第十七章 小さき手の姫
「やった‼︎」
メーヴェがガッツポーズをして叫んだ。
神獣は切りもみ状態で苦しがっている。巨体の動く勢いで、辺りの海は洗濯機の反転運動のように左右に揺らいでいた。
幸いにも一平は負けていたはずの賭けからも死を免れた。
しかしまだ安心するのは早かった。神獣は鳴き声の悲愴な割にはダメージはなかったと見えて、ほどなく気力を回復したのだ。電撃を封じることはできたが、相変わらずこちらに敵意を持っていた。動きが鈍くなったとも見えない。
「…しぶてえな」
ナムルが愚痴る。
その声に反応したのか、神獣はいきなり牙を剥いた。
ナムルも少々油断していた。水砲を食らい、足元を掬われた。上下の感覚が狂ったところへ再び砲を当てられて、くるくる回された。
「まずい…」
一平が手を貸しに出る。
ナムルの足首を捉えると、力任せに引っ張って、神獣の前から連れ去ろうと試みた。同じように頭の危機を救わんと繰り出してきた仲間たちに放り投げるようにして託す。
結果、神獣の一番近くに晒されることになったのは一平だった。防御態勢のまだ整わないナムルに神獣の気が向かないようにと、一平は神獣の前に留まり続けた。
―キサマハ…―
頭の中に声が響いた。
(オリハルコン⁈)
オリハルコンの剣からのメッセージかと思った。この経験はそれに近い。しかし、声の主が違うような気がした。
(まさか⁈)
一平が不審に思った次の瞬間、神獣は身動きした。遅いかかってきたのではない。ただ、胸鰭を動かした。扇子のように扇形に広げ、一振りした。
「う…」
毒素だった
ウーパールーパーのような胸鰭の付け根に潜ませた毒袋から毒素を出し、海水と混ぜ合わせて鰭で送り出す。その毒素は強力で、既に何十人もの人々がこの毒素の餌食となっている。
この毒を中和する力は、ムラーラの人々にはあまり培われていない。パールでさえ最低でも二分半はかかるのだ。
目が痛い。手足に痺れが来た。頭痛が激しくなり、目が霞む。息が苦しい…。
(まずった…)
毒素のことは知っていたはずだった。パールが必死に手当てする姿を、何人もその目で見ている。忘れていたわけではない。ちょっとした気の緩みだった。
(くそ…)
このまま動けなくなるのは目に見えていた。そしてこのまま果ててしまうのか。神獣にとどめを刺さないまま。パールを危険に晒したままで…。
(パール…)
パールの顔が思い浮かんだ。
一平と一緒に行くと言って顔をくしゃくしゃにして泣いた
今頃どうしているだろう。ミラはちゃんとパールを見張ってくれているだろうか。わがままを言って困らせているのではないだろうか。
もしそうなら飛んで行きたいと、一平は思った。
(ごめんよ。殴ったりして。…でも、おまえの安全を確保するためだったんだって、いつかはわかってくれるよな。パールは賢い子だから…)
(約束が守れなくて、本当にごめん。ボクはどうやらおまえの元に帰れそうにない。ボクが連れて行ってやるなんて、偉そうに言っておきながら…本当に、ボクは未熟者だ。自分の分も弁えないで…)
己の死を目の前にして、思う事は後悔ばかりだった。今更悔やんでも、それ以外にどうすればよかったのか、一平にはわからなかった。彼はそれなりに一生懸命生きてきた。それこそ、自分の限界を超えるほどの意気込みを、常に自分自身に課してきた。十五の少年にしては充分すぎるほど密度の濃い人生だったはずだ。
けれどやはり彼には心残りなのだ。自分の死と引き換えにパールが守れるのならそれでもいい。でも、この状態は彼の望んでいることとは違っていた。
このまま死ぬのは嫌だ。でもそれが叶わないのなら…せめて…せめて今一度、パールの笑顔が見たかった。
(女々しいな…。この期に及んで、まだボクは…)
今生の別れを覚悟してきたはずなのに、と一平は自嘲する。
―一平ちゃん―
パールの声が聞こえた。
(幻聴まで聞こえて来ちゃったよ…)
