第三章 歌姫ナイチンゲール
メーヴェと言う医師の診断の結果、どうやら一平の肋骨の一本は骨折しているらしいとわかった。どうりで痛むはずだ。内臓には異常はなさそうだが、胃には新しい治療痕があるという。
このムラーラの医師の診察方法は変わっていた。地上のような精密機械や医療器具などはもちろんない。幹部に手を翳し、目を閉じて瞑想する。時間をかけて丁寧に全身を調べると、どこが悪いかわかるのだ。
気功術にこういうのがあった。悪い部分から出ている何かが施術者の手に熱や痛みをもたらし、それで悪いところがわかるのだというものだ。
これも透視とかいう超能力の一種なのかな、と一平は感心して見ていた。
口の中の傷は肉眼で見た。薬はつけなかった。心配せずともすぐ治ると放置された。存外冷たいものだと思ったが、そんなものかもしれない。
頭の方は脳震盪だけで回復していて問題はない。
肋骨の骨折は安静にしているしかないらしい。少々時間がかかるが我慢しろと言われた。ちょっと泳ごうとしただけでも痛みが来るのでおとなしく言うことを聞いていることにする。ますますもって兄妹だと偽っても同じ部屋にしてもらってよかったと思う。
そのパールは、お医師がやってきた時に目を覚ましてからずっとメーヴェのすることを見つめていた。パールの施術は直接手で触れるか歌を歌って聞かせるしかない。どこが悪いかわかるなど、経験したことがない。
診察が終わるのを待ち兼ねてパールが問い掛ける。
「お医師さまはどうしてお医師になったの?どうやったらそんなことがわかるようになるの?」
見るからに幼いパールが素朴な疑問を投げ掛けてきたことにメーヴェはまんざらでもない様子で答えた。
「ナイチンゲールを知っているかい?」
「ううん」
「そうか。君はここの者ではなかったのだね。いずれ話してあげよう。この村に伝わるナイチンゲールの逸話を。私はその話に惹かれたのさ。自らの生まれ持った癒しの力で献身的に人々に尽くした天使のような女性に憧れてね。医術に携わっていれば、いつかその人に会えるような気がしたし、お医師になれば一歩でも二歩でも近づけると思ったのだ」
「なんか、ミラ姉さんがそんな話してた」
「そうかね…。それで私は修行に入った。生まれながらの力はなかったが、訓練次第で誰にでも患部を見る力は身に付くものなのだよ」
「パールにもできる?」
意外な質問にメーヴェは目を丸くした。誰にでもできるとは言ったが、決して生半可な修行ではなかったのだ。こんな小さな子が興味を持つとは思ってもみなかった。メーヴェは優しく、しかし釘を刺すような気持ちを込めて答えた。
「君に忍耐力と、目的をやり遂げようという意気込みがありさえすればね」
人の生命を扱う仕事だ。半端な気持ちでは困るという思いは強くある。
「教えてくれる?」
無邪気にパールは頼んだ。
またメーヴェは驚く。
「君にかい?君はまだ子どもだろう?幼魚じゃないか。成人してからならいつだって歓迎だが」
「でも、今教えて欲しいの」
珍しく真剣に食い下がった。
「……」
「パール、もっと治せるようになりたいの。一平ちゃん、もっと助けたいの」
「そんなに急がなくてもいいだろう?」
「急ぐの。だってパールたち…一平ちゃん治ったら旅に戻るんだもん。トリトニアは遠いの。今までだって一平ちゃん、いっぱい怪我したの。パールのせいで。だからパール、もっと一平ちゃんの役に立ちたい」
メーヴェとパールのやりとりを黙って見ていた一平だったが、パールの気持ちを察して胸が熱くなった。パールの一言一言が、谺のように頭の中に響いている。パールが一平の事だけを考えて、自ら努力し、向上しようとしている。そのことが言葉では言い表せないような幸福感を伴って迫ってきた。
「一平ちゃんと言うのはこの少年のことかね?兄さんではなかったのか?」
「あの…ずっと、そう…呼んでるの…」
兄妹ではないとばれてはいけないが、嘘もつきたくない。そうすると、こんな言い方になってしまった。
「兄さん思いなのは結構だが、どうかねえ。…君はまた旅に出ると言ったが、この少年の怪我が治るまで、なんていう短い期間で身に付くことではないよ」
