第十八章 鎮魂の輝き
「行くぞ、メーヴェ」
ミラの合図で二人は飛び出した。
ナムルの誘き出しは成功だ。神獣はやっと姿を見せた。尾鰭の近くにミラは自分の大剣を突き刺した。と同時にメーヴェに向かって叫ぶ。
「堪えろ!この剣に掴まるんだ」
刺さった刺激に神獣は身悶えするはずである。振りほどかれないようにメーヴェは必死に手を握った。
僅かに及ばず、すり抜けそうになるのをミラが食い止める。メーヴェの手首をがしっと掴んで引き寄せる。
「全く…非力だな…男のくせに…」
食いしばった唇から罵倒の言葉が漏れるが悪意はない。
メーヴェがやっとの思いで大剣にしがみつくと、ミラはメーヴェの背中に馬乗りになった。
(何?)
膝を締め、メーヴェの腰を固定する。さらに背中から覆い被さって背後から抱き締めた。
(なっ…な…な…)
内心でメーヴェは慌てる。自分の背中でミラのボリュームのある胸がひしゃげているのがわかる。飛び跳ねた心臓が元に戻らない。焦れば焦るほど、動揺が収まらない。
「何をしてる。さっさとしないか。図体だけは大きいってことを自覚して、私の負担を軽くしてくれ」
耳元で吐息とともに聞こえてくるのは甘い囁きではなく冷静な示唆だった。それでメーヴェは我に返った。自分のするべきことに専念した。
「大丈夫かなぁ、お師匠様…」
パールがぽかんと呟いた。
「うん…」
一平もぼうっと成り行きを眺めている。端で見ていてもドキドキしてしまう。メーヴェでなくたって、あんなことをされたら舞い上がってしまうだろう。それがわかってやっているのか、はたまた全く配慮していないのか…。多分後者だろうと一平は思った。
ナムルの囮作戦は続いていた。メーヴェとミラの方へは神獣の攻撃は届かない。
やがて見定めたとみえて、メーヴェたちが戻ってくる。
彼の診察結果はこうだった。
神獣の尾鰭の根元に腫瘍ができている。かなりでかい。人間で言うなら、踵丸ごとぐらいだ。しかも、症状はかなり進行していて、投薬だけで治る見込みはないと言う。悪い所を取り除くしかない。
「痛かったんだよ。…だから、誰かに治してもらいたかったんだよ…」パールが言った。「若い女の子を食べれば治るって、言い伝えにあったんだって。だから、捕まえて食べてみたけど、ダメだったんだって。お薬が欲しいのに、みんな食べ物ばかりをお供物に持ってくるから、しまいに腹が立ったんだって…」
「それも…神獣が言ったのか?」
「うん…。さっき…お師匠様が診てる時、蛇さん思ってた」
「……」
神獣の症状と今までの出来事を裏打ちするようなパールの言葉に三人は押し黙った。
「ミラ…」一平がまず口を切る。「何とかしてあげようよ。病気が治れば、神獣は元の通りになるさ。ボクたちで、できるだけのことをしてあげよう」
「しかし…」
口で言うのは簡単だが、具体的にどうすればいいのか。
「手術か…」
メーヴェが呟く。
「手術?なんだ、それは?」
ミラが尋ねる。海の中では手術は行われていないのだ。
「患部を切り取るんでしょう?そして、縫い合わせる」
一平が言うと、メーヴェは驚いた。
「知っているのか?」
「あ…ええ、まあ…」
一平は言葉を濁す。
「話には聞いたことがあるが、やってみた事はないんだ。どうしたって血が流れるし、止めようがない。それに…死ぬほど痛いはずなんだ、患者は」
「そう…でしょうね…」
「まさか、君は手術をしたことがあるんじゃないだろうな。もしそうだったら…」
代わりに執刀してくれ、と言われそうなので、慌てて否定した。
「ち…違いますよ。ボクだって、聞いたことがあるだけです」言ってから、思いついた。「そうだ。…麻酔なら…パールができるかも…」
また、言ってしまってからしまったと思う。パールはもう二度と診療には使役しないと言い切ったのではなかったか…。
しかし、自分だけ治してもらっている手前、そうも言い張れなくなってしまった。
「パール、やるよ。蛇さん、かわいそうだもん」
二つ返事のパールの言葉に迷いはない。純粋に、困っている者を助けてあげたいという優しい心だけが流れている。