「一平ちゃん!」
声は次第に大きくなる。あの世からの使いは愛しい人の姿をしているのかな、と一平は思った。
朦朧とした頭と霞む目で、彼はパールの姿を見ていたのだ。両手を前に差し伸べて、必死にこちらへ向かって泳いでくる。
誰かにがっしりと身体を掴まれた。ついに神獣の手の内に嵌ったか、と覚悟する。
しかし変だ。蛇型の神獣には手などないはず。しかしこの感触は、紛れもなく人間の手と腕、そして人のぬくもりだった。
一平は岩の上に横たえられる。小さな手が彼の頬に触れる。首っ玉に抱きつかれる。
(パール⁈…)
この感覚はいやと言うほど知っていた。この温かさも、柔らかさも、そして懐かしく香しい匂いも…。
「パールはおまえに返すぞ」
(ミラ⁈)
いきなりひどくはっきりとした女の声がした。パールを伴い、祠近くまでやってきたミラが一平を神獣の前から救い出したのだ。一平を見下ろして、仏頂面で言う。
「こんな泣き虫は、私の手に負えない。トリトニアまで同行するのなどごめんだ」乱暴な言い方をしているが、優しさが滲み出ている。「自分で連れて行くんだな」
(ミラ…)
意識がしっかりし始めていた。一平に抱きついて、パールは一心不乱に何かを念じていた。毒消しの術を施しているのだと思われた。しかし、やり方が違う。診療所でパールは患者にこんなふうに抱きついたりはしていなかった。
頭痛が収まってゆく。目の霞みもとれ、麻痺が軽減している。
理屈ではなかった。パールはいつも、自分の心の赴くままに施術をする。それが一番確かなのだ。治したいという彼女の心が、癒しの力となって一平の身体に流れ込んでゆく。
一平の顔色に赤みが戻る。呼吸が普段普通りになっても、パールは一平から離れようとしなかった。もう絶対に離れるものかとでも言うように固くしがみついている。その体も微かに震えている。
泣きたいのを堪えているのだ。
一平が死にそうなのを知った時には生きた心地がしなかった。けれど、何とか間に合った。一平はちゃんと生きている。大好きなこの胸の温かさと確かな鼓動の音が、パールにそれを知らせている。
よかった。本当に、よかった。
でもその一方で、一平の言いつけに従わなかったことを、パールは心苦しく思っている。何でも言うこと聞くと言ったくせに、来るなと言われたのにこうして来てしまった。約束を破ったことにならないだろうか。一平に愛想を尽かされてしまわないだろうかと。
だからパールは顔を上げられない。何より見たい大好きな人の顔を正面から見ることができない。
「おまえ…」
来るなと言ったのに…。そう続けそうになったがやめた。パールが来てくれたから、一平は一命を取り止めたのだ。文句を言うなど、以ての外だった。
代わりに彼はパールを抱き締めた。…つもりだったが、力はまだ入らなかった。かろうじて届いたパールの背中を叩いて、気持ちを伝えるのが関の山だった。
「ああああーーーん」
堪えきれずにパールが泣き出す。いつものことだ。一平の胸に、温かいものが切なく流れた。
その様子に顔を綻ばせながら、ミラが言う。
「後は私らでなんとかする。長老どもも、もう目が覚めただろうよ。自分の国くらい自分たちの手で守れないで、国の存続を云々する資格などないことをな」
思わせぶりに振り返った視線の先には、海人の集団が出現していた。ムムール総裁をはじめ、長老団も政務官たちも、そしてありとあらゆる役職の人々が。
あれから、謁見の間は喧騒と紛糾の坩堝と化していた。
衝撃的な事実をいきなり見せつけられて、呆然自失状態だった人々は、我に帰ると侃侃諤諤と口々に喋り出した。話題は、ここ何十年も排出し得なかったオリハルコンの剣の主が現れたことに尽きた。それがまだ成人したばかりの少年で、しかも他国人であることも、事実を隠していたのが総裁の一人娘のミラであったことも、十二分に議論の的となるところだ。