「でも…やってみるだけは構わないでしょ?パール、頑張るから教えてください」
初めて丁寧語になった。真剣味が倍増して聞こえる。
「代わりにメーヴェも教えてもらうといい。癒しの方法をな」
突然ミラが現れて言った。
いや、突然現れたわけではない。メーヴェを案内してこの部屋まで来ていたのだが、女性なので、診察中は遠慮して壁の向こうに控えていたのだ。面白い成り行きになったと、思わず口を出してしまったらしい。
「ミラ様…。なんと仰せに?この少女は癒しの術を心得ているのですか?」
自分の耳にした言葉が信じられず、メーヴェは目を白黒させる。
(そんなはずは…)
「その子はおまえの憧れの人かも知れんぞ」
「は…⁈」
信じられん。こんな偶然が、いや、僥倖があってよいものだろうか、と混乱しているのが痛いほどわかる。見ていてかわいそうなくらいメーヴェは動揺し、自分を保つのに力を尽くしていた。
「…パールとやら…。君は…本当に…ナイチンゲールなのか?癒しの力を持つ…」
「ナイチンゲールじゃないよ。パールだってば」
「あ…あ…そうだね。パールだ…」
メーヴェがどぎまぎしているのがおかしくてミラが忍び笑いを漏らす。ミラが連れてきたムラーラ一のお医師という触れ込みのこの医師は、歳の頃なら三十歳くらいだろうか。ミラより多少年上に見えるが、職業柄というか、知的な部分を生業としているせいか、実際より年上に見えているかもしれない。ひょっとしたらミラと同じくらいの年回りなのではないかと一平は思った。ぞんざいな口の利き方をするミラではあっても、このミラなら目上の人には礼儀正しい口を利くのではないかという気がしたのである。
「本当らしいぞ。私はさっき、この目で見た」ミラが笑いながら助け舟を出した。「さっき治癒痕があると言ったな。それは多分、この子のしたことだろうよ」
メーヴェはますます目を丸くした。それならなぜここへ来る前に教えてくれなかった、とミラに食ってかかった。
「…久しぶりだな。おまえのそんな取り乱した様子は。幼魚の頃はいつだって私の後にくっついてピーピーと…」
「ミラ‼︎」
その先を言わせまいとメーヴェは真っ赤になって怒鳴った。患者の前だということをすっかり忘れている。
抗議にあっているミラの方は、それも楽しくて仕方がないらしい。どうやら二人が昔馴染みであるのは間違いなさそうだった。先ほどは「ミラ様」と遜っていたのに、一皮剥ければ呼び捨てが罷り通る、そんな仲だ。
「昔の話だろうが!」
「変わらんさ。いつになっても」
誰が見たって痴話喧嘩である。子どもならいつまでも終わらないが、そこはさすがに成人して久しい大人の二人である。一平たち子どもの前だと気がついて、しぶしぶ言葉を戦わせるのは控えた。
平静を装い、メーヴェがコホンと咳払いをした。
「…話を戻そう。…パール、君の力のことだ。ミラの言うことに間違いがないのなら、こちらの方からお願いしたい。どのように治療しているのか教えてもらえないか。そしてできるなら、困っている怪我人たちのために施術をしてほしい」
メーヴェはミラと全く同じことを申し出た。
よほどこの二人の志向が似通っているのか、それほど現在のムラーラの状況が逼迫しているのかどちらかだ。
元々が攻撃的ではなく心優しいのが一平の本分だ。人が困っていれば手を差し伸べるのに異論があろうはずがない。今回強情を張っているのは、単に自分たち二人、特にパール―に対して仕掛けられた行為を許せず、拘っているからに他ならない。今目の前にいる二人のムー一族にも、怪我に苦しんでいる人々にも、何ら敵意のあるものではない。となれば、どうしても心が揺らいでしまう。
「しかし…」
「いいよ」
一平とパールの二人が同時に口を開いた。
助力を請われている方のパールがすんなり「いいよ」などと言ってしまった。
「ね。一平ちゃん」
屈託のない笑顔でパールは一平に同意を求めてきた。
「う…」
一平は口ごもる。
「どうせパール、することないし…」
パールがその気なのなら、これ以上反対するのは無意味かもしれない。一平は黙って引き下がった。
