏み躙って声を張り上げる男がいた。
「アンネリーチェ! 貴様のような悪女との婚約は今、この時をもって破棄する」
会場の中心で暴言を叫ぶ最低男、その腕に胸を押し当て縋り付く少女、そして取り巻き二人。
断罪の叫びに音楽は止まり、卒業パーティー会場は静まり返った。
「イデオット様、わたし、苛められてこわかったんですぅ」
「貴様はこのファート男爵令嬢にあろうことか‥‥」
婚約者の罵声が続く最中、会場の大扉が開かれた。
「皆様ぁ、新しい料理をお持ちいたしました。ぜひご賞味くださいぃ」
何事かと見れば、複数の給仕係が新たな料理を乗せたワゴンを押してきている。
それを視界の端に捉えたアンネリーチェ。
「あれは? ああぁ、来た!」
もう、目は今、運ばれてきた料理にくぎ付けだ。
暴力的なまでに濃厚な香りを振りまく、香辛料とタレで焼き上げられた、これまで見たことのない大きな塊の、お肉。
引力がすごくて顔がそっち向いてしまうのを抗えない。
「貴様ぁ、聞いているのか?」
「え? あ、破棄は了承よ。書類は送るわ」
さらりと言い捨てながらスススと物静かに、しかし幾分か早足でワゴンに近づき、給仕係へ問う。固唾をのんで見守る周囲の令嬢令息たち。
「あ、おいっ逃げるな」
「こちらは今、隣国で流行の料理ではなくて? 間に合ったのね?」
「はい。さすがお目が高くいらっしゃいますね。今夜のために隣国から特別に料理人を招いてご指導をいただいたのですよ。いやぁ~調理方法が独特で。火加減が難しくて時間が掛かりました」
「おいぃっ!」
「さささ、温かいうちにどうぞっ、お召し上がりください」
にこにこ笑顔の給仕係に取り分けてもらった一切れを侍女から受け取り、口にしたアンネリーチェは、頬に手を添えゆるりと会場の皆へ顔を向けた。
「っ! んん~っ! 蕩けてしまいそう」
アンネリーチェの恍惚とした表情が美味しくてたまらないと真実を伝えてくる。
給仕係にさっと皿を差し出す侍女ブリギッテ。
「おかわりを所望します。多めに」
漂う香りとアンネリーチェの試食で理解した令嬢令息たち。絶対美味しいヤツだコレ!
「なに食べてんだ、やめろ!」
我さきとばかりに空いているワゴンへ急ぐ。誰か叫んでいるが知らん。
「も少し厚く切って」「その香辛料が多めのとこ。そうそうそ、あとね」「油少な目で」
みんな好き放題言ってくる。対応する給仕係は大忙しである。
会場の複数個所で料理に舌鼓を打つ幸せそうな令嬢令息たち。
あぁ、素敵な卒業パーティー、一生の思い出に残る美味しさ。
皆が笑顔になっていく。
「ちょっ、お前「シャーン」」
楽団バンマス、遮ったシンバル奏者にサムズアップ、華やかな響きを切っ掛けに途切れていた音楽を再開する。楽団員も皆、笑顔だ。
楽団の奏でる軽快な調べに乗って皆の歓談が再開されていく。
美味しいわ 美味いね いいのかしら? これでいいのだ、美味しいは正義!
でも、あれぇ? なにかさっき、忘れたくても思い出せない、そんな気がしないでもない誰かの‥‥‥、まぁいいやな。
そんな過る思いも続いてやってきたパーティー締め括りのデザートでもう駄目だった。
美味を体現した甘味に脳が降伏、お口が口福、汚れた記憶は綺麗さっぱり驚きの白さに消え去った。
「ビバ! 卒業パーティー最高!」「また食べる絶対」「料理人、優勝!」
「あぁ口福なまま眠りたい」「いや歯磨けよ」「風呂入れ」「また来週!」
楽団のアップテンポな演奏に送られ、口々に今日の料理を褒めながら笑顔でパーティー会場を後にする卒業生たち。
もはや無粋な一団のことは誰も気にも留めていなかった。
卒業生がほぼ退出した後、パーティー開催委員が会場撤収の声をかけていく。
「楽団の皆様、素敵な演奏をありがとうございました。別室に労いの御席を用意しておりますので、どうぞ」
「おぉ~、ありがたい」「旨そうだったもんなぁ」
楽団員が移動した後には蛇の抜け殻のごとき元婚約者たちが残されていた。
「あー、あなた方早く退出してくださいね。じゃテーブルは脚畳んで三段積みでステージ下の奥に入れて。おーい、そっちから壁の照明切ってってぇ」
へろへろの彼らは重い足取りで退出していった。
「‥‥‥食べて‥‥ない‥‥‥料理‥‥‥なにも‥‥」
会場に来た時の気鬱はどこへやら、晴々とした笑顔のアンネリーチェは帰りの馬車で侍女と話していた。
「んふふふ、嫌な気分は美味しい食べ物で上書きするのが一番ね」
「はい。皆様、ご満足されていらっしゃいました」
「今日のメニューは王都直営店から順次展開して、次は‥‥‥」
「え? 彼ら? もちろん出禁よ、全店舗!」
悪役令嬢の逆襲はこれからが本番。まだ前菜が終わったところだ。
本作、これにて終幕です。
読んでいただきありがとうございました。