混乱を鎮めたのは総裁自身であった。ムムールは家族には有無を言わせない独裁者の傾向があるが、国を治めることにかけては有能であった。頭は切れ、権謀術数にも長けていて、政治的な手腕は優れた人物である。当然国民の信望も厚く、ムラーラは今まで丸く平和に治まっていたのだ。
勇者の出現とあっては、どうしても占いの内容が思い起こされる。事実、ムラーラには未曾有の危機が訪れつつあり、それを解決するべく、勇者と一平少年が行動を開始したのだ。これに心を動かされずにいられるとしたら、よほど精神の鍛錬を積んだ仙人か、まだ白紙状態の赤ん坊くらいのものだろう。
いくらオリハルコンの剣を抜けるといっても、現在のムラーラの人々はオリハルコンの威力を目の当たりにした事はない。果たして占いの通りに勇者がオリハルコンで事態を収めることができるのかどうかの確信は持てない。占いを生業とする占者だけは信じるしかないだろうが、その他の人々はどうなることかと固唾を飲んで見守るだけだった。オリハルコンの威力をこの目で見よう、勇者と呼ばれる少年の姿を一目見ようと、殆どの者はそれだけのために神獣の祠へと向かった。総裁の判断である、勇者と力を合わせて神獣をどうにかしよう、という狙いからは少々外れるが、敵味方で分けるなら、人々は全て一平の側に味方していた。
こういう噂はあっという間に広がるもので、元首邸を発信源として、ムラーラの老若男女に情報が行き渡って人々が集まるのに、そう長い時間は必要としなかったのである。
やって来た人々の中には武術に秀でた者も多かった。軍隊はなくとも、愛国心の旺盛なムラーラ国民は身に付けた武力を国のために使うことを拒みははしない。むしろ、自ら進んで戦いへの参加を願い出た。しかも勇者が現れたのなら、そば近くへ行って直にその目で戦いぶりを見なければ。オリハルコンを抜ける者になる事は、彼らの憧れの一つでもあったのだから。
「お師匠っ‼︎」
ミラを見つけてすっ飛んできた一団がいる。
ムラーラ武術場出身のミラの門下生たちだ。既に成人してそれぞれの道を歩んでいる働き盛りの青年たちである。
「久しいな。皆、息災か?」
「ご覧の通りです。師匠も全然お変わりなく…」
「空々しい世辞はいらんぞ。欲しいのはおまえたちの武力だ」
「もちろんです。そのために、こうして馳せ参じたんですから」
くだくだとしたやりとりを必要としないのは、ミラの教えが染み付いているからだ。呆れるほどすんなりと、ミラの教え子たちは彼女の要請を受け入れた。
「ところで、師匠。どこです?噂の勇者、オリハルコンの剣の主は⁈」
すぐそばでひっくり返っている青二才がその勇者だとは、誰も思わなかったらしい。青年たちの一人が尋ねてきた。
ミラは苦笑しながら指を差す。
「そこに転がっているのが一平だよ。おまえたちの後輩だ」
「ええっ⁈」
そんなに驚かなくてもいいだろう、と一平は少しだけ気を悪くした。確かに、今の自分の状態は意外に思われても仕方のないものだったが。
「神獣の毒素にやられたのだ。だが、そう心配はない。今、このナイチンゲールが癒してくれているところだ」
「君たちも気をつけろ。あの胸鰭が大きく開いた時が危ない。ひとたまりもないぞ。…だが、電撃の方は彼とナムルが使用不能にしたから、安心したまえ」
「へえ…」
メーヴェの説明を聞き、ミラは頓狂な顔をする。あの弟と一平が一致団結して何かを成し遂げるなど、あるはずがないと思っていたのだ。
「それだけでも大きな功績だな。…諸君、聞いての通りだ。神獣の電撃はもう恐れなくてよい。胸鰭からの毒素に注意して攻撃に当たれ。私に、ついてきてくれるな⁈」
「おおっ‼︎」
並居る全員が腕を差し上げてミラの言葉に応えた。
意気高揚して喜ばしい光景だが、メーヴェだけは表情を曇らせている。
(…やはり、こうなってしまうのか?ミラが彼らを率いていくのは、避けられない運命だったのか?)