喜んだのはムラーラの二人だ。ミラは早速手配を整えようと飛び出して行ったし、メーヴェは診察の勉強を見てやるからいついつにこれこれにおいでと、細かな打ち合わせをして帰って行った。
一平はしばらく動き回らないようにと言い置かれた。
パールを看護というか、見張りにつけると言う。
パールに何かあれば、どんなに弱った状態でも一平が動き出すであろうことをミラは見抜いていたし、メーヴェはメーヴェで、パールの看護する様子を見たいと思っていたのである。
不自由ではあったが、楽しくもあった。
パールがそばにいるのなら、牢獄であろうと一平には天国と同じだったからだ。
毎日診察に来るメーヴェの話はためになったし、時折様子を見にやってくるミラの話は面白かった。二人とも一平の知らないことを惜しみなく話してくれる。パール以外の海人に会い、海人の住まいでの暮らしぶりを見る。その経験は、一平の頭に未だ見ぬ故郷の有り様を描かせる。トリトニアにもこんな人々がいてこんな暮らしをして、こんな人生を送っているのだろうかと、想像を掻き立てられる。
彼らの話の中で興味を惹かれたことの一つに例のナイチンゲールのことがあった。
ムラーラに伝わる逸話は次のようなものだった。
百五十年の昔、このムラーラは二つの国に分かれていた。
二つの国、ムーリアとラーラルーは元々は同じ祖先を持つものの、互いに仲が悪く、紛争が絶えなかった。些細なことの積み重ねで全面戦争にまで発展したその頃、一人の女性がラーラルーに出現する。その女性は、ラーラルーの慰問に携わっていた。戦地の兵を労う舞踊団の中で楽士の役割を担っていた。舞いのために曲を奏でたり、一人朗々と心安らげる曲を歌い上げたりして、兵士たちの心を慰めるのを生業としていた。
不思議なことに彼女の歌には誰もが魅せられてしまい、人気は高まる一方だった。しかも彼女の歌を聴いた後は、例外なく病人は回復し、元気になってゆくのである。いつしか彼女は歌姫ナイチンゲールと呼ばれるようになり、その名は瞬く間に各地へと広まっていった。
彼女の不思議な力は歌だけではない。その手を通して何が伝わってくるのか、ナイチンゲールが触れると、その場所がみるみる良くなっていくのである。そのおかげでラーラルーの兵士たちは、不死鳥のごとく次々と蘇ってはまた戦地に赴いて行くことができるようになり、戦況は圧倒的にラーラルーの優勢で運ぶことになった。
ある時、前線近くまで兵士の手当てに行ったナイチンゲールは、一人の若者と出会う。ムーリアの兵士であった若者と、まだ成人して間もないナイチンゲールは、互いに一目で恋に落ちた。
だが、二人は敵同士。立ちはだかる壁は無常に大きい。それでも恋は燃え上がる。秘密の逢引きを重ねるうちに、ついに二人の仲は若者の上官の知るところとなり、ナイチンゲールはムーリアの手に囚われる。
彼女が噂のナイチンゲール、癒しの歌姫だと知るや、ムーリアは、兵士の治療のために軟禁状態で彼女を使役した。軍規を犯して糾弾される若者を助けたい一心で、ナイチンゲールはムーリアのために働き続ける。
戦況は次第に逆転する。それと同時に、ナイチンゲールは過労が祟って弱ってゆく。他人は治せても自分の事は治せないらしい。後に最終決戦と呼ばれるようになるその日、ナイチンゲールの目の前で最愛の若者が壮絶な戦死を遂げる。
計り知れない悲しみとやり場のない怒りに身を任せた彼女は、自分の一生分の思いを込めて、戦場の真ん中で歌い始める。
戦いの残酷さ、啀み合うことの虚しさ、愛する人を失う戦争がどんなに無意味であるかを問いかけ、訴えた。その根底にある優しい心、生きとし生けるものを全て大切に思う心が、ナイチンゲールの歌声に乗り、両国の兵士たちの心を変化させていく。司令官たちも、国の長たちも例外ではなかった。
そしてムーリアとラーラルーは和解し、併合する。 名をムラーラと改めて。
「ナイチンゲールはどうなったの?」
一平の問いにメーヴェは首を横に振った。
「何処ともなく姿を消したそうだ。どこかへ立ち去ったのか、名を変え、姿を変えて一国民としてひっそり暮らしたのか、あるいは力尽きて海の泡となり消えたのか、誰にもわからない」
「…かわいそう…」