「血止めなら、お師匠様できるじゃない。パールも手伝うから治してあげようよ」
パールの言葉にメーヴェは心を揺さぶられる。
しばし考えた後、四人は額を突き合わせて相談を始めた。手術の手順について。
パールが歌い始めた。神獣の心が鎮まるように、痛みが引くように、こちらの意図を汲んで協力してくれるようにと。
「珊瑚色の髪の乙女を差し出すべし。さすれば、神の怒りは鎮まり、ムラーラに平和が戻るであろう…」
パールが神獣のために歌い始めたのを呆然と見ながら、ミラが呟いた。
「それはこういうことだったのか…。珊瑚色の髪の乙女が、神獣の心を理解できると言う意味なのか⁈」
「まさか…こんなことが可能だとは…」
メーヴェと驚愕の色を隠しきれない。
それもそのはず。パールの歌声を耳にして、なんと神獣は暴れ回るのをやめたのだ。ゆっくりと体を伸ばし、歌声がどこから聞こえてくるのか探るように、辺りを見回した。釣り上がった目は閉じられ、再びゆっくりと胴体を下降させる。巨体がズゥゥン…と、砂地に横たえられた。神獣自身の意思で。
「鎮まった…」
居並ぶ人々が驚きの目で神獣を見る。それ以外に言葉がない。
鎮まったのは、神獣だけではなく、ムラーラの人々も同様だった。
神獣の頭はパールの方を向いている。パールは祠から少し離れた岩の上で、神獣のために歌を歌い続けていた。
その後ろにいる少年の姿が、神獣の瞳に映じた。
「ぐるる…」
警戒する犬のような声を上げた。先ほど攻撃を仕掛けてきた人間だと言うことがわかるのだろう。
「蛇さん。怒らないで。今治してあげるから。お師匠様とパールと一平ちゃんをそばへいかせて」
パールが両手を合わせて話しかけた。
神獣は牙を剥く。思考を投げかけてくる。
―ソイツハイヤダ―
はっ、と一平は目を瞠る。この声は…。
(さっき、聞こえてきた声だ。オリハルコンかと思ったが、あれはこの神獣の心の声だったのか…)
こういくつも不思議な体験をしていると、いちいち疑問に思っていられるものではない。自分に神獣の声を聞くことが可能だったことを発見しても、無条件に受け入れていた。
「一平ちゃんは必要なの。蛇さんの尻尾のできものは切っちゃわないといけないんだって。でも、他の剣じゃだめなの。切れないの。オリハルコンを使えるのは一平ちゃんしかいないの」
みんなで協議した結果、パールが痛みを止めている間に、メーヴェの指示で一平が執刀する、という段取りになっていた。それをパールは説明したつもりなのだが、どうにも言葉が足らない。
メーヴェも言う。
「私は医師です。あなたの腫瘍を取り除いて差し上げたい。それには悪い所を切り取るのが一番なのです。
―切リトルダト⁈―
「そうです。そして元の通りに縫い合わせる。でもご安心ください。この娘が鎮痛の術を心得ています。手術の間、痛みを感じずにいられます。もう、ご存知でしょう⁈」
無論、わかっていた。身体に突き刺さった銛や槍による痛みを和らげてくれたのがこの少女であることを神獣は承知していた。だからパールの声に応えたのだ。パールはメーヴェとの間の通訳までしている。
―ダガ、ナゼ、ソイツガイル⁈―
神獣は一平を警戒している。まだ敵だとの認識しかない。
「あなたのお身体には、残念ながら私たちの刃物では歯が立ちません。切り取ることができないのです。だが宝剣のオリハルコンなら可能かもしれない。それを抜けるのも使えるのも、この若者しかいないのです。…彼は一平。オリハルコンの剣の勇者です。私の指示で、彼に執刀してもらおうと思っています」
―オリハルコンダト⁈―
ジロリと、神獣は一平を見た。真っ赤に血走った恐ろしい目で、一平の姿と腰の剣を確認する。
―ソノ剣ハおりはるこんデデキテイルノカ?―
「はい」
一平が直に答える。
神獣が意外だ、という表情をした。一平がパールの通訳なしに自分の問いに答えたのに注目した。
―キサマガソノ剣ノ主ダトイウ証拠ハ?―
一平は一瞬考えてから言った。
「ここに…お見せします…」
彼は目を瞑り、瞑想に入った。オリハルコンに呼びかけているのだ。