「ミラ…ボクも行きます…」
この様子に黙っていられず、一平は申し出た。まだ回復しきっていない息の下から。
「おまえはもう少し休んでいろ。そのままでは剣も持てまい。後でゆっくり、こいつらにオリハルコンを拝ませてやってくれ」
そうだとも、と言いたげに、青年たちが首を振り、一平を注視する。
「……」
「おまえは、切り札だからな」
ミラの目が笑っている。下心があると言った時と全く同じ口調であった。
「しっかり捕まえとけよ、パール」
「うん!」
ミラに言われてパールは張り切る。
「ミラ!」
なおも呼び止めようとする一平をパールが制した。
「だめなの‼︎」
いつになく強い調子に一平は面食らった。
「もう少しで死んじゃうとこだったんだから‼︎」
「……」
「死なないって、言ったじゃん‼︎」
「パール…」
「嘘つき!嘘つき、嘘つき!一平ちゃん、嘘ついたあ…」
もうすでにパールは泣き声だ。
「パール、置いて行かないって言ったのに!トリトニアに一緒に帰るって…」
「パール…」
パールの顔はくしゃくしゃだった。堪えていた気持ちが溢れ返る。
―また泣かせてしまったか…―
でも、泣いている顔もかわいいと、一平は思った。
泣きじゃくるパールの頭を引き寄せ、胸に凭せ掛けた。そのくらいは動けるようになっていた。
少し離れた所から、ナムルはその様子を眺めていた。
パールに心配してもらっている一平が羨ましくて、妬ましかった。
こんなことなら、自分も毒素にやられればよかったと、ちらりと思った。
でも、あいつはパールの兄貴なのだから仕方がないかと、ため息をつく。
が、もちろんそんなことばかりを考えていたわけではない。
水砲のショックからはもう立ち直っていたので、武道家たち―それぞれの職についてはいたが、ミラの教え子たちが皆、武道家であることには変わりない―がミラのもとに集結して、鬨の声を上げるのをちゃんと把握していた。
彼らはナムルにとっても先輩である。少々立場は異なれど。
「ナムル。もう少し持ちこたえられるか?」
ミラが訊いてくる。
「あたりきさ」
ナムルも即答する。
「編成を組んだらすぐ交代してやる。それまで頑張れ」
所詮は寄せ集めの部隊である。がむしゃらに、勝手気ままに攻撃しても烏合の衆であり、効果は期待できない。命令系統のそれぞれのトップを誰にするか、ミラの頭の中は目まぐるしく働き続けていたのだ。
「おうさ!」
「…パールにいいところを見せるチャンスだぞ」
ミラは去り際にこっそり耳打ちした。
「‼︎」
―なんでそんなこと知ってんだ⁈―
一平には宣言をしたが、ミラに言った覚えはなかった。思ったことがすぐ顔に出ると言うことを、ナムルは自分で意識していない。メーヴェはもちろん姉のミラにもナムルの一派の仲間たちにも、実は彼がパールに気がある事は知れ渡っていると言うことも、ナムルには考えも及ばないところだったのだ。
でも、―よし、―とナムルは思う。
根が単純なので、ちょっとでも心に引っ掛かるとその通りだと思い込む傾向にある。
―絶対に、手柄を立ててやる―
ナムルは決意を新たにして仲間たちに号令をかけた。
寄せ集めとは言え、ミラの率いる集団は統制がとれていた。人員の配置が良かったのだろう。年長者で信頼の篤い者ばかりをグループのリーダーに据えたのが功を奏した。全員が一度に疲れてしまわないように、逆に神獣には休む隙を与えないように、何班にも分けて順次突撃隊を繰り出した。