パールが呟いた。
そうだね、という目でメーヴェは優しくパールを見下ろした。
「だから…パールのことをナイチンゲールだと言ったんですね」
メーヴェの話の中の歌姫は、まるでパールのことのようだった。力の差こそあれ、パールの持つ力は間違いなくナイチンゲールの持つものと同種のものらしい。
「この物語を語り部に聞いたのは、まだ七つか八つの頃だった。僕は動き回るより瞑想する方が好きな子どもだったからね。語り部の元にはよく通っていた。中でもこの話には胸を打たれたんだ。僕も大きくなったら人のためになる仕事をしたいと思った。ミラのように剣を振り回す姿はどうしても想像できなかったな」
「その頃からミラはああなんですか?」
あの逞しさはちょっとやそっとでは身に付くものではないと窺える。きっと子どもの頃からお転婆だったのだろう。
「ああ。数ヶ月しか違わないんだが、ちょっと年上だと思ってずいぶん僕を顎で使ってくれたよ。初めて会った時から姉さん気取りさ。ちっとも抜けない。人間、最初の印象っていうのは尾を引くものだ」
愚痴とも諦めともつかぬ口調だった。
「剣を仕込まれたのは生まれが生まれだから防衛上仕方がないことなんだが、思った以上に性に合っていたんだな、これが。めきめき腕を上げてしまって、僕なんか足元にも及ばない。使い走りもさせられたが、その分庇ってもらったよ。僕は見ての通り軟弱な子だったからね。根が優しいだけに放って置けなかったんだろう」
優しい、という言い方に、メーヴェのミラに対する心が全て現れているような気がした。
「メーヴェさん、ミラが好きなの?」
不意に問われてメーヴェは固まった。
問いを発した少年を瞬きもせずに見つめた。
どうかしてしまったのかと思うほど長い時間に思えて、一平はしまったと思う。口にするべきことではなかったらしい。まさかこんなに驚くとは。
けれど撤回もできない。一度口に出してしまったことは。
一平は仕方なしに続けた。
「好き…なんだね…」
念を押されてメーヴェは我に返った。
目の色が正気に戻った。
そして目元を転ばす。
「…ミラには、黙っていてくれよな…」
「ミラは知らないの?」
思わず尋ねる。
「ああ。多分ね」
「どうして言わないのさ。お似合いなのに」
男勝りのミラと物静かなメーヴェ。性格は一般的な男女の組み合わせとは逆だが、だからこそ釣り合いがとれていると一平は感じていた。
「ミラだって、メーヴェさんのこと嫌いじゃないよ、きっと」
「…もちろん、そうだろうさ。親友だからな。だけど、それだけじゃだめなのさ」
「前に試みて、だめだったの?」
メーヴェの影のある言い方はそんな気を起こさせる。
「いや、そうじゃない…」
じゃあ、何?と言いさすには壁があった。言いたくないのだろうということは態度でわかる。そもそも一平はこんな恋の悩みのようなものを相談に乗れるような器ではない。若輩のこんな真似は差し出口に他ならない。
「ミラには幸せになってほしい。誰よりもね。… 二十九もなるのに結婚話を蹴ってばかりいるのでそれも心配なんだ」
静かに話し始めたメーヴェの言葉を、変なの、と思いながら聞いていた。
それはミラに結婚というもの自体をする意思がないのか、密かに思う人がいるのかのいずれかではないのかと思ったのである。その対象がメーヴェなのではないかという疑念を一平は拭い去ることができない。
「あなたが結婚してあげればいいのに」
「だから、それはありえないんだよ」
「……」
「そんなこと言ってみろ。張り倒されるか軽蔑されるのがオチだ」
「そうかなぁ…」
「メーヴェさん、ミラ姉さんが怖いんだ」
パールがパッと閃いたように言う。
パールは時々そこにいないかのようにおとなしくなるので、存在を忘れることがある。今もそうだった。確かに初めは一平と二人でメーヴェの話を聞いていたのだ。そのことを失念していた二人はぱっとパールを振り返った。
メーヴェが面白そうに答える。
「…そうさ。よく、わかったね」
「……」
違うだろ、と一平は言いたいが、メーヴェはバールの一言に助けられたようだ。そういうことにして、この話をおしまいにしてしまった。