(オリハルコンよ。力を貸してくれ。神獣を救うため、このムラーラを救うために、抜刀を許してくれ)
―おまえに、預けた―
返事が返ってきた。
一平は剣の柄に手をかける。
鞘から剣が滑り出す。一平の手元から温かく、白い光、オパール色の光が広がってゆく。
「おおおっ…」
固唾を飲んで見守る人々の間から、どよめきが起こる。驚嘆と感激とため息とが入り混じる。
―好キニ、スルガヨイ―
神獣は言った。ムラーラの神獣にとっても、オリハルコンは偉大な金属、それを使える勇者は味方であるとの認識であった。
神獣の応えを確認して、三人は神獣のそばへ進み出た。
と…、共に尾鰭へ向かうとばかり思っていたパールが、一人神獣の頭部に向かって泳いでいった。
「パール…」
慌てて一平が呼び止めた。近くにいて欲しい。心配だ。
「おまじないしてくるだけ」
一平は苦笑する。
パールのおまじないとはキスなのだ。
そんなことをこの神獣にするつもりなのか。なんて無鉄砲な、と複雑な気持ちになる。
一平はパールを追いかける。万が一のことを心配した。
「蛇さん。パールがおまじないしてあげるね。これすると、とってもよく効くんだよ。パール、いつも一平ちゃんにしてあげるの。ね、一平ちゃん」
振り返って同意を求められ、一平はまた面食らう。
「う…うん…」
頷かざるを得ない。だが面映い。これでは、いつもいつもキスされていると肯定しているようなものだ。
神獣の返事を待たず、パールは神獣の鼻面に唇を寄せた。相手が拒むなどとは微塵も思っていない。パールにとっては、全く自然な行為であった。
フゥゥゥーーッ…。
神獣は静かに息を吐いた。
パールは微笑んで離れ、一平に手を引かれて行く。
尾鰭の傍らでは、メーヴェが手術の準備を進めている。メーヴェの指示でパールが麻酔の準備に取り掛かった。
が、神獣の尾鰭に触れたパールはさっと手を引っ込めた。熱く、痛かったのだ。
それは即ち症状が重いことを示している。
施術者自体に悪い影響はないが、感じる痛みは本物だった。
パールの瞳から涙が溢れる。
「パール⁈」
訝しげに一平が問う。
「…かわいそう…。こんなに痛いのに…。みんなで寄ってたかって…」
ずきんと、胸が痛んだ。
一平も、その行為に加わったのだ。いや、むしろ先導した。そのことを後悔した。
―触角ハマタ再生スル。気ニスルナ―
神獣の思いが流れ込む。一平たちが触角を切り落としたことを悔いているのを、神獣は感じ取っているのだ。パールの優しい気持ちが神獣の心を癒しているのだろうか。
「…許してください。…あなたを治すことが償いになればいいけれど…」
一平は小声で呟いた。それで充分神獣には通じた。
パールの歌が力となって、神獣に流れ込む。ほどなく神獣は目を閉じ、安らかな眠りに入った。
「始めるぞ。一平くん」
メーヴェが呼び掛ける。
「…はい…」
一平は気持ちを仕切り直した。メーヴェの指示をよく聞いて言う通りにやらなければ。
メーヴェが患部に手を翳し、瞑想に入った。意識を集中して腫瘍の状態を見る。
メーヴェの指示は的確だった。一平は医術にはまるで素人だが、光るオリハルコンの剣は営利な電磁メスのようにすんなりと神獣の身体に差し込まれてゆく。
皮や肉を切り開いているのにもかかわらず、神獣は呻き声一つあげなかった。手術の間中、施術者と患者の耳には、常に少女の美しい音楽が鳴り響いていた。
パールの歌は神獣の痛覚を麻痺させるだけではない。初めて執刀に当たる一平の心の緊張と不安を取り除く役割を果たしていた。そして、メーヴェの集中力を高め、自信をつけさせる力も。
長く思われたが、やがて手術は終わった。切り開いたところを縫い合わせるのには、針や糸は使用しなかった。メーヴェが念力で皮膚と皮膚、肉と肉が馴染むように働きかけると、細胞同士は互いに磁力で引き合うように引き寄せられた。その様は見ていて脅威であり、その目で見てすら信じられない思いがする。完璧に元の通りにくっつくのにはまだ日数を要するようだが、取り敢えずは手術は成功に終わった。
「ふうー」