ミラの采配を見てメーヴェは少し胸を撫で下ろした。ああして指揮を執っているうちは、ミラに直接被害が及ぶ事はないだろうと思えたからだ。もし万が一、ミラに何かあったならば、すぐに飛び出して行けるようにと、メーヴェは片時もミラから目を離そうとしなかった。
一平の力になろうとここへやってきたメーヴェだったが、既に一平のそばにはパールがついている。自分より遥かに偉大な力を持っているパールが。一平の事は彼女に任せておけば大丈夫だ。無意識にもそう思っていたのかどうか、とにかくメーヴェはミラから目を離せなくなっていた。
そのパールは相変わらず一平にくっついている。さすがにもう抱きついたりしがみついたりはしていないが、一平の前に座り込んで施術を続けている。痛みはとうにない。目もほとんど霞んでいない。痺れはやっとなくなったが、思うようには身体が動かなかった。
少し前から、パールは歌うことで施術を行っていた。赤ん坊を寝かしつける時のようなささやかな、静かな歌声だ。この声にはいつも気持ちを落ち着かせられる。パールは今、一平のためにだけ歌っていた。一平にしか聞こえないくらいの小さな小さな声だった。
その合間に若者たちの掛け声や、武器が水を切る音、そして、神獣の叫び声が聞こえてくる。
ミラ部隊の突撃隊は一巡した。さすがの神獣も激しく呼吸をして動きが鈍くなってきている。疲れてきている事は間違いがなかった。身体の至るところに刺さった銛や槍が、神獣のシルエットをとげとげの背びれが生えた蛇のように見せている。
(ああ…。なんて…、なんて、憐れなんだ)一平は思った。(ムラーラの人々に崇められ、大切に思われてきた神の使いだと言うのに…)
神獣の鳴き声は、最前よりもずっと哀しげな憐憫の情を誘う響きに変わってきている。
ミラが戻ってくる。擦り傷の手当てをしようとするメーヴェを振り切り、一平に尋ねる。
「どうだ?具合は?戦えるか?」
「ええ、もう動けます…」
「そうか、よかった。我々の武器では突き刺すのが関の山で、どうしても断ち切ることができん。オリハルコンの出番だと思うのだが、やれそうか?」
己の体の状態に関して言えば、やれると言えた。しかし、あの悲痛な鳴き声を聞いてしまっては…。
「…どうしても…殺さなければならないのでしょうか…」
「今更何を言っている?おまえが言い出したことだろうが」
そうだ。口火を切ったのは確かに自分だ。疑問を抱きながらも。
「……」
考え込む一平にパールが尋ねる。
「神獣さんを殺すの?一平ちゃんが?」
「…一平にしかできないかもしれないのだ。手は尽くした。後はオリハルコンの剣の力を試すしかない」
一平の代わりにミラが答える。
パールは眉間に皺を寄せる一平の顔をしばし見つめ、再び言った。
「白い蛇さん…泣いてるよ」
「何?」
三人が同時に聞き返す。
「痛いよ、痛いよって、苦しんでるよ」
「おまえ、神獣の言葉がわかるのか?」
ミラが問い詰める。
「うん、蛇さんは喋れないの。でも、何を言いたいのかはわかるよ」
海人の言葉以外にも、パールは鳥語を理解していたし、日本語の覚えも驚異的に早かった。パールの言っている事は真実だろうと一平は思う。これも、彼女の持つ才能の一つであるに違いない。
「…本当だと、思います。話が伝わるのなら、血を流さずに解決できるかも…」
一平が後押しした。
「どこが…痛いって?」
「ええとね…」
パールはじっと神獣を見る。しばらく見回してから指を差す。
「あそこ。尻尾の方に、何かできてる」
神獣は尾の先を祠に突っ込んでいる。そのため、彼らの視界には入らない。