一番大きなため息をついたのはメーヴェである。この手術の総監督であり、責任者であるのだ。無理もない。
神獣はまだ麻酔が効いて眠っている。
ミラが労う。
「すごいな。おまえ。よく知ってたな、こんな方法」
「…知ってはいたが…試すのは初めてだ。…疲れた…」
頭痛でもするのか、メーヴェは大儀そうに額を支えた。
「やっぱりおまえはムラーラ一だよ。私の思っていた通りだ。傷の縫い合わせって言うのか⁈そいつもうんと役に立つぞ」
「…それはどうかな…」
「何⁈」
「実は…僕にもよくわからないんだ。切り取るところまでは理屈でもわかっていたが、その後の事は全く頭にはなかった。まるで、何かに導かれているように…自然に、するべきことがわかり、行えた」
「……」
「このオリハルコンの光が、勇気と力をくれたような、そんな気がする…。それと、パールの歌だ。不思議と落ち着けた…」
メーヴェが剣に目をやるのにつられて、ミラも一平の方を向いた。オリハルコンは既に元の鞘に収まっている。手術が無事に終わって、一平も放心状態だ。
(こういう効果があったのか…。オリハルコンには…。ただ、無闇と振り回して敵を倒すのではない、慈愛に満ちた、優しい力が…)
剣の主に、そういう心がなければ、それも不可能なのだろう。ミラはそう思った。
(それから、ナイチンゲールだ…)
パールの歌声はミラの耳にも届いていた。おそらく、この場に居合わせた全ての人々にも聞こえていたはずだ。神獣が手当てをされている間、周りが少しもうるさくなかったのは、この歌の影響だったのだろう。神獣の傷を思い、痛くないように、良くなるようにと発するパールのオーラが、人々をも同時に鎮めていたのに違いない。
パールのことも労ってやろうと、ミラは振り返った。
彼女は近くの岩場で依然として手を合わせて祈っていた。
「ご苦労さん、パール」
呼びかけたが返事がない。
「パール⁈」
覗き込んでもパールは目を瞑ったまま動かない。
不審そうなミラの声の響きに、一平は身を翻した。
パールが動かない。ぐったりと、目を瞑っている。
一平は青くなった。メーヴェに聞いたナイチンゲールの話が脳裏に浮かんだ。
「パール⁈」
まさか、施術のしすぎで弱ってしまったのか?
「…大丈夫だ。眠っているだけだ。力を使い果たしたんだろう」
パールの額に手を翳し、メーヴェが言った。
「…この子は本物のナイチンゲールだ。全てに優しい心も受け継いでいる」
「……」
「大事な人を助けたい一心で…と言うのも、そのままだ」
メーヴェが誰のことを指して「パールの大事な人」と言っているのか察した一平は頬を赤らめた。
ものすごくこそばゆい。
「…果報者め…」
一平の頭を軽く小突いた。こういう場合にするべきリアクションを一平は思いつけない。
「…メーヴェさんには、ミラがいるじゃないか」
苦し紛れに言って、一平はパールを抱き上げた。
「…一平くん⁈」
どうするつもりだ、とメーヴェは訝しんだ。
まだ一平はよろよろしている。毒は抜けたが完全な回復には至っていない。一度回復した直後に、とんでもなく精神と肉体を酷使したのだ。オリハルコンの力を使うということも、かなりの消耗を余儀なくさせるらしかった。
「やめとけ。僕が運んでやるよ」
「…ボクが…自分で、運んでやりたいんだ…」
一平の顔の上にもう照れは浮かんでいなかった。強い意思と、パールを思う心だけがある。
そんな一平をメーヴェは黙って見送ることにする。
一平の進む方向にはミラがいた。彼女が一平たちに気がついたのを認めると、彼は言った。
「パールの目が覚めたら…ここを出て行きます」
ミラは一瞬目を瞠ったが、すぐに頷いた。
「ん…」
「この子がいなくても、もう大丈夫でしょう?」
もう、助けてもらった借り以上のものを返した。これ以上、パールを消耗させたり、辛い思いをさせたりしたくなかった。
「ああ。…言葉では言い尽くせないくらい世話になった。おまえたちの望みを叶えに行くがいい」
「ありがとう、ミラ」
「礼を言うのはこちらの方だ。感謝に耐えない。ゆっくり、休ませてやれ」