「病気みたいだよ。お師匠様、治してあげようよ」
驚いたのはメーヴェである。彼らムラーラの人々にとって、神獣は神の使いにも等しい存在だ。自分たちたかが人間に、神獣を思うままに扱ったり、何かをしてやったりなど、できるはずがないと思っている。それを、パールはこともあろうに、医療行為をしろと言っているのだ。難病に困った末に神頼みをされる側の神獣に、だ。
「そんな…無茶だよ…」
「どうして?」
メーヴェの戸惑いにもパールは臆さない。
「どうしてって…。相手は神獣だよ⁈」
「でも、同じ生き物じゃない」
道理である。
「…やってみよう、メーヴェ。私も手伝う」
「しかし…どうやって…?診察しようにも、あの状態じゃ…」
剣術も体術も拙いメーヴェでは、近寄った途端に跳ね退けられてしまいそうだ。
「おびき出そう。尻尾が出てきたら取り付け。取り敢えずは診断が必要だ」
「ばか言うな。診察するのにどれだけ時間がかかると思っている?しかも、じっとしている患者ならともかく…」
「安心しろ。おまえは私が守る。おまえは診察して治すことだけを考えてればいい」
「……」
あっさりと言ってのけるミラにメーヴェは思わず絶句する。大の男が女性に言われるようなセリフではない。
「何を呆けている?私が信用できないのか?」
「いや…そういうわけじゃ…」
「だったら、言う通りにしろ。もたもたしてたらもっと犠牲者が出る」
メーヴェは神獣の方を見上げた。ナムルたちが苦戦している。
このままでは…。
メーヴェが意を決して頷くとミラが怒鳴った。
「ナムル‼︎」
弟を呼び寄せると作戦を告げた。呼び寄せられた所にパールがいて、しかも一平に寄り添うようにしてくっついているのを見ると眉を顰めたが、この姉には頭が上がらない。ミラがナムルを囮に使うと告げても、勇気があるところを見せるいい機会だと、逆らう事はしない。
「見ててよ。パール。俺、うまくやってみせるからな。そこの役立たずの兄ちゃんとは出来が違うんだぜ」
むっと、顔を顰める一平を尻目に、ナムルは踵を返した。
気に入らないが、確かにナムルは腕が立つ。ミラの指示した通りに仲間たちを動かして、神獣を扇動していった。痛みと怒りで我を忘れている神獣は、冷静な目で見てみれば、ただの動物だった。神獣という言葉に惑わされて、誰もが自分にプレッシャーをかけていたのだと、ミラは悟った。
ナムルたちの動きを見守り、尾の先が現れるのを今か今かと待つ。
ミラとメーヴェの二人は祠の近くへ移動していた。
元々があまり活劇には縁がないメーヴェだ。こんな間近で暴れ回る神獣を目にしては、どうしたって身体が震えてくる。惚れた女の前で、みっともない姿を晒したくないと思えば思うほど、自分一人にかかってくる責任が重く感じられて、冷や汗が流れる。
「…いいぞ。もう少しだ」
ミラの方は場数を踏んでいる。少しも臆する様子がない。自信と戦いを楽しむ心がこんな折でも感じられる。そのことが口調でわかる。
「神獣に乗ったらすぐ診察に入れ。おまえの身体は私が固定するからその事は考えるな」
「どうするつもりだ?」
「考えなくていいと言ったろう」
「教えてくれたっていいじゃないか」
「私を信じろ。悪いようにはしない」
「…君は…怖くはないのか?どうしてそこまでできる?」
「さぁ、どうしてかな。…おまえは?」
問われてメーヴェは思った。それは君が心配だからだ、と。
だが、言わなかった。言う間もなかった。神獣の尾が二人の目の前に現れた。